第442話 武田信玄の3つの選択肢

 元亀元年 十二月二十日


 甲斐の武田信玄には、どこに侵攻するか、三つの選択肢があった。一つは越後、もう一つは美濃、そしてもう一つは遠江三河である。


 一つ目の越後の上杉謙信だが、昨年の永禄十二年の八月には和議が成立している。


 しかし開戦の名目はどうとでもなる。美濃攻めを要請してきた朝倉義景は不満だろうが、長年の宿敵であった謙信の方が脅威である。


 それに今年の十月には、徳川家康と謙信は盟約を結んでいたのだ。


 盟約の詳細は不明だが、おそらくは甲越の不和、または信長との不和を狙ったものであろう、そう信玄は読んでいた。


 謙信とは和議を結んでいるとはいえ、徳川と武田が緊張状態にあるこの状況で同盟を結んだのだから、越後に攻め入っても非難はされないだろう。


 それに越後は結局のところ、岐阜からも三河からも遠く、織田にとっても徳川にとっても、対岸の火事なのだ。


 しかし、デメリットもある。謙信は武田と戦うのに慣れているのだ。


 地盤も固く防御態勢も堅固である。長丁場の川中島の延長線のようになる可能性もあり、大きな成果が見込めるとは思えない。


 二つ目の選択肢は美濃である。


 この選択肢は、何もない状態ならかなり厳しい選択肢だろう。信長と信玄が正面衝突となり、謙信と家康は南北から信濃を挟撃するのは間違いない。


 選択肢の一つとは言え、できれば選びたくない悪手である。


 選んだならば、間違いなく武田は苦境に陥る。しかし、その状況を好転させ、状況を一気に武田優位にもっていけるものがあった。


 越中の一向一揆と、北関東の北条である。


 北条は越相同盟を結んでいたものの、氏政になってからは武田と盟約を結んでおり、その際に越相同盟は解消されている。


 大規模な戦闘こそないものの、問題の多かったこの同盟は多くの火種を残しており、上杉を牽制するには十分である。


 また、本願寺が越中の一向一揆を扇動すれば、謙信は鎮圧に忙殺される。


 そうなれば謙信の足止めは可能だ。


 さらに越前の朝倉も喜んで美濃に侵攻するだろう。不確定要素は多いが、信長に不満を持つ勢力と結べば、十分な成果をあげられるだろう。


 最後の選択肢は、三河と遠江である。


 前述の二つ目のように謙信の足止めができ、反信長勢力と時を同じくして攻め入れば、信長との直接対決を避けられる。


 さらに家康との単独決戦を経て、遠江三河を手中にできるだろう。


 しかし、いずれにしても決め手がない。


 多方面に調略を仕掛けていた信玄であったが、大義名分が整い、そして勝利のためのきっかけがあれば、あとは進軍するだけであった。


 ■諫早城





 発 純久 宛 近衛中将


 秘メ 仰セノ儀 モトヨリ 調ベ給ヒテヲリ 今ノトコロ 確証ナシ 然レドモ 文ノ ヤリトリ 盛ンニテ 疑ワシキヲ 別ニ 記シテ候 確証 得タリナバ 後ホド オ知ラセ 仕リ 候 秘メ





 やはり、文書のやり取りは活発にあるようだ。純正は松永弾正と三好義継を怪しんでいたが、どうやら他にもグレーゾーンの大名や国人が大勢いる。


 越前の朝倉や本願寺、雑賀、根来は別として、とくに丹波と摂津がきな臭い。


 延暦寺にも本願寺や義昭から書状が届いているようだが、なんとか中立を保ってほしいと純正は願っている。


 摂津では摂津三好の三好長治と共に、池田知正と荒木村重、中川清秀に書状が回っている。純正とも信長とも和議を結んでいるので、動かないとは思うが、状況が変わればわからない。


 それに加えて伊丹親興や淡路の菅達長にも届いている。


 摂津と淡路は三好長治の支配下だが、影響力が下がっているので、それぞれバラバラに反応するかもしれない。


 その他をあげれば、六角の支配から独立した近江国甲賀郡の甲賀衆、伊賀国伊賀郡の伊賀衆にも届いている。


 彼らには、六角の支配下ならある程度の自治は認められたが、信長になれば自治権が奪われる、などと吹聴しているのだろう。


 大方の予想はつくが、差出人は本願寺顕如と義昭がほとんどではないだろうか。


 丹波は日和見から親織田に傾きかけたが、それでも波多野、赤井、内藤といった大名には書状が届いているようだ。


「直家よ、いるか? 西国ではどうだ? 播磨や備前、美作、因幡但馬で反織田に傾きそう、いやこの場合は反小佐々か? 書状に俺の名前が入っているかわからんがな」


「は、ここに」


「今まででわかっている範囲で構わぬ」


「は、されば別所と赤松、山名に浦上、因島村上と能島村上、そして毛利。西国会議の開催や、内容も知られていないため、吉川元春や小早川隆景には個別に届いていないようにございます」


「相わかった。服属の起請文を交わしておるから、おいそれと叛きはしないだろうが、油断はできぬ。引き続き監視をたのむ」


「はは」


「皆、他にないか?」


「よろしいでしょうか?」


 発言したのは空閑三河守である。山陰部門の担当で、吉川の監視も行っている。


「なんだ、申せ」


「はい、美保関の一個旅団の件なのですが、到着してしばらくした後、吉川勢と小競り合いがあったと報告を受けております」


「なに? 何があったのだ?」


 吉川の件で敏感になっている純正は、小競り合い、と聞いて身を乗り出した。


「は、小競り合いと申しましても、言い争いになっただけで、死人やけが人は出てはおりません」


「なにが原因なのじゃ」


 ほっとした純正は続きを聞く。


「はい、吉川側の言い分としては、四分六の同盟とはいえ、なぜ美保関に六千もの兵を詰めるのだ、という事です。旅団長は当然反論したそうです」


「うむ」


「美保関は山陰から若狭へ抜ける要衝の湊、兵をおいて警備するのは当然。また、突っ込んだ話ではあるが、尼子と毛利は長年の敵なれば、いざこざも起きるかもしれぬ。それゆえ治安を守るために置く、と」


「うむ、範となる答えであるな。当初は海軍と商船のみであったが、その後追加で陸軍も移動と駐屯が可能となったはずだ」


「その通りにございます。しかもこたびは事前に通告を行い、美保関の湊の長が了承しての上陸です。文句を言われても困ります」


「そうだな、一応念のため、俺からも文を書いておこう」





 吉川駿河守殿


 拝啓 年末厳寒のみぎり、駿河守殿におかれては、ますますご健勝の事とお慶び申し上げ候。


 さて、こたびこの書状にて書き記したるは、先般美保関にて起きたる事に候。


 かねてより毛利家と交わしたる盟約の約定には、軍船、商船、陸兵において、互いの領国内に留まるを許さん、と書き記して候。


 小佐々家中としては全く他意なき事にて、駿河守殿におかれましても誤解のなきよう、お願いいたしたく存じ候。


 敬具


 近衛中将






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