第20話 第五章「覚醒」


 軍隊の防衛、避難誘導は極めて優秀であり、ネズミに襲われた町人の大部分が、無事に教会に逃げ込むことができた。

 しかし、どれほど頑強な守りであっても、二十万を相手には綻びが生じる。軍人の手からこぼれ落ち、危機に晒された者が何人かいた。


 コロンもその一人だった。

 西二番街に出現したネズミの別動隊に襲われた彼は、何とかその場は逃げ延びたものの、瓦礫や腐食に道を塞がれ、避難ルートからは大きく外れてしまっていた。


 何時間も走り続け、割れるような膝の痛みにとうとう耐え切れず、動けなくなる。町外れの薄暗い路地裏に追い詰められ、複数体のネズミに囲まれ、死を覚悟した。


 その時、雷が落ちる。

 目の前には爆散し、黒焦げになった魔物たち。


「たす……かっ、た……?」


 コロンは大きく、全身の緊張を解きほぐすように息を吐くと、壁に寄りかかった。この瞬間ほど、神様に感謝した日はなかった。


 突如として、大地に浮かび上がった黒い紋様が光る。黒い光は九つのネズミの死体を包み、その内の五つが体を起こす。虚ろで真っ黒な目が、コロンを見つめている。


「う、うそだろ……!?」


 彼は再び立ち上がり、逃げようとした。しかし、


「いっ……!!」


 膝に鋭い痛みが走り、倒れる。


 火事場の力で何とか誤魔化せていた痛みが、一度安堵してしまったことにより本来の威力を発揮する。

 立てない。とても動かせない。


「はっ……はっ……」


 急激に加速した鼓動で、心臓が破裂しそうになる。血液の流れがあまりにも速くて、全身が震える。

 頭が回らない。筋肉が思うように働いてくれない。


 四つん這いになって、その場を離れようとした。赤ん坊のように無様な格好で逃げるがしかし、あまりにも遅い。


 前後一本ずつ脚を失ったネズミの屍が、襲いかかってくる。

 追いつかれる。追いつかれれば、ネズミの爪や牙を受け、痛みに絶叫しながら死ぬだろう。あるいは毒を食らい、内臓を腐らせ血を吐きながら死ぬだろう。


 恐怖し、叫び声を上げる。

 彼のような者が、何人もいた。



       ♦1



 シルバーは冷静に、周囲の軍人たちから加護を集め、聖火を放った。

 白い炎が超広範囲を呑み込み、一番街に蘇ったネズミの屍どもを焼き払う。


 生き返ったのならもう一度殺すまで。天界の業火の威力は凄まじく、齧歯類の小さな肉体には過剰なほどの死をもたらす。


 しかし、攻撃範囲内にいたほとんどのネズミが、白い炎を抜け出してきた。


「何!?」


 シルバーは驚愕し、個体の一つを観察する。


 炎は、決して効いてないわけではなかった。むしろ死体となり、耐久力が落ち、それまで以上に身を焼いている。


 ネズミは、蘇り続けていた。見た限り、炎に包まれて三度死に、そして三度蘇った。ただでさえ規格外な「屍」の魔法が、永続している。


 どういうことだ、と考えている暇はない。


 シルバーは、アックスのように広範囲を粉砕する技は持っていない。

 死体は感情や痛みが欠落しているのか、勢いが一切衰えない。

 すぐに別の手を打たなくてはならない。


「【パァレス】!」


 詠唱する。


 一番街を上下に二分するように、百枚の光の壁を展開する。

 進路を物理的に遮った。屍の群れは壁に阻まれ、それ以上先に侵攻することはできない。


 しかし、それすらも潜り抜けられる。


 いくつかのネズミの集団が、壁の内側にまで侵入している。

 その近くには、いつの間にか群れに混じっていたモグラの魔物がいた。地中から抜けられた。


