第512話 能登にて七人衆との会談と、岐阜での一節
天正元年(元亀三年・1572年) 三月五日 能登国
純正一行は天堂城下で昨日歓待を受け、翌日登城して改めて挨拶を受けた。
「畠山修理大夫
昨日の車中で会話を交わした同一人物とは思えないほど、礼儀をわきまえた挨拶である。
「権中納言にござる。面を上げてくだされ。堅苦しい話はなしにしましょう」
純正はもとより堅い話は苦手であるし、蝦夷地交易の中継地としての話と越中守護の勢力拡大の話
「それでは権中納言様におかれては、小佐々家と蝦夷地を、この能登の地を経て交易を行いたい、と仰せなのでしょうか?」
畠山七人衆筆頭(当時)である長
「左様、いずれの地を経ずとも蝦夷地と肥前を行き交うこと能うが、船乗りたちの福利厚生のためにござるよ」
「? 福利、厚生……とは?」
「ああ、要するに船乗りたちのための気晴らしにござる。酒も飲みたければ女も買いた……いや、芸妓遊びもしたいでしょうからな」
「ははは、左様にござりますか」
純正の訂正で意味を理解した続連は、続いて尋ねる。
「ではわれらと小佐々の御家中は和を結び、蝦夷地との中継ぎの湊としても、盛んに交易を行っていく、という事でよろしいでしょうか」
「相違ござらぬ」
義慶はもとより、重臣一同から笑顔が漏れる。一時は時の人である純正から書状をもらい、喜びはしたものの、半信半疑ではなかったか? というと嘘になる。
日高喜からも聞いていたが、畠山氏にとっても当然悪い話ではない。しかしそれと同時に、何か裏があるのではないか、とも考えたのだ。
温井氏は
長氏の支配する穴水も海上交通の重要な補給港であり、帆別銭他でかなりの収入があった。家中における軍事力を背景にした権力は、穴水の賜物といえるだろう。
遊佐氏は北能登
しかし性能のよい越前や瀬戸の陶器が発達してくると、すたれた。
そして、畠山義慶が領するのは所口湊である。
古くから同じように日本海海上流通の補給路として栄え、すぐ南に畠山氏のお膝元である能登府中があったので、他の湊とは少し違う発展の歴史があった。
七人衆の思惑はあるだろうが、純正がどこを選ぶかは、本人と義慶以外には知るよしもない。
「あわせて、皆様にご覧に入れたい物がござる」
純正はそう言って、発給された『越中守護たる任を果たせ』との勅書を見せた。
「……これは?」
「お聞きおよびかと存ずるが、越中にて神保と椎名の争いをもとに、一向宗と上杉が入りて争いはさらに大きくなりておる。それゆえ民は困窮しておるそうな」
「はい、そのように聞いております」
「様々な思惑が絡んでおるゆえあながち(一概)には言えぬが、今は椎名・神保とも上杉にのまれ、反一向宗という事でひとつになり、越中を統べようとしておる」
「……」
「過日、この甲斐守(日高喜)と治部少輔(太田和利三郎)が越中と越後に赴いて
純正は先日の本願寺との会談と、上杉との会談の次第を話した。
「それゆえ、権中納言様の力を借りて、わが家中の越中守護たる格式をもって和をなせ、という事にございますか」
「左様。然りながら力と言うても軍旅(軍隊)をもって軍旅を制するは上策にあらず、まずは古からの権(権威)をもって制すべし、と存ずる」
要するに小佐々が軍事以外でバックアップするから、安心して権威を前面に出して、上杉を蚊帳の外にして越中国内で一向宗との争いをやめさせろ、という事なのだ。
ただし、出された勅書は畠山に対してであり、越中の神保や椎名、一向宗に向けての物ではない。
「対馬守(長続連)、こたびの件は……」
義慶が意見を続連に言おうとする。
「殿、殿がわざわざ案ずる事にはござりませぬ。このようなことは、われら七人衆にお任せあれ」
予想通りの反応だが、義慶は気を落とし、純正は顔には出さないものの苛ついているだろう。
「あい……わかった」
