第24話 第六章「継承する」


 大雨が降っている。強風が吹いている。大気が湿っている。マナが充満している。

 破壊音が連続して、うるさい。鼓膜のほとんどを埋め尽くしている。


 耳を澄ませば、あちこちで悲鳴が木霊していた。

 助けを求める声をたくさん、感じた。

 よかった。まだ誰も死んでいない。


 大地から白い光がみるみる消えていく中、紫が一つ、灯る。




「信じていましたよ」

 リンジェルは微笑んだ。

「おはよう」




 ドクターは展望台から、紫を見下ろす。

「戦争」が串刺しにし、「災害」が圧し潰すその瞬間を、赤い目に焼きつけようとする。

 雨雲が、少年の下まで向かおうとしている。




 ……。

 不思議な感情が、プラムの中にあった。


 すごい。

 雨雲と、そこに写る青い魔法陣を見て、そう思った。魔法についてはあまり詳しくないが、その技術に宿る研鑽。何百回、何千回と検証を繰り返し頭を痛めた、努力と情熱を強く感じる。完成させた瞬間の喜びも伝わってくる。

 尊敬する。


 許さない。

 破壊された町と村を見て、そう思った。貧しく、乾いたイーグル地区をここまでの聖地に育て上げた、先人たちの活力と営みを強く感じる。伝統を引き継いだ、当代の者たちの責任も知っている。ずっと近くで見てきた。

