第23話 第六章「最後の雨」


 今年の極夜は一層暗く、星明りすらも隠してしまいそうな深い闇は凶兆かのように思われた。祭までの過程も波乱が尽きず、つつがなく、息災なものとは程遠い。

 しかし、その程度で途絶えるほど、三千年の歴史は脆くない。


 加護は生活に宿る。

 加護は労働に宿る。

 加護は努力に宿る。

 加護は元気に宿る。

 加護は優しさに宿る。

 加護は誠実さに宿る。


 加護は助け合う心に宿る。

 少ない食料や資源を持ち寄って集まり、食べ残しを皆で分け合うような。ガラクタを工夫して再利用するような。そんな、貧しくも美しい性根にこそ、神の光は力を与えてくれる。


 加護は希望に宿る。

 小さくてもいい。薄っぺらくてもいい。本当はそんなものなくて、希望と信じたいだけの偽物であっても構わない。


 明日を生きる活力が確かにあるのなら、たとえ一人のそれが弱くとも、二人、十人、百人と集まって、大きくなる。健康で、敬虔で、豊かな心がそこに残っているのなら、光は何度でも輝きを取り戻す。


 加護はそうやって、人の意思に支えられながら受け継がれていた。



 プラムが撒いた希望の種は、三日をかけて芽を出し、花が咲き、広がっていった。

 イーグル地区には淡くも、光が蘇っている。


 極夜祭の日は迎えられる。



       ♦



 大地から雪が降るような光景だった。


 正午の空に太陽はなく、藍色の天井が見渡す限り続いている。闇を彩る星々の輝きと、地上から湧き上がる加護の粒子が交差する。

 渦を巻くように寄り合い、天高く昇っていく光の、なんと純粋で美しいことか。


 人々は魔物の存在を忘れて魅入る。思わず涙しそうになるほどの、圧倒的な輝きで、絶景だった。


 三千年前の人類も、同じことを感じたのだろう。

 当時、イーグル地区と名がつく前の一帯は、北極にほど近い寒冷地なこともあって、短い雑草が生えるだけの乾いた場所だったと言われている。


 そんな厳しい環境になぜ人が住んでいたのかはわからない。ただ一つ言えることは、三千年前の極夜は絶望の象徴だったということだ。寒く、食料はなく、おまけに暗い。魔物に襲われるまでもなく、生物を殺し尽くす大自然の檻がそこにあった。


 人々が衰弱し、死に絶えようかというその時、神は光臨した。


 神が与えた加護の光は大地に根づき、動物に植物にと、たくさんの命を地区にもたらした。極夜祭は、慈悲深き神の心に感謝し、豊穣と生命を祝う祭なのである。


 グレゴリオ教会では、儀式が行われていた。リリビィが、髪と肌を白く染め、生地が薄く穢れのないワンピースに身を包んでいる。彼女は人形のような出で立ちで祭壇に上がり、神の像の前で跪く。長い髪を解き、神の姿を模した領主、カールは彼女の前に立ち、粛々と、加護を与える。


 神が人間に光を分け与えたその瞬間を、再現している。音一つない光景は、一枚の絵画のようにも見えた。


 司教、祭司、修道士諸君は手を組み、祈りながら、見守っている。

 この儀式こそが、無事に極夜祭を迎えたことの証である。




『はじまりの村』の中心には、大きな神木が聳えている。

 神がこの村に最初に与えたとされる種から伸びた木だ。教会よりもよほど大きい。


 神木は、何とも不思議な形をしていた。傘となる枝は空洞を作るように広がり、皿のような形をしている。全体像はまさに聖杯のようで、冬になり葉が落ちれば、巨大な鳥の巣のようにも見えた。


 いつか村を訪れた旅人は神木を見て大変驚き、「この村には巨大な鳥がいるのか?」と尋ねた。面白がった村人が、「ああそうさ、私たちはみんな、その鳥の卵から生まれたんだ」と冗談を返したところ、旅人はまたもや仰天して、真に受けた。彼がその話を旅先で吹聴して回ったことから、イーグル地区と呼ばれるようになった、と言われている。諸説ある。