義慶がそう言うと、七人衆は続連を中心に何やら話し始めた。
織田派の続連としては、信長の同盟相手である純正と懇意にするのは悪手ではない。親上杉の遊佐も、親一向宗の温井も、争いがなくなれば、それに越したことはない。
……。
「では殿、我らで合議した末、権中納言様のお考えに
「あい……わかった」
義慶の返事は暗い。が、いつもと同じ暗さではなかった。未来を見据えての事である。
会談の後さらに饗宴が催されたが、純正一行は一晩泊まって敦賀へ戻った。
もちろん能登には医者の戸塚雲海(船酔い)と原田孫七郎、村山等安、安藤市右衛門、高島茂春他数名の従者が残った。
原田孫七郎以下の七人は肥前の商家の出であり、交易の心得もある事と、全員が陸海軍にて訓練を受けているので、暗殺防止に純正が選んだのだ。
■岐阜城
「……そうか、やはり義弟(浅井長政)の言っていた事は誠であったか」
京から岐阜までの街道は、純正の技術援助で完了している。
その後は各々街道の整備を行っていたが、長政は近江において琵琶湖東岸の北へ向かう街道を、伊香郡の若狭国境まで拡張させていた。
権中納言(純正)様 敦賀に
あわただしき(突然の) 仕儀(事) なれば 急ぎ 饗応の宴を 催して
いずこに
加えてそこな(その・そこの)争ひは 越中守護なる 畠山の
守護の勢力 大なれば 神保と椎名の争ひは 起きじと思ひけむ(起きなかっただろう) と仰せけり候。
恐々謹言
天正元年二月二十四日 長政
織田兵部卿殿
あわせて朝廷内の近衛前久の情報によると、越中に関して純正が静謐を求め、朝廷がそれに応じて勅書を出したようだ。
幕府の長たる義昭、つまり権威不在では、誰かが中心となって天下に号令をかけなければならない。そうでなければ平和は望めないが、必然的に信長もしくは純正が中心となる事を意味している。
信長としては結果的に武田と和睦する形になったが、包囲網の残りを片づけ、朝倉を討伐することが第一義であった。
同様に、純正は越中の安定こそ、上杉と織田の衝突を抑え、平和をもたらすと考えたのだ。
「純正め……いや、その家臣ども、といったところか。確かに一理あるが、いずれにしても我らが勢を強めようと欲すれば、東に進むしかない。武田とは和睦し北条は遠い。上杉とはこのまま誼を通じて、次は加賀を手に入れなければなるまい」
「左様にございます。謙信ある限り越後を獲るのは
「ふむ」
信長の、独り言とも言える発言に秀吉が答える。
信長としては純正と同盟を結んで同列になるのは、ここに至っては仕方がないと考えているようだ。
むしろ小佐々の勢力は九州や四国を統べた時に織田と同等以上の力をもっていた。
同盟を組んで西の脅威を取り除き、東へ進もうと考えていたが、武田との和睦の話が入ってきた。
純正と同列になるのは仕方がないが、立場が下になるのは避けなければならない。
そうでなくても力は明らかに小佐々が上なのだ。
ここは加賀を制圧し、越中を手中に入れてから力を蓄え、謙信と雌雄を決するより他はない。織田家が生き延び、最悪、不本意ではあるが、二番手として時機を待つためである。
純正は南方に手を伸ばし、驚愕すべきだが、南蛮の艦隊を破った。蝦夷地との間で、松前の蠣崎氏を介さずに交易をする事なども含め、尋常な事ではない。
信じられない事ではあるが、小佐々に抗う事などできない。
しかし、しかしだ。せめて日ノ本の東半分は手中に収めなければ、小佐々以下のただの大名に成り下がってしまうのではないか?
外面はともかく、正直なところ、内面は焦燥にかられていたのだ。
今に始まった事ではないが、小佐々家と親交を保ちつつ、いかに自らの勢力を拡げるか? それが信長の今後の戦略の第一義であり続けるのであった。
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