第469話 武田軍撤退ス……信玄ノ容体ヤ如何二?

 元亀二年 七月二十日 京都大使館



 


 発 外務省三河 宛 治部少丞


 秘メ 武田軍 退却セリ 巷説デハ 浜松城 要害ナレバ 陥落セシムルニ 一月ハ 要ス ソノ間 越後ニ 動キアラバ 


 信濃ナラビニ 上野ノ 守リ 危ウシト 流布サレリ 然レドモ 信玄ノ姿 認メズ 秘メ






「ようしっ!」


 純久は小躍りして喜んだ! まず間違いなく信玄は重体だろう。


 信濃? 上野? 馬鹿な事を。上杉は越中の一揆鎮圧にやっきになって、収まっていない。北条とは不可侵を結んでいる。


 これは信玄の死、または重体を隠して、撤退する隠蔽工作にほかならない。そう純久は考えたのだ。おそらくは織田も徳川も知っているだろう。武田軍撤退となれば、状況は明らかに変わる。


 信玄死す、なら言うまでもない。






 発 純久 宛 近衛中将


 秘メ 武田軍 撤退セリ 然レドモ 信玄ノ姿 認メズ 我 思フ 信玄死ス トノ 証 ナカリシモ 


 オオヨソ 真ニ アラムヤ 真ナレバ 織田軍 西進シ マヅハ 南近江ノ 謀反 鎮メム


 都ノ守リ 万全ニシテ 敵ノ動キナシ 織田ヘノ 助力 必要ヤ 否ヤ 秘メ






 ■数日後 諫早城


「武田が撤退した。直茂、どう見る?」


 傍らの直茂に意見を求める。


「は、狙撃成功の報がございますので、おそらくは信玄の容体が悪化、または息絶えたかと存じまする。そうでなければ兵を退いた意図がわかりませぬ」


「そうであろうの。確かな証がでるまで時を要するであろうが、策を弄する意味がない。十中八九間違いなかろう。さて、公方や松永にもじきに届くであろうが、弾正忠殿より助勢を請われてはおらぬ」


「左様にござりまする。われらは摂津、淡路より謀反人どもの軍勢を抑え、京の守りは二個旅団にて万全にございます。弾正忠様より助勢の求めがないのであれば、我らは京の東で公方様をお迎えすればよろしいかと」


 直茂の『お迎え』という言葉は意味深であった。


 もちろん、普通にお迎えするのではない。京都には入れない、力ずくで入ろうとすれば一戦も辞さないという構えの事だ。


 それにしても……と純正は思った。


「直茂、われらは舐められておるのかのう?」


「はて? 舐められている、というのとは少し違うように感じまする。いわば、自分に火の粉が降りかからねば動かぬ、と思われているのやもしれませぬ」


 直茂が言っている事は言い得て妙だ。


 純正が以前から心がけ、図らずも領土を拡げる事となった『降りかかる火の粉は払う、降りかかりそうな火元は消す』の考え方だ。


「弾正忠様と盟約を結んでいるとは言え、われらは京の都と摂津、和泉とその西を抑えておりまする。されば弾正忠様の性を考えるに、助勢を請う事はせぬ、と読んでおるのでしょう」


