第304話 予土戦役、宗麟の狙い②南海路の争奪戦

 永禄十二年 六月四日


「ただし、浦戸をいただきたい」

 元親の顔色が変わった。まさかそこを突いてくるとは。


 山が多く平地の少ない土佐では、稲作は主要な産業たり得ない。そのため浦戸湾を一望する浦戸城は、本拠地である岡豊城の支城、というだけではなかった。


 木を切り出し、木材として加工をしたものを、京や大坂で売りさばく。そのための重要な海運拠点だったのだ。府内と臼杵、海運や貿易の重要性を熟知した、宗麟ならではの主張であった。


 もちろん、木材だけではない。土佐領国の産物すべてが、海路にて上方に送られていたのだ。宗麟が浦戸に着目したのは、豊後から上方への中継地点としてである。


 経済的にも軍事的にも優位に立つためであった。豊後の府内、臼杵、佐伯から宿毛を通って、浦戸経由で上方へ向かう航路の構築である。


 瀬戸内海に比べて南海路は危険度が高い。しかし、外洋を航行可能な南蛮船ならば、その危険度が減ると考えたのだ。そして瀬戸内海の海賊もいないし、帆別銭を払う必要もない。


 今までは瀬戸内海を金を払って航行するか、南海路を多少の危険を冒して航行するしかなかった。結局のところ、どちらを選ぶかは一長一短だったのだ。


 もちろん危険が完全になくなる訳ではない。しかし、寄港地で乗員の休養や、船の修理などができるならば話は別だ。


 元親は、宗麟が返還に応じた時、不覚にも喜んでいた。しかし、そんなはずがないのだ。一条の旧領回復と交換といっても、人と物と金がかかっている。


「それから、土佐沿岸の湊へのわが商船と、軍船の寄港を許可していただけたら、あとは何もいりませぬ」


「な! そんな馬鹿な! 軍船の入港を認めるなど、できるはずがない」

 元親は立ち上がって否定した。


 宗麟は、笑顔を絶やさない。昨年小佐々との和平交渉の際、吉岡長増が提示されたものを、今度は宗麟が元親に提示しているのだ。無論服属などではない。ただの条件提示である。


「元親殿、否定をされておられるが、われらがその軍を使って土佐を占領するとお思いか?」


 普通に考えれば商船ならともかく、他国の軍船を入港させるなどありえない。それすなわち軍事行動であるからだ。


「それは! それは、われらでなくとも、他国の軍船を入れるとなれば、慎重にもなろうと言うもの」


 元親が言ったことは、おかしな事ではない。同盟国や親交のある領国同士であれば、より連携を深めるためや、相互防衛の意味合いもある。


 しかし、それをこの場で認める事は、長宗我部にしてみれば屈辱であろう。


「元親どの、われらはこれから敵になるのか? 敵であれば、容赦はせぬぞ」


 宗麟は眼光するどく元親を見据えた。睨んでいる訳ではない。ただ、見えない気迫が元親を襲っているのだ。


「とんでもありませぬ。和平に同意していただいて、感謝しています」


 ただ、と元親は続けた。家中が納得しないであろう、というのだ。元親いわく、家中の徹底抗戦派が条件を飲まぬであろう、と。


 もちろんこれは、元親の方便である。あの土佐湾での戦闘で、小佐々に勝てると思った者がいるはずがない。ただ、そういう事にして、第三者を出して条件を緩和させようとしたのだ。


 宗麟が、疑いつつも考えていると、光秀が妥協案を出そうとした。その時である。


「ひとつ、よろしいか」


 幕府の政所執事である、摂津中務大輔晴門が発言したのだ。光秀が嫌な顔をした。無論、注意深く見ていないと、その表情の変化には気づかない。


 口裏をあわせて、交渉の席では発言しない約束ではなかったのか? 光秀はそう思った。


「浦戸は割譲ではなく、そうであるな、十年貸し出すというのではどうだ?」


 いわゆる、租借である。その概念は当時なかったが、はからずも晴門の発言によって、戦国の世に登場したのだ。宗麟は覗き込むような眼差しを晴門にむけた。真意を測る、とでも言うのだろうか。


 本来、租借という意味合いならば主権は小佐々にあり、行政権や徴税権も小佐々にある。賃借契約というものは存在するものの、歴史上まともに支払われた経緯はない。


 概念がない以上、その中身は協議の必要があるが、割譲と賃貸ではまったく意味が違う。


 少なくとも、この時点で元親はそう考えていた。手放す事になるが、賃料が入る。そして十年経てば戻るのだ。その時は責任をもって幕府が調停をするであろう、と。


 賃料は浦戸以外の土佐湊、もしくは室津湊の整備にでもあてようとも考えた。


「他の湊は問題なかろう? これから戦をする訳ではないのだ、どうだ、元親どの」


 今後敵対するわけではなく、友好を前提にしているなら、湊の開放は問題ないであろう、という理論だ。軍船に関しては微妙な部分ではあるが、友好国や同盟国ならあり得る。


 晴門の発言の意図については、やはり義昭の意向が働いたのであろう。義昭としては、信長や純正とは疎遠になりたくはないが、元親にも恩を売っておきたいのだろう。


 しかしこれでは、いかに長宗我部に有利な条件ではないとはいえ、光秀は面目を潰された形になる。幕府が光秀、ひいては信長を軽んじているとも見て取れた。


「宗麟殿、いかがか?」

「元親殿、どうされる?」


 宗麟の晴門をみる眼差しは変わらない。しかし、やがて同意した。正直なところ宗麟にしてみれば、租借だろうが賃貸だろうが、割譲だろうと、あまり変わりがなかった。


 事実上同じ様に使うために、水面下ですでに動いていたのだ。その事を知るものは、この場には宗麟本人しかいない。


「良いでしょう。十年は小佐々が彼の地を治めるという事で、譲歩いたします。詳細は、後ほど」


 宗麟のその言葉に、元親はホッと胸をなでおろし、


「こちらも同意いたします」

 と安堵の声をあげた。誰が見ても小佐々に有利な条件であったが、領地の割譲は免れたのだ。


 土佐沿岸の湊の使用については実害はない。帆別銭を減免するにしても、税収がある。軍船の寄港は心理的な圧迫を受ける、という側面はあったが、あくまでも寄港である。


 光秀のみが苦虫を噛み潰したような顔を時折みせた。


 幕臣の立場でもあった光秀は、表立って異議を唱えられなかったのだ。そして今回の交渉経過は、信長にすべて報告することになる。


 もしかすると、こういった細かな出来事ひとつひとつが、信長と義昭の軋轢を生んでいったのかもしれない。小さな積み重ねが、やがて大きな対立となっていくのだ。


 ともあれ難航必至だったこの交渉は、折衷案が出された事で、長宗我部が納得できる線で収まったのである。


 しかし後日、この租借(賃貸)と船舶の出入り自由が、長宗我部家の未来を曇らせる事になるのであった。

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