第22話 第五章「神様なんて」


 図書館が好きだ。


 加護について、魔法について、勉強するために幾度も訪れた。

 高い天井まで聳えて並ぶ、本棚の群れ。温かい加護に照らされている。古い紙の匂いがして、落ち着く。大侵攻で多くの施設が侵食された中、ここは無事だった。


 悩みや心配事がある時、パフェはいつも図書館に来た。

 本を読んでいると、学問に生涯を費やし、道を切り拓いてきた偉人たちの、凝縮された心に触れられるような気がしたから。答えを求めていた。


 しかし、


『魔法は地球を蝕む病原菌。加護はワクチン。光は変幻自在であり、原理上、治せない病は存在しない。』

『混沌の時代において、多くの生物が急激な進化を余儀なくされた中、人間はほとんど同じ姿のままで生き延びた。』

『世界には極稀に、幸運を司る加護を持つ者が生まれる。』


 こうした素晴らしい発見に関する記述の後には、必ず、神のおかげであるとか、神に感謝しなければならないとか、そういう文言が続く。

 その瞬間から、全部嘘になる。


 本当に、うんざりする。




 パフェとリンジェルは、広い机で向かい合う。


「率直な意見をください。ネズミの脅威は、これで終わったと思いますか?」


 パフェはゆるゆると首を振った。


「魔法陣には、他にも魔法が記録されている形跡がありました。ネズミが生き返ったのも、おそらく魔法陣のせいです。ツキシズカと同等以上の攻撃が、これからもあるかもしれません」


 彼女は痛む頭を押さえる。


「あれは、ただの兵器じゃない。魔物の文明を革新的に推し進める、いわば発明です。できることが多すぎる。何をしてくるか、まるで想像がつきません」

「そうでしょう」


 リンジェルは首肯する。


「花の魔法で地区を奪う。これを仮に、プランAとします」


 彼女はメイジーから、チェスのクイーンの駒を受け取り、机に立てた。


「今回の大侵攻は、奴らがプランAを諦めた証拠だと思うのですよ。だってそうでしょう? 加護が残った状態では大して猛威を振るわず、あっさりと対応されてしまう花の魔法を発動するために、二十万の特攻兵を送り込むでしょうか?」