 祭のために祭服を着た村人たちは神木の前に集まり、祈りを捧げる。


「ねぇねぇ」

 夫婦に手を繋がれている小さな娘が、木を見上げて言った。


「わたしはご神木様から生まれたの?」

 夫婦は顔を見合わせて笑い、そうかもしれないねぇ、と同意する。


「やっぱりそっかぁ」

 と、娘は感心した。


 本当のところの歴史は、明らかになっていない。

 今や村に浸透している伝説は、こういう子供の発想が語り継がれてきた、ということもあるかもしれない。わからない。


 わからない。それは、なんと素晴らしいことだろうか。

 過去の人々の営みも希薄になるほどの年月が、地区には積み重なっているのだ。人が笑顔の数だけ皺を作るように、神木の幹には長く生きた分だけの傷が刻まれている。


「さぁ、行こうか」

 父親が手を引いた。


「え?」

 娘は狼狽える。

 ただ移動するだけではないことを直感的に察し、不安げな顔になる。


「どこ行くの?」

「大丈夫。とても安全なところだよ」


 夫婦の笑顔はぎこちなく、泣き顔を堪えるような強張りが見て取れた。




 村には二つの湖がある。そのうちの一つ、小さい方は、コオリ湖と言った。その近くには、ちょっとした教会ほどの大きさの、巨大な竈がある。


 土と石を固めて作られた、古典的な仕様のものだ。ただし、これほど大きければ話は別で、本来なら自重で崩壊してしまう欠陥だらけの造りをしている。現代レベルの加護の技術でようやく再現可能な代物であり、三千年も前にどうやって作られたのかは依然として判明していない。これも神からの贈り物ではないかと言われているが、やはり諸説ある。


 大きな炎が、木材を折る音がする。

 百人以上の男手が集まり、代わる代わる風を送っていた。薪を次々に投入し、火の勢いを維持するよう努める。

 熱気に汗を拭う。青い炎と、加護の光が混ざり合っている。


 頃合いだ。その道四十年の職人が五人、竈から伸びる長い柄を握り、呼吸を合わせ、引き抜いた。


 わぁぁぁ、と歓声が上がる。


 二階建ての家ほどもある巨大なパンが四つ。香ばしい焼き色をつけて輝いている。世界広しと言えど、この村で、この日しか見ることのできない特別なパンだ。立ち上る湯気からは、懐かしい故郷の匂いがする。


 このパンを、村人に、町人に配り、食べる。

 食べることが儀式なのだ。なにせ、豊穣と生命の祭であり、加護を宿す以前の人類にとって、食ほど貴重なものはなかったのだから。


 十代の若者から頬張り、おいしいおいしいと目を輝かせている。

 神のパンを吸収した肉体には力が漲り、加護の輝きが一つ、深くなる。


「今年のパンは小さいなぁ!」


 中年の職人は腕を組み、茶化すように笑った。

 ネズミの大侵攻により、畑から収穫したばかりの麦も少なくない被害を受けた。外から来た者は耳を疑うだろう。昨年までのパンは、もっと大きかったのである。


「神様は許してくれるだろうか」

「許してくれますよ」

 隣にいた女性の職人が同意する。


「神様は、きっと懐の深いお方です」

「そうだな! ワハハ!」


 二人は笑う。一見すると楽しげだ。しかし、笑い声に含まれるわざとらしさや、虚しさのようなものが隠しきれていない。目元に陰が差している。



「学生たちの様子はどうです?」

 村の役員が、軍人に尋ねていた。


「素直に誘導に従ってくれていますよ。慣れた様子で、迅速です。地区の教育がいいのでしょうね」


 彼らの視線の先では、パンを食べ終えた若者たちが綺麗に整列し、別の軍人の誘導に従って集団で移動するところだった。

 しかし、どこか落ち着きなく地区を見回している目は、寂しさと、名残惜しさを孕んでいる。


「必ず守りますよ。子供は、世界の宝ですから」


 二人は敬礼する。各々、異なった覚悟を決める。




「結局、避難するのは子供と、最低限の親だけですか」

 リンジェルは呟く。

「はい、せめて極夜祭だけは最後までやると。大人の避難はそれからだそうです」

 メイジーが続ける。


 彼女らは『はじまりの村』の端、西門の出入り口付近の高台から、イーグル地区全体を見下ろしていた。そばにはシルバーも控えており、後ろに停まっている白い高級車の中には、オレンジが待機している。

 王女とその従者が全員揃っている。脱出する準備は万全であった。


「ああ、そうか。こっちは問題ない」


 シルバーが、軍人たちとトランシーバーでやり取りをしている。漏れ聞こえてくる報告の内容に、リンジェルも耳を傾ける。村人だけでなく、町人までほとんど残るらしいと聞こえてきて、多少驚いた。


