第471話 五畿七道から五畿八道へ。蝦夷地開拓事始め。

 遡って元亀二年 七月十九日 蝦夷国 松前


「夏だというのに……まったく暑くありませんね。旦那様」


「そうだな、藤兵衛。まあ、これだけ北に来ればそうなるのだろうな。私にとってもここまで北に来るのは初めてなのだ」


 九州の肥前から蝦夷地の松前に向うには、通常博多を含めたいくつかの湊を寄港地として経由する。 


 山陰の温泉津や杵築湊に美保関、若狭の小浜、越前の敦賀や三国湊がそうだ。


 さらに北へ向かえば越中の放生津、越後の直江津に柏崎、出羽国の酒田湊や秋田湊、そして陸奥国の十三湊など、大小様々の湊がある。


 当然ながら時間がかかるという事は、人件費や食費、その他諸々の経費がかさむので、物の値段が上がる。しかし、距離はどうにもできない。


 北の海、北の大地でしかとれないものは、そこで得るしかないのだ。


 胡椒や様々な香辛料、香料やコーヒーやカカオなど、熱帯性の植物が日本で露天栽培が難しいのと同じである。


 流通路としては江戸時代から明治・大正にかけて発展してきた北前船が有名だが、これは大坂から瀬戸内海を通って日本海に出て、北海道とを結んだ。


 年に二往復ほどできたようだ。


 もちろん十六世紀の戦国時代には存在しない。


 北前船は寄港する港毎に高ければ売り、安ければ買いを繰り返して、一度の航海で千両もの利益を出したそうだ。


 しかし、それをそのまま戦国の世に当てはめることはできない。


 東北や北海道の産物を扱うのは、近江商人が多かった。敦賀や小浜で陸揚げされた産物を、琵琶湖の海運を使って京大坂で販売したのだ。


 そしてそれが、長い間の主要な流通路であった。


 小佐々領からは米や塩、味噌などの生活必需品に加えて、小刀や針をはじめとした鉄製品、古着や反物などの織物、そして石けんや酒を運ぶ。


 さらには琉球や東南アジア、中国の産物などとあわせ、胡椒などの香辛料も運ぶようにする。


 帰りの船では蝦夷地の特産である熊、鹿、ラッコ、アザラシなどの獣皮、熊の胆(い)や鷲羽、干し鮭、串貝、いりこ、昆布、干しダラなどの乾物、オットセイ、エブリコなどの薬物を運ぶのだ。


 松前の商人は介さない。近江の商人も介さない。


 マージンを取られることなく、直接取引するのだ。


「その……旦那様、今さらではございますが、本当に上之国村(現在の北海道檜山郡上ノ国町)より北に行くのでしょうか?」


 藤兵衛は確認するかのように、恐る恐る聞く。


「無論だ。私は小佐々の殿様に、蝦夷地の探検と商いの先を探すように言われているのだからな。それに兄から任された太田和屋を大きくせねばならない」


 そう言い放つのは、大蔵大臣である太田和弥市の弟、太田和屋弥次郎である。


 弥市が商売の一線から退いて店の全権を担うようになったが、純正が諫早に居城を移してから、多以良や太田和の湊は少し活気がなくなってきたのだ。


 もちろん純正が転生してからの発展は著しく、並の、例えば平戸や口之津に勝るとも劣らない賑わいである。


 しかしそれでも、弥次郎は不満であった。


 地元を中心とした小さな商いから、少しずつ規模を大きくしてきた。


 さらに拡大していくために、大枚はたいて旧式の洋式船を二隻購入し、船乗りの訓練も地道にやって備えてきたのだ。


 そこで、純正からの指令である。以前からの資金援助はこのためだったのだ。


『蝦夷地と肥前を結ぶ、北前(日本海)航路を開拓せよ』


 最初に純正からその話を聞いたときは、

あまりのスケールの大きさに尻込みしたほどである。

 

 しかし、この機を逃せばもう二度と来ないだろうと判断した弥次郎は、決断したのだ。


 純正の着眼点は、当時松前の商人が独占していたアイヌの交易品を、松前商人を介さずに行う事。


 そして寄港せずに直接肥前まで運ぶ事で、中間マージンとコストを削減し、利益を得ようとする点である。


 そのためには、蝦夷地の和人(当時の本州以南に住んでいた人)の住む松前よりも北に行って、拠点を作らなければならない。


 渡島おしま半島南部の松前と、そこから東は知内しりうち村(北海道上磯郡知内町)、西は上之国村までが和人の住める場所であった。


 内陸部は明確には決まっていなかったが、上之国村から南東へ天河があり、それが境目とされてきた。


 現代では、アイヌ民族を迫害して不平等な交易を行い、同化政策を行ってきたというのが定説であるが、十六世紀までは少なくとも対等に交易を行っていた時期があったのだ。


 蠣崎氏は1529年にタナサカシ、1536年にはタリコナといったアイヌの有力な酋長を謀殺して支配を固めた。


 しかしその後の1551年ごろに、夷狄の商舶往還の法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)という条約を、二人のアイヌ酋長と結んでいる。


 シリウチ(現上磯郡知内町)一帯に居住するアイヌの首長チコモタインと、セタナイ(現久遠郡せたな町)一帯に居住するアイヌの首長ハシタインである。


 蠣崎季広は、わざわざ宗主である安東舜季の立ち会いの下で、講和を結んだのだ。


 前述した居住地の件や和人のアイヌ人の土地への移動制限、季広が他国との交易で得た関銭の一部をアイヌに支払う事、シリウチ沖や天河の沖を船が通過する際は帆を下げて一礼する事などが定められていた。


「しかし、上之国村より北は、われらの住める場所との決まりはありませぬ。いらぬいさかいが起こりて蠣崎や安東を怒らせるような事になりませぬか?」


「そうならぬよう細やかに用心するのだ。アイヌ語のわかる通詞を雇い、少しずつ、少しずつ北へ向かうのだ」


 弥次郎としても危険は承知の上である。


 しかし莫大な利益が得られることはわかっているのだ。


 純正は援助を行い、海軍から航海者の派遣も行って、利益の六割を弥次郎にやるという約束をした。


「それにしても、松前の商人が、米二斗と鮭五束(一束二十尾で百尾)を交換しているのには驚きました。鮭は一尾で最低でも八十五文(一文120円計算で約10,000円)はいたします。これだけの利があれば、千石船で千両儲かるというのもうなずけます」


「うむ。儲けを出し、そして船を買い、そしてまた儲ける。これを続けて、太田和屋を大きくするのじゃ」


「はい」


 弥次郎と藤兵衛は、皮算用を続けながら、通詞を探し、着々と準備を進めるのであった。

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