 人差し指で、クイーンの駒を寝かせる。


「大侵攻の目的は、こっち」

 キングの駒を置く。

「魔法陣の起動です」


 パフェは地区に刻まれた魔法陣の、美しい幾何学模様を思い出す。あれこそが魔法の完成系と言えるような、究極がそこにあった。


「イーグル地区にはすでに、大魔法を発動できるだけの土台が整っています」


 チェスの駒が横一列に、十個ほど並べられていく。

 その一つ一つを順番に指差す。


「これがプランB、C、D、E……どうしようもありませんね」


 駒は、全てクイーンだった。


「この戦いは、我々の敗北です」


 リンジェルは閑散とした図書館を横目にしながら、物憂げに言う。


「ああ、とても悔しい。悔しいですよ」


 言葉とは裏腹に態度は淑やかで、どこか余裕があるように見えた。

 薄紅の瞳が、こちらを向く。


「まだ、勝つ術が一つだけ残っています」


 何を言うのかは、容易に想像できた。


「プラムを戦わせてください」


 パフェは沈痛に目を伏せる。


「彼は成りました。もう何が来ようとも、ことごとく圧倒できます。地区を救うためには、彼の力が『必要』です」


 リンジェルには明確な下心がある。最初の段階で自ら公言した。

 しかし、目の前の彼女の真摯な表情は、それを全く感じさせない。傲慢な態度も、強欲な発言も、全て幻だったのではないかと思わされる。

 何より、彼女の言うことは正しかった。地区のことを思えば、プラムに頼るしかないのではないかと、つい考えてしまう。


「先程、会議室で同じ説明をしたのですが、今度は断られてしまいました。だから、あなたにお願いします」


 彼女は、宝石のような瞳で、真っ直ぐに見つめる。


「プラム・ブルー・オーリオーを、私に譲りなさい」

「……私は」


 パフェは棚に並ぶ本たちを見た。

 本はたくさんの知識を彼女に授け、多くの場面で地区の人々を守る助けになってくれた。しかし本は、肝心なところでいつも彼女を裏切り続けた。


「私が本を読むようになったのは、プラムに加護を宿す方法を探すためでした。今は魔法に傾倒していますが、最初はそうだったんです。あんまりにも、可哀想だったから」


 毎日のように熱を出し、うなされているプラムの姿は今でも夢に見る。

 長く生きられないだろうと、誰もが思った。


「結局ダメでした。加護が弱い子を補助したり、魔物化を治療する術はいくらでもあるのに、プラムにだけは、どれも効果がなかった。これも、プラムの出自と関係があるんですか?」


 リンジェルは一瞬、目を丸くする。


「ああ、彼に会ったそうですね」

「はい」

「わかりません。無関係ではないかもしれませんね」

「十歳以上の子で、花の魔法の影響を受けたのはプラムだけでした。あの子がどんなに強くたって、すぐに死んでしまうんじゃないかって心配するのは、間違っていますか?」

「間違いではありませんよ。私には、関係ないだけ」


 慈悲深い表情を浮かべながら、冷たい言葉を平然と放つリンジェル。常人とは逸脱したものを感じるとともに、やはり信用できなかった。

 彼女についていったプラムが幸せになれるとは、とても思えなかった。


「プラムは、神様に愛されていない」

 パフェは呟く。


「神様が人を平等に愛しているなんて嘘で、残酷で、冷たい存在なんだって、昔は思ってました。けれど、それは誤解だったんじゃないかって、今の私は思うんです」


 それは、神を人のように慈しみ、労う、優しい考え方だった。


「『神様は多忙で、全人類を愛するには心が足りなかった。だから、自らの代わりに人が人を愛し、助け合えるように、加護を与えたのである。』」


 そういうことなんだと、無理やり思うことにした。


「プラムは私が愛さなきゃいけないって、その時思ったんです」

「素敵な考え方です」


 素敵なものか。


「引用です、ただの。偉大な先人の考えに縋っているだけ」


 この言葉は、神の無力を肯定しているようなものだ。聖地の子には許されない、猜疑の心に満ちた危険な思想だ。実際、引用元となった哲学者は酷い迫害を受け、辺境の地で命を落としている。


「やっぱり神様は、プラムのことを見てくれてないみたい」

 理不尽を呪うような、弱々しい声が落ちた。


「きっと、忙しいから」

 擁護するように、空々しい言葉を吐いた。


「あの子の人生には、ずっと試練が付きまとう。危険な戦場に立たせようとする貴女みたいな人が、この先もきっと、何人も何人も、現れるから」


 パフェは顔を覆う。


「誰かが……私が、守らなきゃいけなかったのに……」


 表情はぐしゃぐしゃになっていた。

 神を呪っていながら、神に祈るしかないような、実に実に複雑な感情を、泣き顔が語っている。


「お願い」

 懇願する。

「……プラムを、連れて行かないで」


 悲痛な声はしかし、王女には響かない。


「いいえ」

 リンジェルはそれだけ言った。


 救いを求めて伸びた手を、肩口からバッサリと切り落とすかのような、酷く無機質な声だった。交渉の余地も、情に訴える隙もない、鉄のような意思を感じた。


 彼女は立ち上がる。メイジーがコートを着せる。


「地区の皆さんには避難を勧めています。受け入れ先は私が用意しました。産業の質は劣りますが、長閑でいい土地ですよ。すでに準備を進めている方もいます」


 丁寧に椅子を戻し、背を向けた。


「あなたもそうするといい」


 パフェはしばらく、その場から動けなかった。



       ♦



 ドクターは三年ぶりに、研究の手を止めていた。

 フクロウの巣に赴き、この先の方針を共有している。


 それは、仲間のネズミの仕事だった。仲間がいなくなってしまったために、自ら出て行くしかなくなった。


 久しぶりの外の世界だ。彼は小さな頭を上げた。満天の星空が、翡翠色の木々の隙間から光を注ぎ、瞬いている。

 人間の宗教を信じるなら、死んだ仲間たちは今頃天に上り、あの星の輝きの一部となっているらしい。


 二十万体が、死んだ。

 ドクターが死ぬように命じた。無駄な死だった。


 なんと、非効率的で、非生産的で、無価値で、無意義な命令だっただろう。あれしか取れる手段がなかったとしても、最悪の選択であることに変わりはない。命ほど有意義なものは、この世に存在しないのだから。