「そうか。官兵衛、直家、他はどう思う?」


「それがしなど非才にて、加賀守(直茂)殿には及びませぬ。よろしいかと存じます」


 と官兵衛が言うと、直家もまた同じように返す。


「左様にございます。そうですな、おそらくは公方様は和議を申し入れて、いや、我らではなく弾正忠様でございますから、調停をしてくれと願い出てくるやもしれませぬ」


「その時はなんとする」


「弾正忠様もさすがに公方様のお命まではとりますまい。条件はのちほど詰めるとして、受けてもよろしいかと」


「そうか、あいわかった」


 庄兵衛と弥三郎、清良の弟子三人組は複雑な顔をしている。直茂は苦笑いをしながらも、そう言われて悪い気はしない。


 もちろんお世辞が八割なのは、二人の実力を知っている直茂はわかりきっている。


「よし。では純久には都の守りに徹し、逢坂にて公方を『迎えよ』と伝えるのだ。いずれ弾正忠殿も戻ってこよう」


「はは」


 舐められている、いないの真偽はともかく、純正も転生して十年である。十二才の少年として転生してから、ほぼ同じ年月をこの戦国の世で過ごしていたのだ。


 ■遠江信濃国境 武田軍陣中


 織田と徳川に追撃をさせぬよう、周到に組まれた陣構えで粛々と後退をつづけ、武田軍は信濃に入っていた。


 喜兵衛「なあ」


 九郎「なんだ?」


 喜兵衛「こたびの撤退、あやしくないか?」


 九郎「うむ、そうだな、確かにあやしい。して……お主が言うあやしき事とはなんだ?」


 この二人は武藤喜兵衛、そして曽根九郎左衛門尉虎盛である。


 武藤喜兵衛は武田二十四将の一人、真田弾正忠幸隆の三男であり、九郎は同じく二十四将の曽根下野守昌世まさただの息子である。


 同い年であるが、自分の父親と同格として信玄に見られていた喜兵衛に対して、九郎はライバル心を燃やしつつも良き友として、常に行動を共にしていたのだ。


 父親の昌世は昌幸と同じく信玄の目と称されたが、息子の九郎もまた、父に劣らず麒麟児であった。


「われらは北条はもとより、上杉の備えも万全にして軍を起こしたのだ。それなのに、時がかかると言う理由だけで兵を退くか? われらが退き、時が過ぎれば過ぎるほど、織田に有利になろうというもの」


 喜兵衛の問いに九郎が答える。


「やはりお主もそう思うか。俺もそう思っていた。われらにとって今この機を逃せば、織田徳川を蹴散らして京に上るなど、いつになるやわからぬ。それから、野田城でのあの銃声、お主も覚えていよう」


「ああ、覚えている。笛の音に誰もが耳を傾けていた時、銃声がしたのだ。にわかにざわめき立ち、周囲の警戒が厳となった」


 武藤喜兵衛も疑っている。


 信玄が狙撃されたとき、確かに『撃たれた』という声が聞こえたのだ。しかしその後すぐに影武者だという触れが廻り、信玄は無事だという事になった。


「うむ。それでその後、御屋形様は無事だという触れが廻ったが、ではなぜ兵を退く必要があるのだ? 万が一御屋形様が斃れたと諸国に漏れれば、織田徳川はもとより、上杉や北条も黙ってはおらぬからではないか?」


 それにな、と九郎は続けた。


「これを見よ」


 九郎は喜兵衛に、布に包まれた物を渡して見せた。


「なんだ! ? ……これは?」


「鉄砲の玉じゃ。無造作に捨てられておったわ」


「鉄砲の、玉? 血がついておる! それにこのような形の玉など見たことがないぞ。なんだこれは? 椎の実のような形をしておるし、何やら片方は窪んで、溝が入っておる」


 初めて見るライフル弾を、食い入るように見る喜兵衛に対して、九郎はさらに続ける。


「もう一つ、これは俺が確かめたから間違いはないのだが、御屋形様が撃たれた、とされる場所。撃てるとすれば城内からだ。しかし、これと同じ鉄砲の玉は見当たらなかった」


「つまり……城から撃ったのではない、という事か?」


 喜兵衛が消去法で答えを導きだそうとする。


「そうなるだろう。しかし、そうなると、狙える場所がないのだ。付近に狙える丘などなし、あるとしても三町から五町離れた所ばかりじゃ」


「ばかな! ではどこから狙うというのだ? 狐か物の怪の類いか?」


「ふふふ、お主らしからぬ答えよの。物の怪の類いなど、信じる男ではないと思うておったがな」


 九郎が喜兵衛に向かって冗談を言う。


「馬鹿! 冗談だ! しかし、そうとも考えねば理屈にあわぬぞ。どこから撃ったというのだ?」


「いまだ証がなく、答えは見いだせぬ。されど考えられるとすれば、そうだな、例えばあそこから撃ったと言う事になろうか」


 九郎は500mほど先の丘の林を指さした。


「な! あそことは……五町はあるぞ! お主さきほどと言うておる事が違うではないか」


「その通り、しかし考えても見よ。われらが生まれる前、鉄砲など、この日ノ本にはなき武器であった。音を立て、弓を使わず敵に傷を負わせる。初めて見た者は耳を塞ぎ、神仏の祟りだと騒いだのではないか?」


「それは……」


 九郎の説明に喜兵衛は考える。


 確かにそう考えれば、あり得ぬ事があり得るとすれば、全て辻褄が合うのだ。しかし、今の日ノ本の鉄砲では、二十五間(45.5m)で百発命中できれば神業である。


 それを五倍の距離で狙って撃つなど……しかも見えるのか?


「いずれにしても、もしそのような鉄砲を織田徳川が持っているとすれば、これは由々しき事。我らが甲府に帰り、再びこの地を踏んで京を目指すとすれば、大いなる禍根となろう」


「うむ……」


 九郎の言葉に、自らを納得させる喜兵衛であったが、まだこのとき、純正の名前は二人の間になかったのであった。

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