第443話 通訳を求めて堺へ。紙屋甚六の旅

 元亀元年 十二月二十三日 大和国(奈良県)


「やはり遠いですな、大和は。ここからさらに京に堺にとなると、さらに遠い。そしてこのたびのお役目は、難儀な事ですなあ」


 そうやって同行者に愚痴をこぼす者がいる。


 相模国小田原の紙商人の紙屋甚六である。甚六は奈良の出身で、関東の武蔵、小川や越生方面で作られた紙を小田原をはじめ広域で販売していた。


 なぜその紙屋甚六が大和国にいるかというと、以前何度も興福寺多門院主の英俊を訪ねたことがあり、上方にツテがあったからだ。


 さらに、なぜそのツテを頼って大和の国まで来ているかと言うと……。





 ■数日前 小田原城


「家治よ、お主はあの三崎にて捕らえられておる者、南蛮人だと申すか」


 当主の北条氏政に謁見し、そう質問されているのは宇野家治である。


 小田原、後北条氏の御用商人である宇野家治は、中国の薬商人である陳宗敬(陳外郎)を祖とした宇野家の嫡男で、10年前に家督を継いでいたのだ。


 宇野家は本家の京都外郎(ういろう)家との緊密な関係にあった。


 そのツテで幕府の要人や文化人との折衝を期待されていたが、家治も先代の定治と同様に、中央とのつながりを保つために不可欠の存在であった。


 そこで、目の色も髪の色も違う、身の丈もおよそ日ノ本の民とは思えないほどおおきな男。京をはじめ西国で言われる南蛮人ではないか、との噂が立ったのだ。


 中央にパイプを持ち、情報通の商人となれば、話がまわってくるのも想像に難くない。


 もっとも宇野氏は商人という側面と、武士という側面も持っていた。


 先々代の北条氏綱から武蔵国河越(埼玉県川越市)の今成郷の代官職を与えられており、家治は川越領今成で二百貫を領していたのだ。


「はい、それがしが見ましたところ、南蛮人に間違いございません。京大坂にて見かけた宣教師なる者や、南蛮の商人に姿形が同じにござりました」


「左様か、しかし話す言葉は奇天烈にて、まったく解せぬと言うぞ」


「は、明や朝鮮と同じく、違った言葉の民にございますれば、日ノ本でその言葉を解すものはおらぬかと存じます」


「何? ではどのようにして、南蛮の教えを広めていると言うのだ? 御仏の教えとは違う教えを広めているのであろう?」


「さきほど申し上げました宣教師が日ノ本の言葉を解すゆえ、日ノ本の言葉にて教えを広めておりまする」


「ではその宣教師なるものをつれて参れ」


「は?」


「は、ではない。その宣教師をつれて参れ、と言うておるのだ」


「はは、しかし恐れながら、それはちと難しいかと存じます」


「なぜじゃ」


「彼の者らはデウスなる者を信ずる教えを説いております。そしてこの日ノ本にて広めるには、まず都にて布教を、と考えておりますゆえ」


「左様か、確かにこの関八州は畿内にくらべ人も少なく、栄えているとは言えぬかもしれぬ。しかし、ここがどこかもわからず、言葉も解せぬ土地に同胞がいるとわかっても、そうだろうか」


「……」


「それに織田や西国の小佐々の強さは、その南蛮との商いによってなされていると聞く。どうだ、商人として、血が騒がぬか?」


「それは……」


「話は以上だ。では、頼むぞ」


「は、ははあ……」





「……という訳で、頼みましたよ紙屋さん」


「は? え? 一体何が、でございましょう」


「何って、私も京大坂にツテはありますが、どちらかというと幕臣や文化人が多い。商いや巷でのツテは、紙屋さんの方が、強いでしょう?」





 ■戻って元亀元年 十二月二十三日 大和国(奈良県)


 ……という訳で、よくわからない状態で来たものの、乗りかかった船である。最後までいって南蛮との商いで莫大な富を得ようと野心を燃やしていたのだ。


「おや、紙屋さん。お疲れでしょう。さあ、お茶でもどうぞ」


 そう小坊主に命じて茶を持ってこさせるのは、興福寺多門院主の英俊である。


 多門院英俊は、言わずと知れた文明十年(1478年)から元和四年(1618年)にかけて140年もの間、当時の近畿一円の記録が書かれている多門院日記の、三人の筆者のうちの一人である。