 怒っている。


 正反対の感情が同居することもあるのだ、と知った。


「後ろで待っててね」

 プラムが言うと、パフェはこくんと頷いた。


 少年は紫の光を高め、滾らせる。空全体に薄く広げていく。

 雨は大地を崩壊させていく。崩壊が、十歩先のところまで来ている。

 魚と鯨が、群れを成して襲いかかる。


 プラムは深く息を吸い、吐いた。

 正面に手をかざす。


「勝負だ」


 大空が弾け、破裂音が響き渡る。

 雨粒は全て飛ばされ、その瞬間、魚も、鯨も、大気中には一匹もいなくなった。


 ネズミは目を見開く。

 軍人は驚く。

 逃げていた人々は空を仰ぐ。


 プラムは、雲を睨んだ。


 次に雨が地上に届くまで、目算五秒。

 全身に光を帯び、


 走る。


       5


 凄まじい速度で、軽やかに疾走する。

 この五秒の間に距離を詰める。


       4


 紫の光を高め、走りながら展開。

 空にそうしたように、今度は地上の瓦礫、石、砂の一つ一つに光を纏わせる。


       3


 光を帯びた瓦礫たちがカタカタとひとりでに動き、やがてプラムに追従するように飛び出す。

 十、百、千と、子分は次々にその数を増やし、少年の疾走に付き従う。


       2


 プラムはさらに加速する。瓦礫はそれでもついて行く。

 一万を超える弾丸を周囲に漂わせ、少年は台風の目となる。

 空を見上げる。


       1


 魚型の雨が降ってきた。

 プラムは上に手をかざし、合わせて瓦礫も上を向く。


 射出。

 雨と石が空中で激突する。

 一万に一万。十万には十万。降り注ぐ一滴一滴に、一粒一粒を正確にぶつけ、相殺していく。


 ぶつかる度に水飛沫、あるいは土煙が舞う。依り代を失った「戦争」のマナは効力を発揮できず、地上には一つたりとも届かない。

 パフェはもちろん、町の人々全員が守られる。


 周辺の瓦礫が減っていく。このままでは無限の雨に物量で押し負ける。

 ならばと、プラムは紫の光を地下深くまで浸透させる。

 サイコキネシス。岩盤を割り、砕き、石と砂の弾丸を生成する。


 射出。

 大地を弾倉としたマシンガンが雨を押し返していく。雲に大量の水があるのなら、地上には大量の土がある。数では決して負けはしない。


 プラムはさらに加速。

 紫の線を引き、その後ろに大量の石を連れ、町の東門を抜けていく。


 襲いかかる十の鯨型。家の倒壊によってできた巨大な瓦礫を複数ぶつけ、弾き飛ばし、ただの水へと還す。


 一直線に走る。雨雲の影が覆う奥深く。その中心まで。


 魔法陣の真下まで到達した彼は全身の光を高め、浮遊。

 高く、高く、飛び上がる。


 高度百、五百、千。


 矢のような速度で軽やかに舞い、雨雲目がけて突き進む。


 薄い空気は苦にならない。降りかかるGも苦にならない。

 極限の集中で知覚を研ぎ澄まし、迫り来る雨を打ち落とし続ける。


 紫に輝き、岩の尾を引くその姿は、まるで地球から切り離された彗星のように、人々の目には映る。


 ドクターは杖を振った。

 指揮棒のような形をした「操作」の杖。

 彼は雨の一部を操り、プラムを追尾するように命令する。


 不自然な形に軌道を曲げ、脇から、背から、死角を突くように、あるいは包囲するように泳ぐ、魚型の雨。


 プラムは身を捻り、鮮やかに躱す。石を集中的にぶつけ、完璧に対処する。

 操縦者の意図を読んだかのようなその動きには一切の迷いもなく、かする気配すらない。


 高度二千、二千五百。


 大きく弧を描く軌道で、さらに高く飛び上がっていく。


「くっ……!」


 ドクターは奥歯を噛み、手を変える。

 雨を集めて固め、練り上げ、巨大な水の塊を合成していく。


 完成したのは、学校一つを丸飲みにできるほどの極大の水龍だ。「戦争」と「災害」を高密度で凝縮した姿は破壊の二文字がよく似合う。


 とぐろを巻き、大口を開け、小型の雨とともに少年を追い回す。


 しかし、プラムはものともしない。


 大きく横に避け、右手に紫光を集中させると、念力で、その太い胴体を掴む。

 掴んだまま彼は、空中で一回転。遠心力をつけ、龍を天空に向かって投げ返した。


 水柱は雨雲の一部を貫き、その一角の雨が一瞬、止む。

 プラムは加速し、さらに高くへ。


 雲に近づくにつれ、雨は激しさを増す。連れてきた瓦礫は尽き、いよいよ弾切れとなる。


 鯨と魚が迫り、囲い込まれる。

 次の瞬間には、少年は蜂の巣になり、無惨に殺されることだろう。


 だが、一手遅い。

 大空にはすでに、紫の光が展開されている。


「サイコキネシス!」