「愛ですね」


 呟く。大変な苦労がありつつも、皆生まれ育った故郷が大切なのだなと、感動を覚える。たとえ死の脅威が迫っているとしても、神に殉じ、逃げない。


「わかります。だって、こんなに綺麗なんだから」


 瞳の中で輝くのは、極夜祭がもたらす光の渦。王族として数多の贅沢を味わい、万を超える美麗に出会ってきた彼女をしても、掛け値なく、美しいと言える光景だった。


「そういう覚悟は嫌いではない」

 勇気ある人々に、そっと称賛を送る。


「ああ、あとは任せる」

 最後の確認を終え、シルバーは通信を切った。


「お疲れ様です」

「まったくだ。無茶な命令ばっかしやがって」

 彼は恨みがましい目を主に向けると、深々と息を吐いた。


 昨日、王都から軍の本隊がようやく到着した。先に来ていた五部隊の実質的な指揮官になっていたシルバーは、その指揮権を本隊の将官に移行。今、ちょうど引継ぎを終えたところだ。


 優秀な本隊は早急に避難の準備を進め、地区の空には数機のヘリコプターが通りかかっている。交通面での不便を補うべくやって来た、さらなる輸送の援軍だ。彼らに任せておけば、何の心配もない。

 シルバーはようやく責任者としての任を解かれ、護衛という本来の立場に戻れたのである。


 リンジェルが持て囃し、メイジーが機械的な動作で花吹雪を送る。


「よっ、何でもできる男!」

「黙れ」

「うふふ」


 楽し気に笑うと、彼女は車に振り返る。


「オレンジ」

「は、はい……なんでしょうか……?」


 左側の運転席から、不安げな表情が顔を出した。


「もしもの時は、プラムを連れ去ってきなさい」

「え――」


 オレンジは絶句し、固まった。


「そ、そ、それってつまり……ゆ、誘拐、ですか?」

「その通りです。誘拐しなさい」


 断言すると、彼女は面白いくらいに青ざめる。


「そ、そそそそそ、それってまずいんじゃ――」

「大丈夫ですよ。いざとなれば、王族の権限でどうとでもなります」


 オレンジはガチガチと歯を震わせる。メイジーは落ち着き払っている。シルバーは眉間を押さえてため息をつく。

 リンジェルの目が、悪戯を企む猫のごとくキラリと光った。


「命令を聞けなかったらぁぁぁ――――」

 彼女は両腕を上げ、子供にお化け役をする母親のように、じりじりとにじり寄る。


「――わぁぁぁぁっ!!」

「ひぇぇぇぇぇぇっ!!」


 車がガタガタと揺れる。

 シルバーは煩わしそうに片耳を塞ぎながら、そのへんにしとけよ、と宥める。




 プラムは村の南端にあるグレゴリオの別邸で、化粧を施されていた。


「去年とは違う場所でやるんだね」

「ネズミのせいで村も大変だったでしょ。ここしか空いてなかったんだよ」

「ふぅん」


 極夜祭のための特別なメイクだ。無論、プラムだけでなく地区の全員が同じようにしているが、彼は普段の化粧の上に乗せなければならないため、他よりも時間がかかるのである。パフェに髪や顔を整えられ、されるがままになっている。


「楽しみだよね、祭」

「そうだね~」


 プラムは毎年この日を楽しみにしていた。

 人々の明るい気持ちが伝染して、自分も楽しくなってくる。テレパシーに目覚めてからは、この地に宿る感情――百年、二百年前の人々の気持ち、歴史が、感じ取れるようになっていて、例年よりもワクワクしている。紫の瞳が、爛々ときらめいている。


