第301話 『栄光からの転落』伊東義祐、政務を顧みず
永禄十二年 五月二十四日 都於郡城
伊東義祐は、木崎原の敗北から一年も経たないと言うのに、何事も無かったかのように奢侈と快楽にふけっていた。
自らが建てた寺で毎日念仏を唱えることを習慣にして、時には政務より優先する始末であった。
さらには都から取り入れた京風文化に傾倒し、豪華な衣装や食器、絵画や書物などを買いあさっていたのだ。次第に周りには耳障りの良いことしか言わない佞臣が増え、義祐もまた心地よい彼らを優遇した。
家中の事や領国の事、領民の事を真剣に考える忠臣は、次第に義祐から離れていったのだ。
「お待たせいたしました、殿。軍議の準備が整いました」。
少し緊張した面持ちで義祐に告げる家臣は、義祐が気乗りしていない事を知っている。
「あいわかった、始めよう」
明らかに無関心な義祐は、言葉少なに告げた。
この日の軍議も名ばかりであり、義祐は島津との戦略について真剣に考える気がなかった。確かに木崎原で負けはしたが、兵はたかが千。伊東四十八城が崩れるとは、夢にも思っていない。
それについさきほどまで、家臣に自分の衣装や食事や趣味について、自慢話をしていたのだ。
「殿、今後、島津にどう向き合いまするか」
家臣の一人が義祐に聞いた。
「戦略か。まあ、それは今のままで良いであろう」
明らかに無関心である。
「なにも、されないのですか? 島津は知っての通り薩摩の国人衆をすべて従わせ、大隅の禰寝も島津につきました。これは、肝付が弱まり、島津の大隅平定が早まる予兆にございませぬか」
真剣に伊東の行く末を考える忠臣は、まともな事を進言する。
「今は、何も起きてはおらぬであろう? 起きてもない事を、考えても仕方あるまい」
面倒くさそうな顔をする。
「殿、他の家臣もお待ちしております。別の考えを聞きましょう」。
今度は別の取り巻きだ。
「お許しいただければ、私も一言申し上げさせていただきます」
堂々とした態度で発言したのは、若い家臣だった。
「なんだ? お前は」
義祐の機嫌が良い訳がない。この軍議の時間は耳障りの良い取り巻きではなく、口うるさい家臣の意見も聞かなければならない。
「殿、木崎原で負けてより、我が伊東氏の威光は、残念ながら陰りをみせておりまする。島津とどう向き合うかを今から考えておかねば、さらに領地を失うかもしれませぬ」
若武者は言う。義祐の顔が歪む。
「殿、軍議の刻も回数も、以前より減っておりまする。文化をたしなみ、花鳥風月を愛でるのはよき事なれど、度が過ぎるといけませぬ。奸臣佞臣の言葉ばかりを聞き入れ、われらの意見は通らぬではありませぬか」
今度は若武者の言葉を擁護するかのように、重臣が発言する。
「なに? 聞き捨てなりませぬな。今の言葉はわれらの事を言っているのでしょうか?」
取り巻きの一人が声をあげる。
「そなたが、という事ではない。そのような臣が一人でもいれば、伊東の屋台骨が揺らぐ、と申しておるのだ」
「殿、今は良いでしょう。ただし、その時が来た時に、すぐに対処できるようにしておかねばなりませぬ。まずは殿ご自身が、もう一度政務に真摯に向き合うべきです」
「お主らはいったい何を言っているんだ? そのような事、わしが考えなくとも、お主らで考えればよいではないか」
義祐は、島津の脅威を全く認識していない訳ではなかった。しかし、今そこに危機がある訳でもなく、衰退の予兆があるなどとは、認めたくはなかったのだ。
「申し訳ありません、殿。われらはただ殿のお考えに従い、全力でお仕えいたします」
「殿のお考えが正しいと信じております。我々はその指示に従って、全力で行動いたします」
「殿、われらがお力添えできる事がございましたら、何なりとお申し付けください」
取り巻きは、何も具体的な案は出さない。ただ、誰が聞いても『はいそうですね』と答えるような、当たり障りのない事しか言わないのだ。
