編集済
太閤検地や江戸時代にしろ島津領の石高は一般的な玄米高でなく籾高と言われており、薩摩と大隅の石高はかなり低かったと推定出来ます。ただ江戸時代においても薩摩だけ異次元なほど家臣の数多いし、戦国時代から5人組制度あるなど、軍事色の強い家中なのでしょう。
あと荷駄についてですが少なくとも2割、長期間の戦争なら半分くらい居てもおかしくはないと思います。日に1人あたり米など1kg消費すれば10日で10kg。無論、ほかに煮炊きする道具や粗末な寝具とか含めれば人力で運ぶ場合、1人30kg以上くらいはあったのかもしれません。
ちなみに桶狭間のとき今川軍は沓掛に到着してから約1週間もかかって大高城へ家康などが兵糧を入れてます。つまり戦闘部隊より荷駄隊はそうとう足が遅かったのだろうと思われます(長途の遠征ならとくに)。なので戦場に大軍が到着して即合戦や城攻めというのは実際のところ難しかったはず。長篠も信長と家康が到着してから3日後ですし。関ヶ原も合戦の20日くらい前から岐阜、大垣、関ヶ原付近などに兵が展開してました。
それから大友との戦役でも死者の数少し多いかも…と気になってました。大体死者1人出たら最低でも2倍は負傷者出るかな…と。7千人死者出たなら戦前の軍隊だと全滅判定ですね。凄惨なことで知られるインパール作戦でも戦死者や行方不明者は約2割半。包囲殲滅にせよ白兵戦で7千人の死者出すのに兵力において劣勢の島津側が受けた被害もそうとうあるはず。
ただ明らかに劣勢となれば加速度的に弱くなると思います。戦国時代の場合、軍目付とかの前で活躍し、首を多くとり、武功をたて、恩賞もらうわけですけど、全体で崩壊したら恩賞どころの話ではありません。頑張って首とる必然性もないから、ひたすら逃げる一方のはず。包囲殲滅なら7千も可能性はあるかもですけど、島津は恩賞で首まわならくなりますね(笑)。首実検に数日かかるだろうし。
作者からの返信
コメントありがとうございます^^
籾高だとさらに実数が減りますね:
荷駄隊は……うーん、考慮すればするほど複雑になっていく;;
戦闘開始は……今後、適宜考えて調整します。
死者は……どうしようかと考えたんですよね~。
二千人くらいにするか、どうするか。……確かに全滅判定ですねw
まあ、うーんと伊東軍は表向き二万だが、内一万五千はあとから無理やり徴兵されて士気が低い……として、半数くらいか……。??しかしカンナエの例もありますしね。
ただそうなると、いやいやカンナエの場合はこうだああだ、となる気がします。
この辺のところは一般的な包囲戦で、兵力差がどのくらいで敵味方の被害が何%、というざっくりとでも基準があればいいんですが、残念ながら見つける事ができませんでした。
どの程度を参照し、どの程度分析、考慮するか、となると人によっては、まちまちになってきますよね。
その中で私なりに取捨選択し、今後の執筆の参考にさせていださきます。
以降、ご了承くださいw
今後とも宜しくお願いします^^
追伸
そうですね^^;;
うーん、首実検ですか……うげえ、げぼげぼ。
私ならそうなりそうです;;w夢にでそう。
編集済
更新&返信ありがとうございます、やっぱり大敗しましたか、伊東さんのところは。まあ、これで純正くんも重い腰上げざるを得ないし仕方ないかな。
義祐さん、甘い言葉囁く連中、重用したツケが来たとも言えます、戦後伊東家残れるといいですね、難しいかもしれませんが?そういえば銀英伝のヤン・ウェンリーも「君なら出来る、その甘い言葉に騙された人間がどれだけ多いことか」って言ってますしやむを得ない?(笑)
作者からの返信
コメントありがとうございます^^
ベタベタな展開でしたが、どうしてもいいイメージが湧きませんでしたw
そして純正も、ちょっと甘く見ていたかもしれません。伊東は正直立ち直れないので、これをどうするか。
島津に併合されてしまうことだけは避けて、三州統一を防ぐ!
純正がんばれw
この当時薩摩一国でだいたい18000もの兵力を動員できたかな?
主人公側と戦うことになったら海軍力が違いすぎるから島津の主要城はほぼ海上から砲撃されて崩壊されるだろうけど。
作者からの返信
コメントありがとうございます^^
石高については場所は薩摩一国と日向の諸県郡の北西部、そして大隅の菱刈郡、桑原郡、姶良郡、そして曽於郡の北西部を領有しているとの設定です。
また、戦国期の資料が不足しているので、全国的な石高が記載されている、天保国絵図を参考にしています。
実際の戦国時代はもっと少なかったと思われます。ですから、母数となる石高は46万石としています。
そして、よく言われる1万石で250人で計算すると、約11523人です。これはいわゆる、効率化なのかもしれませんが、後年~石で~人出しなさい、と決めた基準ですので、実際の動員可能人数はもっと多かったと考えます。
人口計算の基準ですが、四公六民で考えて60%だとします。これは一人が一年で食べる米が一石だからです。しかし玄米での石高ですので、66%程度になると計算します。
また、当時の農民の主食は、おそらくヒエやアワその他だった可能性もあるので、厳密に産出はできません。
ただ、これで人口を計算すると303,600人です。例えば一世帯5人とすれば60,720世帯となります。一世帯に男性が一人いたとして、約六万人が動員可能です。
しかし、生まれたばかりの赤ちゃんもいれば、50~60~の当時で言うおじいちゃんもいたはずなので、この数字は妥当では無いと考えます。ですから、最後は想像でしか無いのですが、三世帯に一人の動員で二万人弱、という数字となりました。
もっと可能だ、という人もいるかもしれませんし、多すぎる、という人もいるかもしれません。ただ、一応の設定として、この基準で三万程度がぎりぎりとしています。
これ以上は産業がなりたたない、一揆が、暴動が頻発、流民が増大、のレベルだと認識していただければと思います。ですから、この時の伊東の兵力は、前述の限界を超えています。
無理をして徴兵したと考えられます。(という設定)しかし、史実で飫肥役で同数を動員したとありますから、限界で徴兵したのか、それとも誇張なのかまではわかりません;;w
また、海軍力は明らかに小佐々が上ですので沿岸部はそうなるでしょう。
長文になりましたが、今後とも宜しくお願いいたします。
こういう都合のいいことしか知らせない奴らとかは根こそぎぶっ殺したほうが良いですな。
作者からの返信
コメントありがとうございます^^
そうですね!歴史を見ても国を滅ぼした人たちは
たくさんいます!^^
無事フラグ回収…相良も早々に引き上げたし、残る肝付は、何処まで踏ん張れるのか。
作者からの返信
コメントありがとうございます^^
そうなっちゃいましたよね;;
肝付も苦戦というか、他がちょっとあれなんで、
苦労している面も多々あり?;;