「クソ!」


 急ぎ壁を張り、穴を塞ぐ。

 約数百体のネズミが一番街のさらに奥へ進み、村へ侵攻しようとしている。



        2



「私たちも下がりましょう。ここにいては巻き込まれます」


 リンジェルが判断すると、メイジーは即座に従った。撤退の準備を始める。

 彼女らがいる場所は村と町の境界線であり、屍たちの魔の手がかかるのも時間の問題だった。


「ここの防衛は任せますね」

「了解」


 村を守っていたⅮ隊の三人を残し、その場を離れようとする。


「ま、待って!」


 異を唱えたのはプラムだった。

 切迫した表情で、王女に食ってかかっている。


「まだ、襲われてる人が十六人もいるんだ! 助けないと!」


 彼は、コロンのように軍の守りから孤立し、今にも殺されそうになっている者たちの数を正確に把握していた。助けを求める心の声まで、ハッキリと聞こえていた。


「それに、前!」

 プラムは正面の一番街を指差す。


 数百ヤード先に、逃げ遅れた少女がいた。五歳くらいの小さな子だ。シルバーの壁を抜けた数百体のネズミに追われ、そばには誰もいない。このままでは殺される。


「僕たちが逃げてる場合じゃ……づっ!」

 ズキン、と。言い切る前に、鈍痛が走る。


「あ、ぁぁぁ……」

 プラムは転ぶように倒れた。


 膝をつき、蹲る。痛い。頭の痛みが後頭部から脊髄にまでじわじわ響いているような感触だった。神経の痛みが全身にまで痺れを錯覚させる。

 目の奥がチカチカと明滅していた。意識が飛びそうになる。


 パフェが慌てて駆け寄り、その頭にもう一段強い治癒をかけた。

 しかし、痛みは引かない。むしろ、増す一方だ。


「助けます!」


 軍人の一人が一番街に駆け出した。少女を助けに向かう。

 リンジェルはその背中を見送ると、プラムに手を差し出す。


「あの女の子は彼が助けます。さぁ、下がりましょう」

 少年はその手を取らない。


「だから、あの子だけじゃないんだって……! まだ十六人いるんだって!」

「彼らにも助けが来るはずです」

「適当なことを言うなよっ!!」


 プラムは紫の目を血走らせ、十四年の人生で、一番の剣幕で吼えた。


「僕にはわかるんだ! 助けなんてこない! 助けられる人が近くにいない!」

「プラム、その話後にして! お願い……!」


 パフェの顔にも焦燥があった。一番街と義弟の間で目を往復させ、接近してくる黒い群れに一筋の汗を流している。

 プラムは聞かず、吼え続ける。


「全員助けるんじゃなかったのか!? ふざけんな!!」


 それが八つ当たりであることは、彼自身もわかっていた。

 リンジェルも含め、軍は全力を尽くしていた。十六人が死ぬのは誰のせいでもないと、理解していた。


 それでも、彼らの恐怖が、あまりにも鮮明に脳内に響くものだから、叫ばずにはいられなかった。


「ちゃんと皆、助けてくれよぉっ……!!」


 再び鈍痛が走って、プラムは呻き、目を瞑る。

 とうとう地に手をつき、這いつくばることしかできなくなる。



 景色が明るくなっていく。

 午前十一時半。イーグル地区に、ようやく朝日が昇り始める。



「痛いですか?」

 リンジェルはプラムを見下ろし、ふと、尋ねた。


「そこまで痛い思いをしてまで抗うなんて、よほど必死なのですね」

 彼女は深い、微笑を浮かべる。


「ようやく、必死になってくれましたね」


 王女はそこで膝をつき、少年と目線を合わせた。

 その行動に、メイジーも、パフェも、軍人も、焦りを見せる。