 念力が空を弾く。

 雨はことごとく吹き飛び、再び魚はいなくなる。


 高度三千五百。


 距離を詰める。念力を込めた右手が、魔法陣の浮かぶ雨雲を、掴む。

 それまで垂直に飛んでいたプラムは九十度折れ曲がり、雲を掴んだまま、東へ。


 切り裂くように真っ二つ。

 雨雲が、魔法陣が、ハート型に歪んでいく。強力な念力で空間ごと、大空を、捻じ曲げていく。


 筋肉に力を込める。

 抵抗するマナを丸ごと殴り伏せるように、腕を、振る。


「うぅぅらぁっ!!」


 大気を割るような、一閃。


 空が晴れる。

 雲が霧散し、一筋の割れ目から、月明かりが照らし出す。


 星々の輝きを全身に浴びながら、プラムは大の字の格好で、ゆっくりと落下していく。


 落ちながら、三番街の展望台に首を向けた。ネズミの赤い瞳と、目をかち合わせる。


 僕の勝ちだ、と呟く。


 テレポート。

 三度繰り返し、パフェの隣まで一瞬で帰ってきた。


「ただいま」

「うん、おかえり」


 彼女は驚いた様子もなく応じた。

 宣言通り、プラムは大魔法を打ち砕いた。彼自身の体にも、パフェの体にも、かすり傷一つついていない。本当に、全てを救ってしまった。


「まだだよ」

 緊張を解きかけたパフェに、柔らかい警告がかかる。

「まだ、残ってるから」


 プラムはネズミのいた方角を見ている。横顔は、もう長閑な少年のものではなく、戦う人間のものだった。


「プラム……」


 パフェは次の一言を躊躇って、町を見渡した。死に体で、ボロボロで、しかしまだやり直せるかもしれない、町を。

 細い声で、言う。


「助けて」


 ああ、

 プラムの心に、充足の味が広がった。大きな器が一つ、満たされるのを感じる。


「うん」


 ずっと、その言葉を待っていたんだ。



       ♦



 ドクターは、あえて考えないようにしていた。


 あらゆる場面で計画を狂わせてきた、紫色の少年。得体の知れないその存在を、危険視するのではなく、不確定要素として計算から排除していた。

 そうでなければ、どんなに命を削ろうと、どんなに綿密な戦略を立てようと、全て失敗すると、そういう結論に至ってしまうだろうことを、半ば確信していたから。


 固執、していたというのか。

 常に冷静に、客観的に局面を捉えるよう努めていたドクターは、生涯で初めて明確に、誤った判断を下した。魔法陣さえ起動すれば勝てると、愚かにも思い込んだ。


 焦りが、あったのだろうか。焦りを感じるほど、入れ込んでいたと? この無機質な心に、そんな動物らしい感情があったのか?


 立て直すための指針を示さなければならなかった。しかし、彼は無言で考え込むばかりだ。混乱している。もはや、自分自身の脳がわからない。冷静さを欠いているらしい今の自分が、果たして的確な指示を下せるのか。判断できない。


「何をグズグズしてイル! 今こソ、奴を潰スのだ!」


 沈黙するドクターに声を上げたのは、プリンスだった。


「突撃ダ! アノ子供を囲み、袋叩きニするのダ! 加護の領域を削リ、人間どもハ満身創痍! コの勝機をみすミス棒に振る気カ? 頭が悪イ!」


 得体の知れない紫の力について、プリンスはこう考えていた。あれほど能力を発揮した後なら、動きが鈍るだろうと。だからなおさら、今しかないのだと。


「行くゾ! 勝利は目の前にあル!!」

「待」


 て、とドクターは言いかけて、やめる。諦めて逃げるべきだと彼は考えていた。しかし、


 逃げる?

 どこへ? あの怪物を相手に、逃げることなどできるのか?


 落下する少年と、目が合った。全てを見透かしているようなあの気味の悪さには、覚えがあった。


 ――ずっと、見られているような気がする。


 背筋に悪寒が走った。鳥肌が立つ。鳥肌が、立つ。

 頭にあるのは恐怖だ。しかし、それだけではない。胸の内に湧き上がる、衝動がある。


 衝動は言っていた。殺すべきだと。理性ではない、遥か昔に忘れた感情の部分が、大声で語りかけていた。


「行こう」

 ドクターはプリンスに倣う。


「突撃だ」

 生まれて初めて、感情で判断を下す。



       ♦



「いいんですね?」


 グレゴリオの邸宅の広い応接間で、リンジェルとプラムは向かい合っている。プラムの側に立つパフェとカールに、薄紅の瞳が問いかける。両者は家族、村長、それぞれの立場から頷き、同意を示した。


「プラムも、覚悟はできていますか?」

「うん、できてる」


 リンジェルは居住まいを正していた。背筋から指先に至るまで上流階級の気品があり、普段の砕けた雰囲気はない。彼女は王女として目の前にいる。プラムはそれを強く意識した。


