第17話 第五章「激震走る」
退院して家に帰ると、パフェが出迎えた。
思わず目を逸らしてしまう。罪の意識にうつむきながら、プラムは謝った。
「わがまま言ってごめん……」
「いいんだよ。私が悪いんだから」
パフェは抱きしめる。
その笑顔には、これまでとは違う切なさが滲んでいる。
♦
ドクターは下水道の一室にいた。ネズミサイズの机につき、背中を丸め、研究以外の全てを削ぎ落した刃物のような生活を、相変わらず続けている。その顔に苦痛の色はなく、同時に快感の色もない。
自分は大きな喜びを経験することなく死ぬだろうと、ドクターは思っていた。感情は無駄だと切り捨てたからだ。生まれたばかりの頃はもう少し笑ったり悲しんだりしていた彼だったが、やがて自分の才能に気づき、その矛先を自覚してからは、いちいち心を揺さぶって作業の効率を落としてくる感情というものが煩わしくなった。心を殺すよう努めたところ習慣になり、気づけば随分と淡白な精神ができあがっていた。
必要な研究を淡々とこなす。
これだけの集中を生み出す原動力は、いったいどこから来たのか。もう忘れかけている。振り返る時間は無駄なので、ずっと忘れたままだ。
イーグル地区を奪う。その目的だけが定まっていれば、十分。
しかし、ネズミたちは劣勢に立たされていた。五年かけて準備を進めた、その優位はすでに覆されている。
敵の柱であるグレイ・グレゴリオを殺害し、敵に大きな恐怖を与えた時点で、勝利は目前まで迫っていた。あとは待ち伏せに徹し、適度に地区の加護を揺さぶれば、人間たちの方から自動的に崩れていく。そのはずだった。
絶望的な状況をひっくり返した王女の一手には感嘆するしかない。
人間の調査隊は恐るべき手際で迷宮を攻略し、すでに全体の七割方を掌握されている。地下十五階に位置するドクターの部屋に刃が届くのも、時間の問題だった。結果的にだがネズミの計画は封殺され、いくら時間を稼いだところでもはや意味はない。
絶体絶命。崖際に立たされている。
ふぅぅ、と大きく息をつき、天井を仰ぐ。ペンを止めた。
想定外のことがあまりにも多く起きた。
村長暗殺を早々に察知されたことに始まり、予期せぬ王族勢力の介入、シアターからの情報漏洩、本命の城までもがあっさりと見破られた。
フクロウが集めた断片的な情報によると、これら想定外の全てに、紫色の子供が関わっているようだった。
ドクターにはその子供が、人間とも異なる超常的な存在に思えた。
ずっと、見られているような気がする。
魔物ごときの小賢しい企みも、潜伏場所も、最初から全て見抜かれていたのではないかと、つい疑ってしまう。ドクターが生れ落ち、産声を上げた瞬間から、ずっと見張られていた。そんな気がしてならない。
決断の時が迫っていた。
呼び出しのベルを鳴らす。
ドクターは無駄を嫌う。群れには作戦命令を伝達するだけで、それ以上の不必要なコミュニケーションは取らない。自身の胸の内も、何を考えているのかも、当然明かしていない。
「お呼ビですカ」
仲間のネズミがすぐに現れる。
彼は背を向けたまま告げた。
「計画のために、死んでくれ」
仲間は、一も二もなく従う。
♦
地区の日照時間はいよいよ短くなり、一日のほとんどが暗い。極夜が近づいている。雪は暗闇の間を縫うようにしんしんと降り、大地をゆっくりと凍死させていくかのようだった。村人たちの装いに、上着が一枚増えている。
リンジェルは歩きながらシルバーの報告を聞き、上機嫌に微笑む。
「あと一週間もあれば、ボスの顔を拝めるだろう」
「さすがです」
「俺はもう何もしてない」
一ヵ月ほど前に要請した軍の先遣隊がようやく到着してから、下水道の攻略は劇的な進捗を見せた。調査隊は第十陣まで編成され、トンネルだけでなくマンホールからも多角的な侵入が繰り返されている。
シルバーは少し前から下水道を軍に任せ、地上に戻っていた。
迷宮は、マップに起こしてみると冗談のように複雑怪奇な構造をしており、雑談交じりに建築士にでも見せてみれば、茶を噴き出して笑い転げるに違いない。特にワープゲートの数が尋常ではなく、どこがどこに繋がっているかを把握するだけでもかなり苦戦を強いられた。まさに、足止めに特化した城と言える。
シルバーは風の届かない屋内へリンジェルを招くと、地下深くにてようやく発見したヒントを説明する。
「エネルギータンク?」
「パフェ曰く、そういうものらしい」
エリアを丸々一つ埋め尽くす巨大タンクの亡骸が四つ、見つかった。調査を進めていけばまだあるかもしれない。不気味なのは、それだけ莫大なエネルギーが何に使われたか判明していないことだ。
「まだ何かあるぞ。地区全域を巻き込みかねないものが」
「そうですか」
彼女は微笑んだ。緊張も油断も窺わせない薄い笑みだ。
「リンジェル様」
メイジーが傘を畳みながら報告する。
「三時間後に、王都よりアックスが到着する予定です」
「では最低限を残し、調査隊を下水道から引き上げさせてください」
「よろしいのですか?」
「何事も、攻めすぎれば手痛いしっぺ返しを食らうものですよ。今は守る時だと判断します」
「かしこまりました」
「本隊はいつ頃到着しますか?」
「あと三日はかかる見込みです」