 早く逃げなければ、という旨の内容を各々警告するが、リンジェルは全て無視する。この場には二人だけしかいない、というように、プラムに問いを投げ続ける。


「君は、全力で感情をぶつけたことはありますか?」

「……いきなり、何?」

「思い切り笑ったことはありますか? 泣いたことは? 怒ってはいるようですね」


 彼女はそこで、ゆるく首を振る。


「まだ足りない。もっと、剥き出しになれ」


 指を差す。一番街の方向だ。


「あの光景を見て、何を思いますか?」


 プラムは釣られて、目を向ける。


 黒いネズミは少女を囲い込み、いよいよ殺そうと飛びかかるところだった。

 助けに向かった軍人は別の集団に邪魔されて、思うように動けないでいる。間に合わない。


「いつかの質問を、もう一度します。君にはありませんか? 夢、野望、願い」




 その光景を見て、


 真っ先にプラムの心を揺さぶったのは、少女でもなく、軍人でもなく、ネズミの感情だった。


 殺意を感じる。生命の理を外れ、蘇ってしまうほどの、殺意。


 死体になったその姿は、本当に醜い。魔物として知性を獲得したにもかかわらず、野生動物に後退してしまったかのようで、誇りも、理念も、捨ててしまっている。


 なぜそんな姿になってまで、なぜ向かって来るのか。

 殺意の奥には、大きな野望と、感情の残滓が見えた。


 奪え。奪え。

 死して混濁した思考でなお、それだけはハッキリと伝わる。


 ああ、よっぽど地球が欲しいんだな、とプラムは思った。

 それほど切なる願いなのだ、と。



 何を思うかだって? 羨ましいよ。

 ネズミは、一生懸命生きている。死してなお、何者よりも生きているように見える。とてもとても、羨ましい。

 プラムにはできなかったことだ。



 ギラギラしている。

 ネズミの一体一体が、黒い炎のように揺らめいている。

 その熱に、心が惹かれる。心臓が、今日初めて生まれたみたいに、動き出す。


 ドキドキする。



 紫色の光が、プラムの指先に湧く。

 足からも、背からも湧いて、やがて全身に帯びる。

 エネルギーが身体中に迸る。力が湧く。頭痛を忘れていく。


 紫の瞳に、好戦的な火が灯る。



 少女を助けなきゃ、と思った。

 軍人も助けなきゃ、と思った。

 ネズミが羨ましい、と思った。


 そして、

 そして、


 あぁぁ――――…………




 ――ぶっ潰してやる。




 地を蹴り、プラムは飛び出す。

 ネズミに向かって突き進んでいく。


「待っ――」


 パフェはその背中に手を伸ばし、やめた。

 必要ない、と思った。



 紫色の光を帯びるプラムは、弾丸のような速度で、宙を舞うような軽やかさで疾走する。

 町の境界線を越え、一番街を一直線に縦断していく。


 プラムに気づいた屍の一体が飛びかかってきた。

 大きく口を開け、鋭い牙を剥きだし、人間を殺そうとしている。


 そのネズミに彼は手を伸ばし、


 掴む。

 握り潰す。

 必死な命をゴミのように投げ、捨てた。


 続いて襲いかかって来る二体目、三体目、その後ろの群れにも、同じようにする。

 握り潰し、踏み潰し、速度を落とさず、集団の真ん中をかき分けていく。


 この手で、この指で、

 潰して、殺して、

 進む。



 お前らにも家族がいて、尊い生活があったんだろう。

 伝わってくるよ。


 けどその上で、全部全部ぶっ潰してやる!!

 だって、人間を守りたいっていう僕の想いの方が、強い!!



