第279話 本圀寺の変?未遂 堺の戦い 小佐々純久の奮闘

 永禄十二年 一月十五日 小佐々城 小佐々純正


 永禄十二年は、気持ちよく開けた、はずであった。妻である舞の妊娠がわかって天にも昇る気持ちであったし、五百名を超える新年の祝の客は、小佐々の将来が安泰であると、周囲に示すだけの人数であったからだ。


 それを、やつらが、ぶち壊した。やってしまったのだ、歴史通りに三好三人衆。


 事の発端は義昭の将軍宣下の諸々の行事が終わり、信長が岐阜に帰った時だ。昨年の十二月二十四日には大和の松永久秀も、信長に礼を言うために岐阜にくだっていた。三好三人衆はこれを見逃さなかった。


 これ、後から考えたんだけど、報復考えなかったのかね? 信長や松永弾正が京都に戻ってきて、報復されるって。物凄く疑問。ともあれ、


 十二月二十八日に、三好義継の家臣が守る堺の和泉家原城を襲って落としたのだ。そして、翌永禄十二年一月二日、堺をたって京へ向かった。……と、史実ではなっている。しかし、そこは大使館を設置し、京都を守る京都所司代になった俺がいる。


 抜かりはない。堺と京の間にはすでに伝馬制が敷かれ、昨年の十月から大急ぎで岐阜との間にも伝馬宿を設置したのだ。馬の数はまだ少ないが、このような大事件を漏らすはずもない。


 二十八日の昼過ぎの和泉家原城落城の知らせは、同日の申二つ刻(1530)には京都大使の小佐々純久の知るところとなった。急ぎ将軍義昭に謁見を願い出て、三好三人衆の和泉襲来と家原城落城の知らせを伝えた。


 義昭は、激怒である。純久は『所司代は洛中並びに内裏、そして幕府のある本圀寺を守るのが仕事であるが、命あらば京の治安を乱す者として、出陣して迎え撃つ』と具申した。義昭はその意気や良し、と許可を出し、純久は軍を率いて堺へ向かったのだ。


 夕方だったのでその日のうちに出発は出来なかったが、翌日早朝に出発できるよう全軍に司令を出した。それでも、洛中警備には千人を残す。昨年の閣議で旅団規模の六千人に増員されたので、堺に向かうのは五千人である。


 永禄十一年の十二月二十九日の朝、卯の三つ刻(0600)に出発し、野営を挟んで翌永禄十二年の一月二日の申一つ刻(1500)には家原城付近に到着する予定であった。しかし三好三人衆は、その時すでに京に向けて出発していたのだ。


 三好三人衆が出発するまでには間に合わなかったが、京都に攻め入られる前に防ぐ事は出来た。会敵の場所は東成郡の天王寺村周辺である。純久軍は事前に三好三人衆の動きを知り、会敵が予想される地点に着くまでに陣形を編成していたのだ。


 ゆっくりと進む。方陣を組んで、敵の騎馬と歩兵に対応する。敵は大砲など持っていない。大使館に配備されているのが旧式のフランキ砲だとしても、十分に威力がある。三好三人衆襲来と、城の落城を聞いて付近の民衆は避難していた。


 それが幸いにした。民家はあるものの、人影はない。被害を出さなくて済んだ。


 兵力は対する三好の軍勢は一万で、純久軍は五千。一般的に平野での戦いは兵力が物を言う。二倍の兵力の敵に勝つのは容易ではない。一時的には勝てても、最後は物量に押され、力負けするのだ。


 三好三人衆の軍は、はじめはいきなり表れた純久の軍に驚いていたが、すぐに自軍が有利だと知ると、何も考えずに突撃してきた。京都大使館の独立旅団は初めての実戦であったが、統率は取れて命令系統も確立されていた。ゆえに浮足立つ事もない。


 まずは数十門はあろうかというフランキ砲が火を吹いた。どおん、どおん、どおん、と、周囲を物凄い爆音が支配し、鉄球が降ってくる。直接の死傷者はもちろんいたが、敵に与える精神的影響は大きい。


 騎馬も足軽も、すべてがこの未知の兵器に恐れおののき、断末魔の叫びをあげたのだ。それでもひるまず突撃をしかけて来る。今度は鉄砲だ。百や二百ではない。千を越える鉄砲が、だだだだだだだ、という連続音とともに三好の軍勢を粉砕する。


 純久軍は、敵の連続した突撃にもかかわらず、圧倒的な優位を保ち続けた。堅固な陣形と巧妙な戦術によって、敵の勢力を押し返し続けたのだ。純久弓の名手ではあったが、残念ながら出番はなかった。


 遠距離の敵には大砲で直接・間接的に被害を与え、接近する敵には鉄砲を浴びせかける。そしてそれをかいくぐった敵には騎兵が襲いかかる。騎兵が攻撃中は銃撃は出来ないため乱戦となるが、少なくともそれまでに敵の戦力は激減しているのである。


 百名が突撃して、目前まで到達できるのは二十人もいないのだ。そしてその二十人も騎兵と銃剣の餌食になっていった。一万対五千が、九千、八千となっていく。敵の騎馬と足軽は、純久軍の堅固な陣形と組織的な戦術に対して全く歯が立たたない。


 純久は、昨年九月に宗像氏貞が見せた陣形戦法を真似て実践し、そして勝利したのだ。純久も大使館で大使として働いてはいるが、戦国武将なのである。肥前から遠く京にいたとしても、定期便で戦況は知っていたのだ。


 敵の士気の喪失は壊滅的な物であった。純久軍の鉄砲隊は、敵を恐怖に陥れる連続射撃を繰り返し、敵の陣を次々に突き崩していく。多勢に無勢が、敵が接近する時には逆転しているのだ。


 戦場には敵の悲鳴と叫び声が響き渡り、純久軍の勝利の気勢が高まっていく。


 そして戦闘開始から一刻(2時間)もしないうちに、敵は完全に沈黙し、敗走を開始した。純久は追撃はしなかった。陣形を変更させるのに時間がかかるし、無駄な損失は出したくなかったのだろう。正解だ。三好三人衆はこれを機にさらに没落する。


 来年には三好宗渭が病没し、数年内に岩成友通が戦死、三好長逸も行方不明で完全に歴史から消えるのだ。それに今後は目立った反抗もない。


 かくして永禄十二年一月五日に、三好三人衆が起こしたであろう本圀寺の変は起きなかった。これは多分後世の歴史書に「和泉家原城の乱」とでも載るのだろうか。いずれにしても純久は感状をもらい、官位の昇進が打診されたそうだ。


 ん、なんか俺にも来そうな予感。そして上洛せい、と命令の予感。今のところ、京都は純久叔父上に任せて、対島津、対南方に専念したいんだけどね。


 あ、それから叔父上にも休みとってもらわないと。適度に休んでいるとは思うけど、オンとの新婚(?)旅行もさせてあげたいし(知らないと思っているんだろうが、バレてるよ!)、いずれにしても何か喜ぶような褒美をあげないとな。


 まったく、↑して↓して↑した正月だったな。

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