戦力が整いつつある。
今ある人手で、可能な限りの万全を尽くした。
巣となった東四番街の封鎖はより厳重になり、周辺住民を一時的に近くの教会に避難させた。グレゴリオの護衛には軍がついている。下水道攻略が順調に進んでいることで人々の不安は和らぎ、加護も安定している。
ここが、ネズミが仕掛ける最後のチャンスであると言えた。
「さぁ、かかって来なさい」
リンジェルは窓の外を眺め、挑発するように呟く。
♦
村は平穏そのものであった。
日の昇らない午前八時。窓の外の雪景色を楽しみながら朝食を取るような、そんな早朝だった。
プラムはスープとパンを食べる。
「おいしい?」
対面のパフェはニコニコ微笑みながら味の感想を求める。
「おいしい」
「よかった」
彼女はニコニコの顔を、さらに嬉しそうにする。
加護のないプラムは様々な毒物に耐性がないため、食べられるものが少ない。体に合わせて作られる料理は、簡素で薄味なものになってしまう。しかし、パフェの料理は美味しかった。限られた調味料で味を表現することにおいて、彼女の右に出る者はいないだろう。
しかし、たった一つだけ、プラムには不満があった。
スープを飲む。甘い。
彼女はいつまでも、義弟が辛口を食べられないお子様だと勘違いしていることだ。
出てくる料理は、何から何まで甘く仕上がっている。自分で味付けできるスープはともかく、町で売っていたパンまで甘くなっているからさらに驚きだ。一体どんな手品を使っているのだろう、と訝しむ。
おいしいと言ったのは、嘘ではない。
ただそろそろ、辛いものとか苦いものとか、そういうのが食べたい。
プラムはパンを半分に割り、パフェの皿に乗せた。
「あげる」
「え?」
彼女は狼狽える。
「ほ、本当はおいしくなかった……?」
「違う。心配かけたから、お詫び」
「ありがとう。でも大丈夫。私は元気だから」
「いいよ、こっそり夜食するくらいお腹空いてるんでしょ?」
「な、何で知ってるの!?」
パフェの顔が羞恥心で赤くなる。ガタガタと椅子が揺らし、彼女は転びそうになる。しまった、とプラムは思った。
「やっぱ知らない」
「嘘つき!」
村は平穏だった。町もそうだ。
どの家も団欒しながら食事を取る。そんな朝だった。
東四番街の、とある廃レストラン。
誰もいない静かなキッチンには、蛇口から、ポタ、ポタ、と落ちる水滴の音だけが響いている。
ボトッ、と、黒い塊がシンクに落ちた。
狭い蛇口にはどうやっても入らないだろう大きさだった。それはネズミの魔物だった。真っ暗なキッチンに黒い目を怪しく光らせている。
ボトッ、ボトッ、とネズミは次々に落ちてくる。水の代わりにでもなったかのように溢れ出し、百を超える数が、あっという間にシンクを埋め尽くす。
それは、蛇口に仕掛けていたワープゲートであった。いくつかは上水道とも繋げていたのである。地下から地上へ、次々とネズミがやって来る。数が増えていくその様は、黒い塊が蠢いているように見える。
風船のように塊は膨張する。キッチンの壁は軋むような音を立てる。
ドアを破壊する。
ネズミは駆け出す。
鋭い歯をギラつかせ、黒い群れが進撃する。
最初に気づいたのはプラムだった。
彼は食事中に立ち上がり、四番街を振り向く。
次に気づいたのは、東四番街を監視している軍人の一人だった。
微かな振動を足元に感じると、数百ヤード先に、見えた。幅の広いストリートを埋め尽くす黒。一万を優に超える、ネズミの大群が。
メイジー、シルバー、オレンジ、並びに、地区に点在する軍人たちの持つ各トランシーバーに、砂が擦れたようなノイズ音。
『緊急事態! 緊急事態!』
全員に緊張が走る。
『こちらC―〇三、東四番街よりネズミの大群を確認! サウスストリートから、東三番街に向けて北上している! 数は目算で一万! 一万! ……何!?』
トランシーバー越しに、動揺の息遣いが漏れた。
『訂正する! 数は十万!! 十万!!』
物量の暴力が襲いかかる。
♦
大空に荘厳な鐘の音が響き渡る。
村人は、町人は、顔を強張らせる。日常の手を止め、努めて意識を緊急時のものに切り替えると、近くの教会へ避難しようと手早く準備を進める。
十八回の鐘が示すところは、『厳重警戒』。音色はどこか慌ただしく、逸っているようにも聞こえ、打ち手の焦燥感が伝わって来るかのようだった。
『イーグル地区のみなさん!』
どこからか声が聞こえた。
道行く人々は驚き、顔を上げ、辺りを見回す。しかし、ある方向から聞こえてきたという感じはしない。まるで頭の中に直接響いているようだった。自分以外も声を探しているのを見て、幻聴ではないと理解する。
『僕はプラム・ブルーです! 今、地区の全員の頭に直接話しかけています! どうやってるかは説明が難しいから省かせてほしい!』
また声が聞こえた。テレパシーを知らない人々は頭を抑える。
『東四番街からネズミが来ています! 警鐘はそれを知らせるためのものです! 数は多分、九万五千くらい! 慌てないで! 僕はネズミの位置がわかります! 避難誘導は僕が務めます! どうか信用してください!』
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