 緊急時ゆえ、応接間には人が少ない。他はメイジーと、グレゴリオの代表者が二人。それから使用人だけだ。彼らは静かに、会話を見守っている。

 王女が切り出した。


「これから語るのは、プラム・ブルーの出自、及び、とある一族の歴史にまつわる話です」


 テーブルに、一冊の本が置かれる。邸宅にある書庫の奥から取り出された、古い本だ。

 強い加護を宿した物は劣化しない。むしろ時間とともに研ぎ澄まされ、美しくなっていく。だからこそこの本は、作られた当時の白さを保ち続け、人の想いの分だけの重みを宿している。


 題は、『アルベール・オーリオー』。


「これは誰?」

「勇者、と呼ばれた英傑たちの、最初の一人です。聞いたことはありませんか?」

「そういう伝説があるって、ぼんやりとだけ」

「伝説ではありません。千年ほど前まで、彼らは実在しました。その存在は時とともに忘れ去られ、今では王族、貴族、あるいは神職の家系にひっそりと語り継がれるに留まっていますが」


 リンジェルは本のページをめくる。

 原典ではなく千年前に直された写本であるため、文章は現代語に近づいている。文字そのものは理解できるが、見慣れない文脈でとても読めない。学者たちによって解読された内容を、彼女は伝え聞かせた。


 時は三千年前。地球に魔物が出現し、神が人類に加護を与えた。その、少し後の話だ。



【加護を賜った人類は精強であった。魔物の脅威に屈せず、立ち向かい、退けた。

 勇気の光はあらゆる邪悪を退け、人々は、かつての平和な世の中を取り戻していったのである。

 しかし、魔物たちは狡猾であった。人類は卑怯な罠に嵌められ、騙され、再び危機に陥っていく。】



 それは、プラムの知らない歴史であった。教会の経典にも、学校の教科書にも、神に選ばれた人間が一方的に魔物を退治したと、そのような旨が書かれているだけだった。苦戦していたという事実は、一切伝えられていない。



【闇討ちに遭い、人の王に凶刃が向けられたその時、夜空に浮かぶ星々の、最も輝かしい一つが瞬いた。

 流れ星のように大地に降り立ち、王を救った異星の使途は、人間の男と瓜二つであった。ただ一つ、ラベンダーのごとく、美しい色の髪と目をしていたことだけが異なっていた。

 男は、アルベール・オーリオーと名乗った。】



 ラベンダーは紫色の花だ。紫の髪と目を持つ男。


「僕みたいだ」

「そうですよ」

「僕って宇宙人だったの?」

「わかりません。今もなお、彼らが地球外生命体であるという根拠は示されていないので。そもそも、当時の人類に『星』という概念は存在しないはずなので、解読の方が疑わしいという話もあるとか、ないとか」

「へぇ」

「ただし」


 リンジェルは指差す。


「君の身に備わった、その紫色の光」


【アルベールは、摩訶不思議な力を操った。】


「テレパシー、サイコキネシス、テレポート」


【人々は、その第二の神とも喩えるべき全能の力を指して、神通力、あるいは、人を超える力――超能力と呼んだ。】


「超能力の原理が地球の法則では説明できないこともまた事実なので、宇宙に由来する何らかのものである可能性は、ありますね」

「そうなんだ」

「ちょうど百年ほど前に飛ばされた探査機が、超能力に近しい成分を帯びた物質を発見したという報告があるので、信憑性は増したかもしれませんね」


 プラムは手を開閉する。このなんの変哲もない両手の中に、星々の神秘が宿っているのかと思うと不思議な気分になったが、すんなりと受け入れることができた。無意識に、似たものを感じ取っていたのかもしれない。

少し、ワクワクする。



【アルベールは人類の先頭に立ち、誰よりも果敢に戦った。自分より遥かに大きな怪物にも、万を超える軍勢にも、決して臆さず、怯まなかった。

彼は世界中を旅し、行く先々で魔物から人々を救った。しかし見返りは求めず、ただそこに命があるからと、傷を負う時も、病に侵される時も、勇敢に戦った。

いつしか人は彼を、勇者と呼ぶようになった。】



「彼は人間の女性と結ばれ、七人の子供に恵まれました。以降、オーリオーの血は超能力とともに代々受け継がれ、勇者の一族として魔物と戦い続けました。そして二千年の時を経て、ようやく人類に平和をもたらしたと言われています」