 群れの縦一直線に、風穴が空く。

 真っ直ぐに抜けていく。


 軍人を追い越す。

 視界が開ける。


 その先に、ネズミに囲まれている少女がいる。

 黒い塊が、幼い命を今にも呑み込もうとしている。


 手を伸ばす。


「こっちを見て!!」


 少女は大声に気づき、振り返った。


 彼女の目は一瞬、希望に見開かれたが、伸ばされた手の返り血を見て、怯える。

 固まってしまう。


 プラムはその怯えを感知する。


『大丈夫』


 念を送った。


 テレパシーに乗るのは言葉だけではない。そこに宿る感情も。

 助けたい、という心からの想いが、真っ直ぐに伝わる。


 少女は一歩、踏み出した。


 その手を掴む。

 引き寄せ、抱きしめる。

 紫の光が伝わっていく。


 そして、浮遊する。

 二人は飛び上がり、空気を裂いて、高く、高く、大空へ。


 町人、村人、軍人、目撃した誰もが、その姿を目で追い、見上げ、立ち尽くした。

 その先には、暗闇が晴れた清々しい青。雪雲もいつの間にか姿を消し、太陽の輝きが煌々と照らしている。


 宙に浮かんでいるのは、プラムたちだけではない。

 軍人の手をすり抜けた十六人。コロンも含めて全員が、紫の光を帯びて飛び上がり、浮遊している。

 ネズミの牙が届かない最も安全なところまで、プラムが彼らを連れ出した。


「なんだこれ……、なんだこれっ……!」


 プラムは荒い息を吐いていた。

 酸素の薄い空中で、かつてない全能感に打ち震える。興奮が収まらない。


「はぁぁぁぁ…………っ」


 つい腕に力が入る。

 そのせいで、抱えていた少女が苦しそうに呻いていた。


「あ、ごめん! 大丈夫か!?」


 拘束から解放された彼女は小さく息を吐く。

 やがて、その両目からポロポロと涙がこぼれた。


「ひぐぅ、うえぇぇ……」


 長く危機に晒されていた彼女は、プラムの胸を借りて号泣する。少年はその小さな体を抱いて、少しでも安心させるようにした。


 ひとしきり泣いた少女は段々と落ち着きを取り戻し、ゆっくりと目を開く。


「ひっ」

 そして、短く悲鳴を上げた。


 地面が遠い。自分が宙にいたことを思い出して、再び硬直してしまう。

 おっかなびっくりに彼女は顔を動かして、プラムに尋ねる。


「ね、これ、どうやっておりる……?」

「え?」


 プラムは少女を抱えたまま、考えるように目線を右上にし、頭を捻る。

 試しに左腕で宙を掻き、泳ぐような移動を試みたが、ピクリとも動く気配がない。


「どうやるんだろ……」


 数秒の沈黙。


「うわああぁぁぁぁぁぁん!」

「やばいどうしようっ!」


 高度数百メートルの上空で叫ぶ二人。

 わけもわからず浮かび上がった他の十六人たちは、ビクッと肩を跳ねさせる。


 ズキッ! と、頭が痛んだ。

 プラムは、テレパシーの負荷がまだ残っていたことを思い出す。痛みがぶり返してきた。だが、それだけではない。


 気配を感じ、彼は右目を動かす。

 フクロウがいた。プリンスと名乗った知性ある個体が飛んできていた。


 彼はリンジェルとプラムに与えられた屈辱を凝縮させたような形相を貼りつけ、腕のような翼は弓を構えている。木製の鏃がプラムの脳天を向いている。


「やばっ」

 プラムは横に避けようとする。しかし、思ったように動かない。


 矢が放たれた。

「風」の魔法を受け、弾丸のような速度で迫り来る。


 その数秒前、


 一人の少女が、凄まじい速度で一番街を駆けていた。

 疾走が通った後には白い線だけが残り、少し遅れて風が吹く。

 彼女はマンションの壁を蹴り上がり、屋根を伝い、遥か上空にいる二人に向かって、大跳躍。


 腰を掴み、体をさらう。


 矢は外れ、誰もいない空を通り過ぎていく。

 三人はそのまま村の方向へ。五十ヤード、百ヤードと、放物線を描いて落ちていく。


 その橙色の髪を見て、プラムは喜色の声を上げた。


「オレンジ!」

「い、いいいい、い、いきなり呼び捨て!? 怖いっっ!!」


 驚愕を三枚重ねにしたような顔になりながら、オレンジは別の屋根に着地。

 再び大跳躍して、安全圏まで離れていく。


「チィィッ!!」


 プリンスは地上まで聞こえてきそうな勢いで舌打ちした。


「オのレ! オのレ!」


 屈辱にさらに顔を歪め、地団太を踏むようにしながら、しかし彼は、逃げた者に固執しない。


 天上に弓を引く。

