第261話 謀反騒動の終焉

 九月十三日 卯の一つ刻(0500) 豊後海部郡 朝日嶽城北西 神代貴茂准将


 偵察に出した斥候によると、同じく城の北西半里にある柿木の天満社に、※柴田礼能軍は陣をおいて城を攻めている。そして神代貴茂の騎兵部隊の接近には気づいていない。ここまでの道のりは左右を山に囲まれた隘路であった。延々と続いている。


 かろうじて城の西側を南北に流れる市園川と、その支流にそって平野部がある。途中の酒利村の館はほぼ無人だったので難なく通過できた。占拠した後に城攻めに加わったのだろう。一撃必殺! 本陣に攻撃を仕掛ける。


 内牧城で得た情報通り、鉄砲の備えは極端に少ない。長槍もない。城攻めに必要ないと考えたのか、それともそもそも無かったのかは不明である。いずれにしても城方も攻め方も、戦局を左右できるほどの鉄砲は持っていないようだ。


 礼能軍は、ほとんどを城攻めに加わらせている。そのため数人の近習と十数名の兵しかおらず、制圧に時間はかからなかった。敵の(小佐々の)援軍など、来るとしても数日後であろうと高を括っていたのだ。


 大将の柴田礼能は槍の使い手であったが、その力量を発揮するまでもなく、降伏を余儀なくされた。その後、すぐさま降伏勧告を攻城軍に送った。大将が降伏した事もあり、戦う意義を失った反乱軍は辰一つ刻(0700)には全員降伏した。


 徹底抗戦を叫ぶ家臣もいたようだが、取り押さえて拘束した。どのくらいの兵を残しておくか貴茂は迷ったが、結局士官数名と騎兵百を残した。攻城軍の兵が三百と少なかった事と、もともとは身内である。戦いたくないのだ。


 士気が低く無理やり従軍させられていた者も多い。さらなる反乱は起こらないだろうと判断した。城主の柴田紹安は、城に留まってねぎらいを受けてくれと言ってきたが、あいにくそんな時間はない。すぐにでも栂牟礼城へ向かわねばならぬのだ。


 兵の負傷の有無確認や事後処理に半刻ほどかかったが、辰三つ刻(0800)には出立できた。それから城主の柴田紹安には、捕虜は後日通達があるまで、絶対に殺さないように念を押した。子が親を攻めるのだ。息子を殺してもおかしくない。


 ■午三つ刻(1200) 栂牟礼城 北西


「栂牟礼城の南側は番匠川にそって平野部が広がっている。そのまま進軍すれば見つかってしまう。北西一里の江良付近で待機し、先行させた斥候の報告を待つ」


 貴茂はそう言って斥候の報告を待つとともに、部下に周辺の様子を探らせた。どうやら※佐伯惟真は力攻めはせず、大友の援軍を待っているようだ。城の兵糧の残りが二、三日分だと言う事も知っている。


 それもそのはず、戦っているのは城主で父の佐伯惟教である。さらに攻めているのは、昨日まで自分がいた勝手知ったる城である。※宗麟に依頼した援軍が到着するのを待っているのかもしれない。


 斥候からの報告によると、どうやら大友の※臼杵城からの援軍が到着しているようだ。ここはまず、使者を送る事とする。無駄な戦闘は避けるべきだ。


 臼杵城からの援軍の大将は※田原親賢だが、大友家老※吉岡長増殿との合意があり、それに従ってこの戦闘を停止するように伝える。また、朝日嶽城の謀反軍が小佐々に降伏した事も伝える。しかし、予想の範囲内だが、やはり信じてもらえない。


「お初にお目にかかる、小佐々家陸軍、第五軍団長、神代貴茂でござる」

 七ッ割平四ッ目の小佐々の家紋の旗を使者旗として掲げ、貴茂は敵の陣中に入って行った。このへんのところは正直面倒くさいのだろう。


 危険と言えば危険だが、敵もここで小佐々の使者を無意味に殺す意味くらいはわかるだろう。近習を一人だけ連れ、自ら行った。


 田原親賢は面食らったが、すぐに姿勢をただして返礼し、

「こちらこそお初にお目にかかる、大友家家臣、討伐軍大将田原親賢にござる」


 お互いに立礼しあった後に、幕舎の中で正対して座る。

「さて、回りくどい言い回しは苦手じゃし、時間もないのでこのまま本題に入ってもよろしいでしょうか」

「構いません」

 親賢は答えた。


「何も言わず、臼杵城へ戻ってください。われらと戦っても勝ち目はありませぬ。二日後には後詰めの三千が到着しますし、一週間後には肥後の一万が到着します。それに、この援軍命令は取り消されているはずです」


 親賢は怪訝そうな顔をした。無理もない。なぜそんな事を他家の者に言われなければならないのか。兵力はわかる。二千対一万五千。どう考えても勝てない。


 謀反軍の相手ならまだしも、鍛えられた小佐々正規軍と士気の下がった大友軍では戦にならない。しかし、今初めて会った、しかもいわゆる敵の大将に、『あなたの受けた命令は無効です』などと言われて理解できるはずがない。


 性急過ぎたな、と貴茂は思ったが、津屋崎から出された、長増殿の一筆が入った書面はまだ届いていない。残るは長増殿が直接臼杵の宗麟と話をして、決着が着いていれば、その旨の書面もしくは使者が来るはずだ。早く来てくれ、貴茂はそう願った。



 逆算する。津屋崎からの信号発信が、三日前の十日、申三つ刻(1600)であったから、その時にはすでに長増殿は出立していたであろう。


 殿がもし、わが小佐々の伝馬を使わせていたら、夕刻ではあるが、一泊したとて翌日十一日の巳の一つ時(0900)までには日田城には着いていよう。


 そこから普通の伝馬ではない馬で臼杵まで行ったとして、どんなに遅くても昨日の十二日中には着いているはずだ。今日の朝から話をしていれば、もうそろそろここに使者が着いてもいい頃だ。


「では、日没まで待って下され。それまでに来なければ致し方ない。もし戦うと言うのなら、お相手いたす」

 貴茂は仕方なくそう答え、待つことにした。


 はたして夕刻、申三つ時(1600)を過ぎた頃、息を切らせた使者が親賢に書面を渡した。親賢はそれを読み空を仰ぎ、大きく息を吸って、


「わかり申した! それでは撤収いたす。後はよしなに」


 そう言って軍をまとめ、臼杵城へ戻って行った。まるでその書面を火にくべそうなくらい、落胆した様子であった。


 貴茂はその前に、親賢に頼んで惟真軍に対し使者を出してもらった。大友が小佐々と和平交渉をしている事、小佐々と戦をする事になるので援軍は臼杵へ帰る事、朝日嶽城が落ちた事、後詰めの一万三千の軍の事をあわせて知らせた。


(小佐々派の城主ではなく、謀反した惟真にとって)敵である自分の事を、素直に聞くとは思えなかったからだ。そして援軍の大将であった親賢の使者の力はてきめんであった。すべてを悟った惟真は自害しようとしたが、取り押さえた。


 こうして謀反発覚から三日、海部郡の覇権を左右する謀反騒動は幕を閉じたのであった。

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