第460話 海軍再建計画と山陰山陽大街道計画
元亀二年 五月二十四日 姫路城
純正は五月十二日には塩置城に入り、赤松義祐と三木道有の仕置をした。
すでに毛利・小早川・三村の連合軍は、播磨北部の国人を制圧して城下に集まっており、宇喜多・陸軍連合軍も沿岸の城を制圧して集結していた。
「みな、ご苦労であった。十分に休むが良い」
陸海軍の将兵と、毛利三家と三村、宇喜多の兵にも十分に休息をとらせ、酒を振る舞った。三木通明は千二百石へ減封、赤松義祐は塩置城の二千八百石のみとした。
そしてもちろん、生野銀山を手に入れて
東西18kmの広大な港湾工事を計画し、餝磨津を堺をしのぐ貿易港とする。隣には造船所を併設し、船場川を拡張して姫路城下への水運を整備するのだ。
さらに
山陰但馬の林甫城近くの丹生湊の拡張整備、護岸工事を行って、そこから此隅山城~田路城~姫路城~餝磨津へ南北のルートを開発するのだ。
そうやって山陰山陽の海運と陸運を網羅する。堺、京都、琵琶湖の東西から小浜や敦賀の陸運に匹敵するものを作るのだ。
ちなみに宇喜多には一万八千貫、三村には一万六千貫、そして東から支援してくれた別所長治には一万二千貫の褒賞を与え、小寺政職には三木の旧領である英賀城の残りである一万二千石を与えた。
浦上宗景は天神山城の二千三百石に減封、山名祐豊は六千貫の褒賞、山名豊国は若桜鬼ヶ城の一万六千石を加増とした。
小寺政職は国人であったが、これにより五万二千石となり、大名待遇となったのであった。
基本的に純正は大名の石高の多寡で区別することはしないが、格式とか家格というのが幅を利かせている時代である。
毛利に十万石加増となれば話は別だが、国人である小寺政職に一万二千石を加増しても、何の問題もない。
それで意識が高まり全体の効率が上がれば良い。家格で人を下に見るのは論外だが、敬意を持ちお互いが信頼し合うのであれば、何も全否定する必要はない。
良いものは残しつつ、より良くしていけばいいのだ。
「さて、南方の件は、十分に慰労し次に備えよと伝えておけ。慰労物資や兵糧矢弾は惜しむなよ。海軍は再編し、現地で修理できれば問題ないが、佐世保湊までの曳航は難しかろう。修理資材として使うか焼却するよう命じよ」
「はは」
「詳細は諫早に戻ってからだ。ない情報であれこれ考えても始まらん。さて、畿内とその周辺はどうなっておる? 叔父上に関わる事はよもや起こってはおらぬだろうな」
「は、それは心配ございませぬ。治部少丞殿におかれては情報収集と大使としてのお役目、獅子奮迅の働きにございます」
「うむ。他の諸大名の動きはどうだ」
三月の初旬に信玄が甲府を発ってから、畿内とその周辺の大名が反信長を旗印に兵を挙げた。それから三ヶ月が経とうとしている。
「は、二俣城が落ちたること、ならびに三方ヶ原にてお味方敗るるの報せが飛び交っております。各地の反織田の者どもはにわかに勢いづき、大和においては筒井城を残し松永勢が落としてございます」
「そうか」
純正の予想通りであった。反信長の陣営では松永弾正が一番成果をあげている。もっとも信長に打撃を与えるというより、自分の勢力を伸ばした、と言った方が正しいだろう。
「南近江では甲賀衆の扇動で国人衆が立ち上がり、あわせて山岡景友、磯谷久次、渡辺昌らが石山・今堅田に兵を入れ、織田方の兵と戦いてございます」
「堅田か……」
堅田は琵琶湖の水運の要衝である。
南近江と堅田を抑えられると、小浜・敦賀からの物資が京・大坂へ流れなくなる。逆にそこを抑える事で、信長を経済的に締め付けようとの事なのだろうか。
「他はないか」
「は、摂津においては三好彦次郎殿が国人をまとめ上げ、反織田の塩川、能勢、和田の各城を攻めております。時はかかりましょうが、こちらはお味方優位に進むかと」
「うむ、一時はどうなることかと思ったが、日向守殿(三好長逸)がなんとかしてくれたようだな」
反小佐々で阿波三好と分裂して摂津三好家を興した三好長治であったが、三好義継とは以前と同じく対立しており、今回の蜂起に同調する事はなかったのだ。
長逸は小佐々に服属するにあたり、最期のご奉公と言っていた。長生きしてほしいものだ、と純正は思っている。
三好義継としては、やはり一時は従ったものの、信長の下風には立ちたくなかったのだろう。しかしそれにしても、畠山昭高を攻めるのは単独では厳しい。
根来や太田が支援しているのだ。松永弾正が大和を平定して、その援軍がないと難しいだろう。
それにしても信玄ありきだな、と純正は考えている。
どうにも中途半端な包囲網である。このまま行けば信玄は野田城を落とす。そして吐血して甲府に戻る途中で死ぬのだ。
足利義昭はまだ、挙兵していない。史実では野田城の陥落の知らせで挙兵するのだが、はたして挙兵するのだろうか。
しかし、一度目の包囲網は義昭主体ではなかったにしても、今回は明らかに義昭主導だ。
御内書を乱発し、各地で打倒信長を呼びかけている。その総大将が挙兵しなくてもいいのだろうか? 誰も期待していない? どうなのだろうか。
いずれにしても、京にいる義昭が挙兵するのなら、所司代としては考えなくてはならない。
「直茂よ、所司代は、どうだ? われらに必要であろうか」
所司代でなくても、近衛中将や検非違使別当など、京の治安は守れる。
それに正直、役職は有名無実化していて、京都の警備は小佐々の軍という認識が民衆の中に確立されていたのだ。
「は、されば所司代は小佐々の武を知らしめるため、それをもって幕府ならびに朝廷の覚えをよろしくするための、いわば手立てでございました」
「うむ」
「その幕府の棟梁たる公方様がこのような有様では、もはやその任に就かずともよろしいかと存じます。命をいただければ、すぐに辞意を伝えてまいります」
「相わかった。そのようにいたせ」
謹慎明けの直茂は、後れを取り戻そうと頑張っている。確かにやってはいけない事をしたけれど、直茂の有能さと忠義心は、誰もが知っていることなのだ。
純正はその後、海軍を再建するための指示を細かく出した。それは次の通り。
・佐伯湊の陽南鎮守府を安芸国安芸郡宮原村呉浦に移し、呉鎮守府とする。管轄は瀬戸内海、紀伊沖から南海道、日向灘。
・同時に呉海軍工廠を設置、さらに呉海軍海兵団を新設する。
・同じく安芸江田島村には、海軍兵学校の江田島分校を新設。
・海軍海兵団は佐世保湊、佐伯湊、呉浦の三ヶ所とする。
・山陰方面の防備として、但馬国丹生湊の西、諸寄の湊に諸寄警備府を置く。将来的に鎮守府として昇格させる。
・佐世保鎮守府(西海鎮守府改め)の管轄は変わらず壱岐対馬、玄界灘、関門海峡から南西、種子島方面。
・海軍の造船所としての海軍工廠は佐世保湊、佐伯湊、呉浦の三ヶ所とする。
スペインの次の攻勢がいつ始まるかは不明だが、早急に海軍の再建と戦術構想を考え直さなければならなかった。
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