 狙いは、未だ空中に留まって無防備を晒す、十六の格好の的たち。


 矢を放った。

 真上に打ちあがった矢は頂点にまで上ると、十六に分離。

 角度を変え、紫に発光する人間たちに真っ直ぐに向かって行く。


 鏃が各人の脳天を貫く。その直前、


 全員の前に壁が出現し、攻撃は全て弾かれた。

 地上のシルバーが壁を張った。


「チィッッ!」


 またもや盛大な舌打ちをするプリンス。

 しかし、次の瞬間彼は、寒気とともに危機を察知する。


 頭上に白雲が立ち込めていた。

 アックスの全身に、再び神秘が宿っている。


 プリンスは考えるより先に、「隠密」のローブで姿を消す。


 白い雲が瞬き、電気を溜めている。


 プラムはオレンジに流されながら、その雲を見て、もう一度全身に力を込める。

 さっきはわからなかった、紫の光の扱い方。今度こそと、彼は町全体に向けて手を伸ばす。


 ネズミの数と位置を感知。狙う。


「おるぁっ!」

 殴るように腕を振った。


 すると、町中のネズミ二万体が紫に光り、浮遊と逆、地面に押しつけられる。

 屍どもは、重力が十倍になったかのように地面にへばりつき、一歩も動くことができない。


 落雷。

 残った加護をかき集め、最後の稲妻が雨となる。


 神の光は、拘束された死者を確実に焼き払い、砕き、風前の命を粉々にしていく。ついでにモグラも粉々にする。


 轟音が響く度に、破壊。粉砕。爆散。

 残響が消える頃には、地上の邪悪な生命は、一つ残らずいなくなっている。


 三度目の大跳躍。

 白い線を描き、オレンジは村の一角に着地した。


 降ろされたプラムは、草原の上に大の地で転がる。


「終わったぁ」

 長い息を吐くと、鈍い痛みが頭に響いた。


「いて、てててて……」

 頭を押さえ、目を閉じた。


 ふと、意識が朦朧とする。

 痛みがガリガリと体力を削って、体が重い。脳が眠りたがっている。


 ああ、これが疲労か。

 プラムは感動を覚える。今の気持ちは、視界の青空と同じくらい澄んでいる。

 笑みが浮かぶ。


 知覚の片隅に、パフェを感じた。探し回って、慌てている気配がする。

 心が和んだ。


 こっちだよ、とテレパシーを送った。



        3



「まだ頭痛む? ほら、これ飲んで。強い薬だから一つだけね」

「ありがと」


 駆けつけたパフェは、瓶から一錠を取り出して差し出す。プラムは弱々しく受け取ろうとするが、起き上がるのも辛そうだったので背中を支えた。


 少し離れたところではオレンジが待機し、プラムが助けた少女を連れていた。

 のだが、人目のある所が落ち着かないのか彼女はそわそわとしており、少女まで不安がっている。


 パフェは心配になった。


「あの、大丈夫ですか?」

「ひぃっ!」

「ひぃ?」

「だ、だだだ、だだ、大丈夫、ですっ!」

「そ、そうですか……」


 オレンジは明らかに挙動不審だった。大丈夫ではない。


「人見知りなんだってさ」

 とプラムが説明して、

「そうなんだね」

 とパフェは納得する。


 ただ、落ち着かない心持ちなのは、彼女も同じだった。


 その原因は、地面に浮かび上がった黒い紋様だ。どういうものなのかまるで見当がつかない。培った知識のどこにも該当するものがなく、線上を避けて座るくらいが精々の抵抗だった。


 真下を気にしていた彼女は、気づかなかった。


「プラム!?」

「え?」


 顔を上げた瞬間、凍りつく。プラムの頬がボロボロと崩れている。


「痛っ」


 彼は遅れてきた痛みに呻く。頬から始まった崩壊は、徐々に顔全体に広がっていく。


「いたいっ」


 続けて変化が現れたのは、オレンジが連れている少女だ。彼女もプラムと同じように、額から皮膚が崩れている。


 パフェは自分の顔を触る、変化なし。

 オレンジを振り返る、変化なし。

 何が起きているか、わからない。


 どうすればいい。


 彼女はそこで、落ち着け、と無理やり正気を取り戻し、奮起する。

 わからなくても、できる限りのことをする。




 甘い匂いがした。

 花のようないい香りだ。


 地区全体で、特に加護が未熟な幼い子供たちに、同様の異常が表れていた。

 少年が、首筋のひびから血を流し悶絶する。少女が、目に襲いかかる激痛に泣き叫ぶ。


 侵食が、肉体にまで及ぶ。

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