第472話 降伏と和議と異見十七箇条

 元亀二年 八月十一日 逢坂の関


「申し上げます! 敵方よりの使者、来ましてございます」


「通せ」


 暫定京都師団長の神代貴茂少将と将棋を指していた純久は、淡々と近習に伝える。使者がうんぬんというよりは、貴茂の手をどう崩すかが気がかりのようだ。


 しばらくして使者が陣幕の中に入って来た後、挨拶をする。


「はじめてご尊顔を拝しまする、山岡美作守(従五位下)景隆にございます。治部少丞(従六位上)様におかれましては謁見の栄誉を賜り、恐悦至極に存じまする」


「世辞は結構にございます。それに貴殿の方が位階は上(一つ上)。面をあげてください」


 そう言われた景隆は顔を上げ、純久と正対する。


 小佐々家中における対朝廷ならびに対幕府と、畿内周辺の外交全般、そして東国の外交一切を純久は取り仕切っている。


 いまでは京の警備を担う検非違使別当の純正の代理人として、一万二千の兵を率いているのだ。


「さて、こたびは一体、何用でおいでになったのでしょう」


 わかりきっている事なのに、あえて口に出させる。これも交渉の手法の一つなのだろうか。しかし、この状況では交渉も何もない。


「は、さればわが軍は近衛中将様と事を構える気は毛頭ござりませぬ。兵を挙げたはあくまで弾正忠に対してにございます」


「はい」


「公方様におかれましても、これ以上の戦は望まず、天下静謐のために和議を願っておいでにございます」


「なに?」


 純久の顔色が変わった。


「天下静謐、ですと? しかも、和議とな?」


(降伏ではなく、和議なのか?)


 ゆっくりと、確かめる様に純久は景隆に聞く。


「これは異な事を承る。この期に及んで民の安寧、天下静謐なぞ片腹痛し。それがしにはどうにも、公方様が私利私欲にかられ、おのがやりたい様にされているようにしか見えぬが、これいかに」


 純久の蔑むような眼差しが景隆を貫く。


 最初の温厚な態度とは打って変わって、能面のような表情の純久は、まるで別人のようである。


「け、決してそのような事は……」


「左様か? 本当はそなたもそう思っているのではないのか」


 そう言って純久は、義昭の御教書発給の件や身内びいきの件、寺社領の横領や勝手な裁判など、信長との間に決めた御掟を無視した行いを、淡々と述べる。


「よいかな。わが殿近衛中将様も、弾正忠様も、そもそも幕府をどうこうしようなどとは思うておりませぬ。幕府がしかと働き、世の静謐に役立つ行いをしておれば、何も問題は起きぬのです」


「それは……」


 景隆はぐうの音も出ない。


「では、今一度聞くが、降伏ではなく、和議とな?」


「仰せの通りにございまする。なにとぞ、よしなに」


「あいわかった。しかしあくまでも仲介である。成るか成らぬかはそちら次第じゃ」


「はは、ありがたき幸せにござりまする」


 純久は和議の内容には口を出さず、あくまで口添えのみという条件で了承した。


 ■八月二十一日 南近江 鯰江城下


 信玄の死をもって武田軍が退却した事で、信長の中にはある種の決意が芽生えていた。もう、足利幕府などいらぬのではないか? 


「殿、日野城、蒲生左兵衛大夫(賢秀)様お越しにございます」


「うむ、通せ」


 幕舎の中に案内された賢秀は、座にいる六角承禎・義定親子に一礼し、さらに下座に座る。


「遅参、誠に申し訳ござりませぬ」


「構わぬ」


 信長はそう言って気にもとめない。


 蒲生賢秀は六角氏の重臣であったが、承禎が臣従した後は信長の直参として仕えていた。その賢秀と黄和田城の川副吉長は、南近江の反乱には加わらず、親信長の姿勢を崩さなかったのだ。


 もともと烏合の衆であった南近江の国人達である。武田軍の撤退や信玄の重体・死亡説の噂に浮き足立ち、信長に再度降る者が後を絶たなかった。


 そのような中でも、鯰江城の鯰江備前守定治、佐治城の佐治為次、小川城の多羅尾光俊などは頑強に抵抗している。


 鯰江氏は六角氏を後ろ盾に勢力を伸ばしていたが、観音寺城の戦いで承禎が敗れた後は、信長に対抗するため空堀を増設し土塁を増強していたのだ。


 しかし主家である六角家が織田家に服属したので、拠所を失い織田家に臣従していた。


 鯰江定春の居城である鯰江城は、愛知川の断崖を活かして築かれている。川から城への上り道は細道一カ所という、防御に有利な地形であった。


「さて承禎よ、どう攻める? 難攻不落とは言わねど、ただ攻めるだけではいたずらに損がでるぞ」


「は、されば……」


 腹案あり、とでも言いたげな承禎が発言しようとすると、大きな声とともに、意外な人物の名前が聞こえた。


「小佐々治部少丞様、お目通りを願っております!」


「ほう? 治部少丞が?」


 信長は少し意外であった。同盟を組んでいるとはいえ、助勢を頼んだ覚えはない。それに一連の反乱は織田に対してであって、小佐々に対して宣戦布告するものではなかったからだ。


「通せ」


 通された純久の様相を見て全員が絶句した。


 上下黒の洋装に、両肩から腹の辺りまで斜めにあつらえてある金のボタン。そして襟は学生服のカラーのような形をしている。


 円筒形の帽子をかぶり、腰に大小を差してはいるものの、ズボンの側面に縦にまっすぐ刺繍された赤の帯。どれをとっても異色の出で立ちであった。


 もちろん純久だけでなく、小佐々の将兵は似たような服装である。


「弾正忠様、お久しゅうございます。こたびは謁見をお許しいただき、恐悦至極にございます」


「良い良い。堅いことを言うな。それより何だ? しばらく見ぬ間に、また素っ頓狂な出で立ちをしておるな」


 信長の顔に笑みがこぼれる。


 武田軍撤退から信玄の死で、緊張がやわらいでいるとは言え、いまだ戦時である。純久の来訪は、そんな信長の心を緩めたのだろうか。


「褒め言葉として承っておきます。時に弾正忠様、それがし、公方様からのお役目にてまかり越しました」


「なに?」


 せっかく緩んだ信長の表情がまた険しくなる。


「お役目とは、まさか降伏するという事ではあるまいな?」


「然に非ず。公方様は和議を所望されておりまする」


 一瞬沈黙が訪れた。


 そして信長の口から、ふふ、ふふふふ、ふはははは、と笑い声が漏れた後、そこにいた全員が同じように大声で笑い出した。


 もちろん、純久も同じように笑う。


「笑うところではござりませぬが、弾正忠様をはじめ皆様がお笑いになるのも、もっともにござる」


 純久は一通り全員の笑いが収まったところで、切り出した。


「少なくとも、臣下の皆様は降伏もやむなしと考えておられまする。然りながら公方様は、降伏の一言が言いたくないようにございます」


「ふん、この期に及んで何を申すかと思えば、下らぬわ。治部少丞、これを見よ」


 そう言って信長は、傍らに置いてあった紙をとって純久に見せる。


「これは……?」


「良い、読んで見よ」


 信長の言葉に促されるように読んでみると、それは十七箇条におよぶ義昭を弾劾する文書であった。

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