このような会話が続く中、諫言をする家臣たちの苛立ちは、隠すことができないほどに高まっていた。義祐とその取り巻き以外は、今後島津との戦況が厳しくなる事を憂いていたのだ。
木崎原でわれらは負けたのだ。何人の将が討たれたのだ? 何もなかったようになど、できるはずがない。そう重臣たちは考えていた。
しかし義祐は彼らの意見を聞く耳を持たず、媚びる家臣たちの言葉に酔っていた。
「さっきも言うたが、島津への対応? そのような事、その方らで考えれば良いではないか。わしは伊東の将来を願うために、これから念仏を唱えにいくぞ」
義祐は早々に軍議を切り上げようとする。
「お待ちください、殿。まだ何も決まっておりませぬ」。
数の上では取り巻きよりも、真摯な忠臣の方が多い。
「黙れ! さてはお主ら島津と通じておるのか? わしを裏切る気か? 裏切り者は許さぬぞ!」
もはや誰の目にも、義祐が真剣に政務に取り組んでいるとは思えない光景である。
「裏切りなど、とんでもありません! 真に国を思うがゆえ、お諌めしているのです! 殿、どうか目をお覚ましください!」
本当に歴史上の暗君が辿ってきた道である。まさにこのような試練、誘惑に勝ったものだけが、天下を統べるのであろうか。
「もう良い! それ以上申すな。お主らは下がれ。わしは寺に行く、念仏こそがわしの救いだ!」
義祐はそう言って立ち上がり、寺へと向かった。取り巻きは義祐に付いていったが、評定の間に残された家臣たちは、茫然自失としていた。
「これは、もう無理かもしれぬ」
「木崎原に始まった事ではない、よりひどくなったのだ」
「これでは、島津に勝てるはずがない、世の中は動いているのだ」
重臣らは、もう隠そうともしない。それほど忠臣と義祐の間には溝ができつつあったのだ。
このような顛末の後、小佐々純正の使者、外務省の日高資が、先触れを出していたにもかかわらず、二刻以上も待たされ、謁見の間に通された。
■申三つ刻(1600)
「お初にお目にかかります。小佐々弾正大弼様が家臣、日高大和守資にございます」
「うむ、待たせたな。面を上げよ」。
申し訳程度に言っているが、待たせて悪いと思っているようには感じない。寺に行って念仏を上げていたのだ。資がその理由を知らないだけ、まだましである。
「それで資とやら、いかがした。弾正大弼どのとは、取り立てて話をすることもないぞ」
隣国、そしていまや九州の北半分を治める、小佐々家の重臣が来たのだ。普通であれば、何かあるのではないか、と考えるであろう。しかも、待たせるなど考えられない。
「は、この度わが小佐々家は、縣松尾城主土持親成どのを、家中に向かい入れる事とあいなりました。日向の国人のことなれば、まずはお知らせに参った次第にございます」
何も隠すことはない。単刀直入に資は答えた。そして、それに対する義祐の答えは意外であった。
「さようか。それだけか?」
「は? はい、これだけにございます」
「それだけのために、御苦労なことであるな。まあよい、疲れたであろう。今宵はゆるりと休まれるがよい。そうだ、都から取り寄せた珍しい品々がある……」
義祐が資に自慢話をしようとしたので、資は丁重に断り、帰路についた。
資は訳がわからなかった。もう少し抵抗というか、詰問にあうかと思っていたのだ。驚くほど関心がない。どうしたのだ? 木崎原の戦いで敗れ、自暴自棄になっていたのだろうか?
そこを家臣にせっつかれ、十分な計画もなく縣に圧力を加えていたのだろうか。
あわよくば併合しようと目論んでいた? 結局家中にまとまりもなく、思うような成果もだせぬまま、小佐々への服属を許してしまったのだろうか?
資は帰路中そのことばかりを考えていたが、ついに答えが見い出せないのであった。
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