「勇者の一族は、何で今いないの?」

「二代目の世代から、魔王と呼ばれる強力な個体が出現しました。統率力に優れた魔王が魔物たちを取りまとめるようになったことから、戦いは二千年も長引いたわけです」


 リンジェルは初代の書を閉じる。


「二百十三代――末代の勇者、ココロ・オーリオーの書にはこう記されています。【勇者はついに魔王を打ち倒した。代償として、一族は全滅してしまった】と。つまり、相打ちだったのです。王を失った魔物は内側から瓦解し、衰退していきました。対して人類の王は健在であったため、現在まで繁栄したわけですね」


 オーリオーの血は、千年前に途切れた。魔王討伐の役割を終え、眠りについたのだ。


 では、プラムの存在はなんだ。

 勇者と同じ身体的特徴、同じ力を持つ者が、なぜ現代に存在しているのか。


「百年ほど前、『キャンディ・プラネット』と名乗る、新たな統率者が台頭しました。おかげで、魔物の脅威は復活、どころか、知恵と技術をつけたことで、千年前よりもよほど強力になりました。人類は再び、滅亡の危機に晒されているわけです」


 リンジェルは答えを口にする。


「プラム・ブルー。君は、初代勇者アルベール・オーリオー、の、クローン人間です」


 その事実を、知らされていた者は目を伏せ、知らなかった者は驚いた。

 プラムの顔には、無言の驚愕が貼りついている。


「魔物は強い。しかし、対抗できる勇者はもういない。だから、当時のカーネリアン王は研究者と内通し、理に反する手段でこの世に蘇らせることにした。それが、君です」


 それは、えも言えぬ衝撃であったことだろう。

 己は、倫理を犯して生まれたのだと、偽物の人間だと、そう言われたのだから。


 プラムはもう一度、自身の両手を見つめていた。呆然としたまま、ぺたぺたと、顔や体を確かめるように触っている。

 この場にいた誰もが、同情した。


「嬉しい」


 しん、とする。

 リンジェルさえもが虚を突かれた。聞き間違いかと思った。


「――嬉しい?」

「うん、嬉しい」


 確かに、プラムの口がそう言った。


「この本、もう一度読んでもいい?」

「どうぞ」


 ページをめくる。やはり、プラムには読めない。綴りから単語の意味を予測することはできても、文章の形で伝わってくることはない。


 しかし、わかることがあった。書き手の想いだ。

 翻訳家が書き記していた当時の情景が浮かんでくるかのようだった。


 その筆者は、涙を流しながら筆を取っている。血まみれになりながら戦い、刺し違えた、英雄の壮絶な最期を見た。辛く、苦しく、歓喜した、その瞬間を思い起こしながら、一族の歴史を一から綴り直していく。必ず後世に伝えるのだと決意して。


 その奥に、原典を書いた三千年前の著者の想いも、薄っすらと滲んでいる。あるのは、感謝、感動、興奮。命を救ってもらった。大切な人も救われた。こんなに素晴らしい人格者がいたのかと打ち震えている。絶望している国中の人々に伝えるのだ。彼がいると。人類にはまだ、希望があると。


「こんな立派な人と同じ血が、僕の体には流れてるんだ」

 プラムの目が夜空のように輝いている。


「すごいことだ」

 笑顔には嘘偽りなく、純粋な感動がある。


「ねぇ」

 顔を上げ、部屋の全員に尋ねるようにする。

 本の中にある勇者の挿絵を指差す。


「僕は、こんな風になれるかな」

「なれますよ」


 答えたのはリンジェルだ。機嫌を取るための建前ではなく、本心からの言葉だった。


 彼女は、勇者のクローンを求めてこの村まで足を運んだわけだが、そこに期待していたのは力であって、人格ではなかった。どれほど未熟な者であっても、傀儡にしてしまえばどうとでもなると思っていた。

