第461話 野田城の戦い

 元亀二年 六月二十八日


 武田軍は徳川軍を三方ヶ原で破った後、野田城を包囲した。


 家康は浜松城から動く事ができず、織田軍も山県・馬場・山家三方衆の連合軍に翻弄され、三方ヶ原の敗戦による兵の逃散を抑えるのがやっとであった。


 野田城は河岸段丘の地形を利用して築城されていたので、大軍で攻めるには不利である。


 武田軍の優位は変わらないが、それでも無駄な損失は出さないに越したことはない。


 力攻めは行わず、甲斐から連れてきた金山衆を使って穴を掘り、城の井戸水の水源を絶つ作戦をとったのだ。






「ここしかないか」


 下辺伊兵衛は場所を決める。数日前から付近を調べ、候補地をいくつかに絞っていた。一つは城の中に潜入する事だが、現実的ではない。


 周囲は武田兵が包囲しておりほぼ不可能だ。


 基本的に高地から低地を狙うのがセオリーだが、周囲には城以外に小高い丘のようなものは三ヶ所しかない。


 ひとつは北東にある千郷神社と、二つ目は城の北西にある川田村堀合の丘。


 そして三つ目は城の西にある河田村の山田平の丘だ。


 一つ目の候補である神社だが、距離は一番近い。しかし高度が足りず、なにより城をまたぐため、標的を狙える範囲が狭まるのが欠点であった。

 

 二つ目の候補は、北西の堀合の丘。ここは距離は神社とさほど変わらないが、遮蔽物が少なく視界が良い。ただ、高度は神社と変わらない。


 最後の候補の山田平の丘は、一番遠い。しかし高度もあり遮蔽物がなく、視界が開けているため狙いやすい。


 しかも距離があるので敵の兵士に見つかる可能性が最も低いのだ。それが伊兵衛が山田平を選んだ理由であった。


「三郎、やはりここより良い場所は見つからぬか」


「はい、再び射線を確かめつつ調べましたが、ここが一番良いかと。道の程はもっとも遠けれど、目界広く、少々動いても狙う事能うかと」


「そうか」


 伊兵衛は部下の三郎の答えに、短く返事をする。






 このままでは城が落とされてしまう。その前に何とかしなくてはならない、そう鳥居三左衛門は考えていた。


 しかしどうする? この大軍に対して、自分に何かできることがあるのだろうか。


 どれだけ嘆いても、状況は悪化の一途を辿っている。


 ここ数日、というより包囲してこのかた、武田軍はまともに攻めてくることはなかった。兵糧攻めと水の手を絶つことで落とす武田軍の戦術に、為す術もない。


 そしていつの頃からか、刃を交わすでもなく、ただ落城の時を待つだけの兵士の士気を高めるためなのか、毎夜笛の音が鳴り響いていた。


 笛の音の主は村松芳休(ほうきゅう)。


 伊勢国山田(三重県伊勢市)の出で、異名が”小笛芳休”である。その笛の名人がなぜか籠城しており、笛の音は敵も味方も魅了するほどだった。


(この笛の音も、いつまで聴くことができるのだろうか、明日か、明後日か……)


 三左衛門はそう思いながら毎夜笛の音に聞き入っていた。


 しかし今日は、昨日まで夜に吹いていた笛だが、なぜか今吹いている。


 あたり一面が茜色に染まる夕暮れ時に、今にも落ちそうな城の儚さを奏でるかのように、美しく優雅な調が流れている。


 すると今日もまた、堀の向かいの崖の上に、白い陣幕のようなものが見える。三左衛門が目を凝らすが、その中や周囲に人の気配は感じられなかった。


「毎夜思っておったが、ここより四十間(約73m)ほどしかないぞ。それほど敵に近づいて芳休殿の笛を聞くとは、一体誰なのだろうか? いずれにしても風流にして豪気な者じゃ」


 三左衛門はつぶやく。ん? 風流にして豪気な者? 頭の中に、一瞬とんでもない人物の名が浮かんだのだ。


「まさか、そんな事はありえない。大将が敵の目と鼻の先に出てくるとは。しかも、いやいや、そのような事があろうはずがない」


 陣幕に背を向けて三左衛門はその場を去ろうとしたが、立ち止まり、手に持っていた鉄砲を握りしめて、振り返った。


「いや待て。いずれにしても、このままでは城の行く末は決まっておる。ならば出来うる限りの策は、試しておかねばなるまい」


 三左衛門は陣幕の中にいる者を狙撃するために、陣幕を張っている竹を目印に鉄砲を仕掛け、その場で待機した。


 ほどなくして数人の声が聞こえ、陣幕の中に人がいるのがわかった。三左衛門が耳をすますと、中からは力強い声が聞こえてくる。


「城もあと数日で落ちよう。最後と覚悟して吹いているのだろうな。それにしても見事なものよ」


 三左衛門は陣幕の中心の声に向かって照準をあわせ、笛の音にあわせて引き金を引いた。


 ダーン! ! !


 銃声が響き渡って辺りは騒然となった。


「何事だ!」


「鉄砲か!」


「どこからじゃ!」


「怪我をした者はおらぬか!」


 陣幕の中では大混乱が起き、笛の音もいつのまにか止んで大声が飛び交っている。そしてその騒ぎの中で、たしかに三左衛門は聞いたのだ。


「御屋形様が撃たれた」と。






「帰るぞ」


「はい」


 伊兵衛は三郎に声をかけ、現場を後にする。数日前から場所を決定し、準備万端備えていた。


 武田軍の唯一の失態は、白い陣幕を後ろ側、つまり城から見て裏側の西側に張っていなかった事であった。


 危険と知りつつ近づいたのが、そもそもの間違いである。


 しかしまさか裏側から、この距離から撃ってくるとは思いもよらなかったのだろう。


 ともかく、どのような経緯で死に至ったかは別にして、歴史は、ここにおいては正しく刻まれたのだった。



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