「パン、美味しくできたかな?」

「あ、ちょっとじっとしてて、崩れちゃうから」

「ごめんごめん」


 義弟が期待すればするほど、パフェは罪悪感を強くしていく。

 彼は騙されている。村で、町で、彼だけが、人々が避難することを知らない。知れば絶対この地に残って、戦おうとしてしまうだろうから。



 別邸を数百ヤード進んだ先の民家の影には、数十台の大型トラックが並んでいた。そこに、小さな子供を連れた親や、学生の集団が次々に乗り込んでいく。

 グレゴリオ家の青年が、やれやれと呟く。


「まさか、頭の固いお父様がこれだけの自動車を許可するとはなぁ」

「仕方ないさ。文明の進歩には敵わんということよ」


 同世代の別の青年が答えた。


「時代だなぁ」

「時代だねぇ」


 老人のような言い回しをする彼らは、トラックに乗らない。逃げず、最後まで抗う決意をした二人だ。ふざけた口調とは裏腹に、どこか肩を落としているように見える。


 地区全体がそうだった。

 明るく気丈な振る舞いをしているが、どこか寂しさが滲んでいる。まるで今日の湿度のように、重い。


 諦めの色がある、哀愁漂う祭だ。皆、誇らしい歴史を悲壮な覚悟をしている。


 東の空に、灰色の雨雲が見えた。人々を飲み込み、覆い隠すようにし、影を落とす。

 ポツ、と、雨粒が落ちる。



       ♦



 ああ、ようやくだ。

 ようやく、手に入る。


 ドクターは東三番街、展望台てっぺんに立ち、イーグル地区を見下ろしていた。数年ぶりに見る極夜祭は、本当に綺麗だ。綺麗すぎて、気色が悪い。やはり我々のものになるべきだ、と確信を強めた。


 二体のフクロウが、彼を警護するように飛び回っている。薄汚い白衣がなびく。羽が、二、三枚と落ちる。

 雨脚が強くなる。


 町人がドクターたちに気づき、展望台を指差している。知らせを受けた軍人が駆けつけて剣を抜き、もう一人が通信機に何かを語りかけている。

 彼はその様子を、ぼんやりと眺めている。


 地上に刻まれた魔法陣が光った。

 黒く発光する足元に、人々は狼狽える。黒と白、魔法と加護の輝きが溶け合っている。


 地区全域に迫り来る、大きな大きな雨雲。魔法陣の光は天まで届き、幾何学模様が鏡合わせのように、灰色の雲に写し出された。

 天井の魔法陣は、黒から青に光の色を変え、雲もまた、渦を巻くように捻じれていく。肉々しく蠢き、人間を殺す姿へと変貌していく。


 雨が変形する。




 村にあるもう一つの大きな湖、キルシュ湖には、グリムフィッシュという魚が生息している。鋭い牙が特徴的な、青い魚だ。本来はミル大陸の海に棲む生物であり、イーグル地区までは鳥に運ばれて来たのではないかと推測されている。


 耐久性が非常に高く、海水でも淡水でも生きられる、暑くても寒くても問題ない、一ヵ月間食事を摂らなくても動き回れるなど、規格外の性質を誇っていた。人間と同じく、大きな進化をしないまま混沌の時代を生き残った数少ない生物の一種でもある。


 しかしグリムフィッシュの奇怪な点は、頑丈な肉体ではなく、その生存戦略にあった。


 多くの海の生物は、守る、移動する、隠れる、共生するなどの方法で縄張りを維持する中、グリムフィッシュは積極的に他の縄張りを攻撃し、自らの縄張りをどこまでも広げようとする特異な習性を持っていた。