 その考えは、プラムと話す度に変わっていった。


「ショックじゃ、ないの?」

 パフェが義弟に寄り添い、恐る恐る尋ねる。

「全然」

 プラムは即答する。


「ショックを受けるようなことだっていうのは、わかるんだけど、どうしてだろうね? それ以上に僕は、生まれてきてよかったって思ってる」


 彼はパフェを見る。彼女と、彼女との生活を見ている。


「嬉しいこと、たくさんあったからかな。僕の人生には、悲しいことなんて一つもなかったんじゃないかって、いつもそんな気がしてるよ」


 ああ、彼は。

 リンジェルは間違っていた。

 蘇った二百十四代目は、心根まで特別だ。


「パフェ」

 家族の名を呼ぶ。


「小さい頃の僕は、たくさん病気したよね。パフェはその度に手を握ってくれた」


 彼女は今日に至るまでずっとプラムのそばにいて、与えられる限りの加護を与えてくれた。それがどれだけ大変なことかを知っている。大学を諦めたことを知っている。仕事を選んだことを知っている。たくさんの心と時間を捧げてくれたことを、知っている。


「今までありがとう。もう、大丈夫だよ」


 パフェは横に座って、そっとプラムを抱きしめた。

 抱き返す。涙をすする音が聞こえる。


「リンジェル」

 プラムは薄紅の瞳を見つめる。その真意を試す。

「お前が王になったら、世界はよくなるか? お前なら、世界を平和にできるか?」


「無論です」

 リンジェルは即答した。

「私と、君がいればね」


 そして、いつよりも真摯に微笑んだ。

 言葉の裏には、様々な欲望や打算が入り混じり、決して純粋とは言えない。しかし、世界を救うという意志だけは本物であった。


「僕に伝わればいいからって、好き勝手に振舞ってたな?」

「そうですね。乱暴な手をいくつも使いました」


 プラムは顔をしかめる。リンジェルは笑っている。


「そういうところは嫌いだけど、いいよ」


 立ち上がり、手を差し出す。


「僕はお前について行く」

「歓迎します。プラム・ブルー・オーリオー」


 握手が交わされる。

 ここに一つの主従が誕生し、仮の契約が結ばれたのである。


 メイジーが、神聖な布に巻かれていた長物を主に渡した。リンジェルの手によって、丁寧に布が解かれ、プラムに差し出される。それは、一振りの長剣であった。


「これは?」

「人々が勇者のために打った、英雄の剣です。初代から受け継がれ、数えきれないほどの人を救ってきました。君こそが、この剣を持つにふさわしい」


 受け取る。鋼の重さが腕に乗った。

 鞘にも柄にも飾り気のない、シンプルな一品だ。複雑な意匠を凝らす技術が三千年前になかったためだろう。しかし、色と形、素材の美しさは本物で、当時の最高級の一振りであっただろうことが窺える。


 光っている。

 この村にいても見たことがないほどの清らかな加護を宿し、景色の中に浮いて見える。


「世界中の人々の、祈りの結晶です。長らく王城で眠りについていたその剣は、壊れない。不屈の剣です」


 プラムはベルトを腰に巻き、剣を携える。慣れた手つきだった。柄の感触も、長年連れ添った相棒のようで、手に馴染む。


 部屋の扉が開き、シルバーが姿を現す。


「来たぞ」


 言われる前から、プラムは動き出している。玄関の扉に手をかけた。


「僕の中には、初代の記憶とかもあるのかな」


 もう一度、実在した英傑に思いを馳せる。


「そうだといい」


 外へ踏み出す。

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