「何を呆けタ面をしてイル」


 上から、嘲り隠さない声が降ってきた。プリンスだ。彼は苛立った様子で目元を歪め、鼻を鳴らす。


「用が済んダノならさっサと帰りたまえヨ、エエ? 傷心に耽るトハ、我ラが頭領サマは随分と暇なのだナァ」

「傷心?」


 ドクターは聞き返し、自らの精神を顧みる。


「そうか、私は傷心しているのか」


 驚いた。自分の中に、まだ月並みな感情が残っていたことに。


「確かに、こんなのは時間の無駄だな」


 しかし、彼はまた呆然と、空を眺める。

 やるべきことは残っているのに、足が根を張ったように動かない。一秒、また一秒と過ぎていく時間を、ただただ消費していく。不思議と焦りもない。頭の中に空白ができたようだった。


「……」


 そんなドクターの横顔を見ていると、プリンスは無性に苛立った。彼は懐から葉巻を一本取り出し、放り投げた。ネズミの足元に転がる。


「これは何だ?」

「なァに、哀れナ頭領サマに恵んでヤろうと思ってナ」


 ドクターは訝しみながらも拾おうとして、躊躇う。体長よりも大きな葉巻は、持ち上げることすら困難なように思えた。


「あァ失礼! 我輩とシタことが、ネズミの矮小さヲ忘れてイタ! コの程度の小物も持ち運べナイとは、同情デ涙が出そうダ!」


 プリンスはわざとらしく声を張り上げると、ナイフで葉巻を刻み、ネズミに適したサイズにしたものを再び渡す。


「貴様ごときニハ、そノ無様なおモちゃがお似合いダ」


 ドクターは手の中のミニ葉巻を、じっと眺める。


「これはどうやって使うんだ?」

「ハァ!? そんナことも知らンのカ!? 頭がイ!」


 プリンスは踵を返す。


「自分で考エたまえヨ」


 歩きながら彼は、葉巻の先に火をつけ、嘴でくわえ、大袈裟に吸い、これまた大袈裟に煙を吐き出した。

 まるで手本を見せてるかのようだった。


 ドクターはその後ろ姿を見送ると、再び葉巻を眺める。

 娯楽は無駄だ。これは必要ない、と思った。


 しかし、彼は捨てず、白衣の内ポケットにしまう。


「あァそうイエば」

 フクロウは思い出し、声を上げる。


「極夜の日ハ、大雨が降るゾ」

 それだけ言うと、彼は今度こそいなくなる。


 皮肉なものだな、とドクターは思った。

 人間たちは、あれほど熱心に神とやらを信仰しているというのに、天は魔物の味方をしている。


 魔法陣に記録されているもののうち、最強の魔法の条件が整った。



       ♦



 夜は眠れないから、やはりプラムは寝たふりをしている。


 いつにも増して、目が冴えていた。細胞の一つ一つから、大きなエネルギーを感じる。体内を循環して、強い肉体を作り上げている。力が、静かに漲っている。


 多分、ずっと前から、これくらいの力が自分に備わっていることには気づいていた。無意識に抑え込んでいたのだと、今にしてみれば思う。


 どこまで行けるのだろう。

 全力で走ってみれば、どれくらいの速度が出るのだろうか。全力で拳を振るえば、どれくらいの力が出るのだろうか。


 試してみたい。でも、やっちゃいけない。

 プラムが思い切り力をぶつければ、恐らく色々なものが滅茶苦茶になって、取り返しのつかないくらい壊れるから。


 滅茶苦茶にしたい。

 全部、ぶっ壊してみたい。


 心臓が解放を求めている。ドキドキする。

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