 その在り方はむしろ戦いや略奪を主目的としているかのようであり、強烈な蛮性は生物学者たちの心を刺激した。


 世にも珍しい攻撃的な生態を指して、彼らはそれを、戦争する魚と呼んだ。


『はじまりの村』にて魔物化した、ステージ1のグリムフィッシュ。その身体から放出されるマナの属性は「戦争」。


 捻じれ始めた鱗、ひれを持つサカナの魔物は大きく口を開け、牙を剥き出しにし、雲に向かって吼える。

 湖の中だけでは終わらない。地上も奪い尽くすのだと、言わんばかりに。




 魚型の大雨が降る。


 破壊音、破砕音。連続する、連続する。

 降っているのは雨ではなく銃弾なのではないかと、人間たちは錯覚した。


 雨は建築物を削り、道路を剝がし、まるで食い破るかのように加護を砕き割っていく。


 変色する。変色する。

 大侵攻の比ではない。

 雲の動きに合わせて、領域が加護のものから魔法のものへ、簡単に塗り替わる。


 おかしい。異常だ。こんなこと、あってはならない。

 人々が積み重ねてきた光が、黒いクレヨンで塗り潰すみたいに、抵抗もできず、あっさりと。


「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ――――ッ!!」


 町人たちは逃げ惑う。

 力の限り声を張り上げる。あっという間に喉が潰れる。


 気にしている場合ではない。

 伝えなければ、一人でも多くに。

 警鐘は壊されてもうない。プラムは逃げなければならない。


 叫ばなければ、叫ばなければ、

 でなければ、

 こんなっ、こんな……っ、

 嘘だ。


 でなければ、

 今しがた雨に打たれた、あの建物のように、一瞬で、

 まるで紙屑みたいに、


 ――――死。

 死。



 軍人が前に立ち、盾になろうとする。

 空に幅の広い壁を張り、雨を地上に寄せ付けない。


 しかし、削れていく。削れていく。魚の一匹が激突する度に壁は砕け、破片が舞う。

 もって五分。いや、このままでは三分も。


 壁の一ヵ所に細い穴が空いた。空いた隙間から入った雨に、軍人は右腕、左胸を食われる。


「がっ、ぁぁ……」


 血が垂れる。

 町が赤く汚れる。

 赤く染まった大地すらも変色する。


 軍人の研ぎ澄まされた加護ですらもまるで意味がない。

 雨は休むことなく降り続け、傷ついた壁をさらに破壊しようとする。


「逃げろぉぉっ!!」


 防戦は不可能だと判断する。

 ひたすらに声を上げ、避難を訴えるしかなくなる。


 殺傷、略奪。

 あらゆる残虐性を兼ね備えたマナは、魔法陣の効力により、サカナの力が尽きるまで、無限に雨と混じり続ける。雨雲は、無限に弾丸を放ち続ける。


 その結果引き起こされるのは、理不尽な殺戮以外の何物でもない。

 黒い空に、「戦争」が降り注ぐ。


 さらに、



 ブオオオオォォォォォォォォ――――――――。



 鳴き声がした。


 野太く、甲高く、北極海の方面からのその声は、金属同士を擦り合わせたかのように響き、人々の鼓膜を傷つける。北のエリアに住む村人は、たまらず耳を塞いだ。


 何か巨大な生物がいる。人々は振り返り、そして、


「嘘だろ……」


 脱力する。

 その存在を前にして、もはや力が抜けてしまう。


 氷塊を砕き、波飛沫を上げて顔を出したのは、タイタンクジラの魔物。

 数千ヤード離れた北極海に浮かぶその姿を、人の肉眼はシルエットでしか捉えられない。しかし、彼らはハッキリと断定できた。なぜなら、その魔物はあまりにも有名だった。


 個体名「タイフーン」。世界連盟が指定した、数少ない「名前付き」の魔物だ。


 そのクジラに関する噂は、とにかく規格外なものばかり。一国の海軍を単騎で壊滅させたとか、海の真ん中に十年消えない大渦を作ったとか、潮吹きの射程は数キロ先まで及ぶとか。

 どこまで本当かは定かではないが、人間にとって恐怖の象徴の一つであることは間違いなかった。


 絶望する。

 こんな大物まで勢力に加えていたなんて、ネズミはどこまで周到なのか。


 真っ白な体表に、青い渦巻き模様を散りばめたそのクジラは、当然ステージ4。赤い目が、イーグル地区を睨みつける。

 タイフーンは、雨雲に向かってもう一度鳴いた。



 異変。

 魚型の雨の中に、鯨型のものが混ざり始める。


 冗談みたいだ。その雨粒は、一つ一つが恐ろしく大きい。家一つを丸飲みにできる。自然の理を破壊している。


 鯨型が一つ落ちるだけで、ズシンと、重々しい音がする。


 大地が陥没する。平屋が一軒、二階屋が二軒、小学校の半分が直撃を食らい、倒壊。付近に位置していたカーツォ神殿の柱にも、致命的な亀裂が走る。


 ズシン、ズシンと、次々に、落ちる。

 その度に、同様の被害が起こる。


 多くのクジラ類に共通して見られるマナ属性「災害」。その脅威のほどは、説明するまでもない。


 町人の一人が恐怖で腰を抜かし、座り込む。

 目の焦点が定まらない。必死に逃げ場を探している。


 あああああ、ああ、

 あぁぁ、


 頭上に鯨型の雨が出現する。


「あ――」




 ドクターは両腕を広げ、風を浴びた。

 支配者の交代を知らせる、革命の風を。


「さぁ、人間どもよ」


 赤い目が、深層に滾る執念を宿し、ギラギラと燃える。


「滅べ」



       ♦



 遠くで、バラバラと雨音が聞こえる。

 大地を勇ましく踏み鳴らす音色は、軍隊の行進、あるいは凱旋のようにも思えた。


「はい、カッコよくなったよ~」

「おぉ」


 プラムは鏡の前に立つ。

 紫色の前髪は上げられ、社交会のように美しく整えられている。肌はいつも以上に白く、日焼けや染みは綺麗に隠されていた。神様に感謝する日なのだから、最も美麗でふさわしい格好をしなければならないのである。