 当然交流も広く、知己も多い。


「して、こたびはどうやら、紙の話ではないようですね。なにやら、堺の会合衆を紹介してほしいとか」


 堺の会合衆、当時の日ノ本一と言われた交易都市、堺の自治をしている商人の集まりである。


 信長が矢銭を求め、さらには堺の代官となってからは完全な自治ではなくなったが、それでも日本有数の豪商が集っている。


 紅屋宗陽・塩屋宗悦・今井宗久・茜屋宗左・山上宗二・松江隆仙・高三隆世・千宗易(利休)・油屋常琢・津田宗及が名を連ねており、これが当時の会合衆で、畿内の交易を牛耳っていたのだ。


 甚六は考えた。いかに英俊と長いつきあいだとは言え、正直に話していいものか。


 宣教師はいわば仏教の敵である。その宣教師を紹介して貰うために会合衆の紹介とは、難しいのではないだろうか?


 しかし、下手な嘘がばれて後々のつきあいに支障がでるのもまずい。……甚六は決めた。


「実は、相模の三崎城下、城ヶ島に南蛮人とおぼしきものが流れ着いたようなのです。食べ物や水、着るものを与えてはいるのですが、ずっとという訳にもいかず」


 結局、正直に話している。


「実のところ、全く何をしゃべっているのかわからず、身振り手振りでやり取りをするのも限度がありまして、通詞、宣教師を紹介、とくれば商人を通じてではないか、と思った次第です」


 英俊は、しばらく考えてはいたが、やがて答えた。


「なるほど、都にいる宣教師や堺の者も、本来ならば織田弾正忠殿を介して、となるでしょうが、話がややこしくなりそうですね。よろしい、紹介しましょう」


「! 良いのですか!」


「はい、お武家様を通せばやれ政だ戦だと、話が難しくなるでしょう? 南蛮人とはいえ困っている者を助けるのは、御仏の教えに適っていますので」


「ありがとうございます!」


 甚六は深々と頭を下げた。


 ■翌十二月二十四日 堺


「それで、なぜお主がここにおるのか、いまだに分からぬのだが」


 甚六が英俊から紹介されたのは、旧知の和泉屋慶助である。


 慶助は大和国郡山の商人で、屋号は「和泉屋」。堺で他国の商品を仕入れ、大和国内で販売していたのだ。


「何って、お主会合衆を紹介してほしいのだろう?」


 慶助が言う。


「それは、そうだが……お主、会合衆にツテでもあるのか? そんなこと今まで一言も……」


「そんな、必要もないのに大口の取引先を紹介するわけないやろ? 紹介せんでもまわっとったやないか」


「それは、確かにそうだが」


「まあ、心配すんなって。大船に乗った気でいいで」


 しばらくするとふすまが開き、四十前くらいの男性が現れた。


「和泉屋さん、ご苦労様です。お連れの方は?」


 中肉中背の笑みをたたえたその男性は慶助に尋ねる。


「はい、わたくしの連れ、長年の商売仲間にして、このたびは茜屋さんに紹介したく参りました」


「相模国小田原の紙商人、紙屋甚六と申します。以後、お見知りおきを」


「ほう、紙屋。紙ですか……。わたしは茜屋宗佐と申しまして、堺にて商いをしております。こちらこそお見知りおきを。して、こたびはわざわざ相模から、何か、大きな儲け話でも?」


 甚六は慶助に顔を向け、意を決したように話した。


「直接の儲け話ではござらんが、実は人を助けてほしいのです」


 そう言って、漂着した南蛮人らしき人の事、通訳の件、宣教師の件を話した。


「……なるほど。そうですか」。


 茜屋宗佐は、すべての話を聞いた後に腕を組み、目をつぶって考え込んだ。


「わかりました。よろしいでしょう、宣教師、紹介いたします」


「本当ですか! ありがとうございます!」


 もちろん、人助けの為ではない。多少はその為もあっただろうが、宗佐は商人である。


 銭の匂いを嗅ぎつけたのだ。堺の会合衆の1人として財をなしていたが、どうしても今井宗久や千宗易、津田宗及に比べると地味だ。


 会合衆の誰もしらない販路と、仕入れのルートを開拓出来れば、莫大な利益になる。三人を出し抜いて、会合衆の中でも存在感を示せるのだ。


 堺だけでなく、他国の湊に出店を置き、規模を大きくできるチャンスでもあった。


「しかし、すぐにとは参りません。少々刻をいただいて、京にてご紹介いたしましょう」


 北条氏政、宇治家治、紙屋甚六、和泉屋慶助、茜屋宗佐の、それぞれの思惑が重なっていく……。

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