 鏡、といっても千年以上の前の技術によるものなので、映る姿は少々歪んでいるが、多分、いつもよりも整っている。

 パフェも白い髪を分けて緩く巻き、身綺麗にしている。


「ありがと」

「どういたしまして」


 彼女は、焦りや動揺が顔に出ないように努めた。強い雨音や、廊下で忙しなく動き回る使用人の様子から、外が恐ろしい事態になっていることはわかっている。


「さ、プラム」


 義弟の手を引く。

 祭を楽しむため、ではなく、逃がすために。


「嘘でしょ」

 と、プラムは言った。


 パフェの手は取っている。しかし、彼女の行く先を並んで歩こうとはしない。


「さっきの、『ここしか化粧室が空いてなかった』って話、ホントは違うよね?」


 義姉は表情を硬くする。紫の瞳が、全てを見透かすように澄んでいる。


「こっそり僕を逃がそうとしてたんでしょ。皆と一緒に」


 プラムは後ろを振り返る。壁ではなく、その先に駐めてあるトラックを見ている。


「あっちの方に、人がいっぱい集まって来てる。多分、リンジェルの指示とかで、大陸の西の方に逃げるんだ。それで、もうこの村に帰ってくることはない。それくらい、大変なことが起きてる。そうでしょ?」


 大規模な避難のことも、ネズミの脅威が終わっていないことも一言だって伝えていなかったが、彼は察しているようだった。この三日間、上手く隠しているつもりでいたがその実情は、彼が騙された振りをしていただけだったのだと悟る。

 パフェは嘆息する。


「やっぱり、わかってたよね」

「無理だよ。僕に隠し事はさ」


 プラムは部屋の隅にある棚に近づいた。


「これ、もらうね」


 そこにはパンが仕舞ってあって、何も知らないプラムのために取っておいた一切れであることも、わかっている。


「やっぱ美味しいよね、これ」


 外付けの加護が僅かに大きくなった。相変わらず気休め程度の効果しかない。その気休めにどれほど助けられてきたかということを、忘れない。


「パフェ、一緒に来て」

 義姉の白い瞳を見上げる。


「僕のこと、ちゃんと見ててほしいんだ」

 こんなに自信に満ち溢れた瞬間は、人生で初めてだった。


「全部倒すよ。大丈夫、傷一つだって、つけさせやしないから」

「行かせないぞ」


 割って入ったのは、二十代半ばの青年の声だった。ウルマ・グレゴリオとその使用人が二人。実の家族のようにプラムを可愛がってくれた、義兄のような人だ。話を聞いていたらしい彼はタイミングよくあらわれ、部屋の出口を塞ぐ。


「もう村は手遅れだ。間に合わない。お前は逃げるんだ」


 彼が纏う光が徐々に薄まっている。手から伝わるパフェの光も。建物も道具も、加護が落ちている。魔法の侵食で領域が塗り替わっているのだ。それがこの大雨のせいであることも、知っている。


「嘘つき」

 プラムは微笑んだ。

「本当はちょっとだけ、僕に期待してるでしょ」


 ウルマは驚いた顔をしていた。彼は立派だ。頼みの綱があるとわかっていながら、プラムの人生のために手放した。


「ありがとう、守ろうとしてくれて。嬉しいよ」

 微笑みには、寂しさが混じっている。

「助けてって言ってくれたなら、もっと嬉しかったな」


 パフェに向き直った。どうする? と、目で問いかける。彼女は少し目を伏せ、

「行くよ」

 と弱々しく笑った。握る手に力がこもる。


 さて、プラムたちは雨雲の反対側にいた。村の西端から町までは遠い。走ったくらいではとても間に合わない。手遅れという意見はもっともに思えた。


 しかし、大丈夫だ。根性論ではなく、救えるという確信があった。

 同じような局面を切り抜けた覚えがある。三千年ほど前に。


 あれはたしか、どうやっていたか。

 ああ、思い出した。


 全身に紫色の光を帯びる。手を繋いでいるパフェにも。



「テレ」唇が、

「ポー」音を、

「ト」紡ぐ。



 二人の姿が消える。

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