第14話 第四章「ワインボトル」
戦士長の剣が弾かれる。彼は舌打ちを噛み殺し、もう一度斬りかかろうとした。鎧のない脇を意識し、エメラルドに寄っていく視線を固定しながら、一閃。
巨大ネズミはしかし、攻撃を防ごうとはしなかった。なぜなら、彼の真横に火炎玉が迫っていたから。
爆発する。
シルバーの壁によって直撃こそ避けられたものの、戦士長は壁に叩きつけられ、倒れた。起き上がろうとするも膝が震え、力が入らない。針のダメージが身体を蝕んでいる。
敵の追撃だけでも回避しようと彼は顔を上げると、無意識に鎧に見ている。
慌てて目を逸らす。
「すぅぅ」
深呼吸し、修道士は歌った。
精神攻撃が一つ増えたならなおさら、環境攻撃は封じなければならない。
錯乱を食らっている状態で、四つ目の耐性にまで気を配るのは不可能だ。せめて他三つを和らげ、仲間たちが「脚光」の防御に集中できるよう整える必要があった。
テノールが響く。
ネズミの巨腕が襲いかかってきた。腕の鎧に目を引かれ、つい真正面から受けそうになるが、強い精神力でなんとか受け流し、回避する。
「あ」
歌が途切れた。四小節も続いていない。持続が短くなってきている。
苛立ちを抑え、もう一度歌う。
「クソっ……暗い!」
戦士の一人が、焦りを滲ませる声で嘆く。
歌がない今、状態異常は各々の力で対処しなければならない。しかし、エメラルドに目を奪われ、それすらも疎かになってしまう。
意味もなく目をこすってしまう彼の足元に、ローブのネズミは立っている。
『十一時!』
シルバーが防ぎ、針は刺さらない。
調査隊は辛うじて、「必殺」の攻撃だけは完璧に押さえられていた。プラムが錯乱を受けず正常なためだ。
シルバーは自身の加護を少年に与え、「脚光」に耐性を与えていた。全員に同じようにできればよかったが、そうはいかない。加護のないプラムを守るには相当量の光が必要であり、そこにリソースを吐いてしまっている。他に割ける加護は残っていなかった。
プラムを守り「必殺」を防ぐか、他を守り「脚光」を防ぐか。天秤にかければ、前者を選ぶしかない。
「必殺」を野放しにすれば、それこそ全滅が待っている。
「プラム、早まるなよ」
「わかってる……!」
隣に控えるプラムは前のめりだ。ナイフを手に構えており、今にも戦士を助けるべく飛び出しそうになっている。
しかし、懸命に堪えていた。自分が針を見ていなければ崩壊するとわかっているのだ。
「それでいい。落ち着け。勝機は来る」
シルバーは改めて戦場を俯瞰する。
前線はぐちゃぐちゃ。錯乱した中衛が持ち場を離れ、前衛より前に出てしまっている。
中央はがら空き。鎧に釣られた半分と、爆撃を恐れるもう半分にキッパリと分かれ、間に誰もおらず連携が滞っている。
後方は右往左往。中衛がいなくなったことで回復の役目が持てず、戦いから浮いてしまっている。
陣形は大きく乱れていた。その防御の脆さは、三歩前に出た巨大ネズミが証明している。
今、四歩目が踏み出された。
加護の領域が侵食されていく。陣地が狭くなる。
『回避!』
指の鳴る音とともに爆撃。
シルバーが十五枚の壁を張り、威力を最小限に留めた。
ここまで崩されてなお致命的に追い詰められていないのは、ひとえに彼の防御力ありきだ。限られた光を巧みに操り、敵の攻撃を読み切り、粘る。
攻撃を捨て、守護に全神経を集中させながら、とにかく粘る。
まだだ、まだ、胸の内で唱えながら、シルバーはどうにか勝機を窺う。
だが、そうして一人で支えている状況は長くもたないだろう。
戦士の何名かはすでに「脚光」に完全に囚われており、爆発の熱や音すら気にも留めず、とにかく巨大ネズミに突撃を仕掛けている。
鎧の性質を知り、最初は抵抗していた彼らだが、劣勢の空気に気力を保てず飲み込まれてしまった。
今は数名だが、これが十名になればいよいよ守り切れない。
粘る。粘る。
壁を張り、怯えを浄化し、全体に目を配り続ける。
全体に、「必殺」の恐怖がぶり返しつつある。再び動きが精彩を欠いていく。
粘る。粘る。
「ぎぃぃ……」
そこで、巨大ネズミが動いた。
彼は太い腕を回し、左肩の鎧を乱暴に掴むと、剥がす。
「!?」
何事かと訝る戦士たち。プラムは狙いをすぐに察し、警告した。
『前を向いて!』
ネズミは鎧を手の中で砕き割ると、無数の破片にした。
振りかぶり、加護の領域に投げつける。
エメラルドの破片が天井を舞い、調査隊はつい、その放物線を目で追ってしまう。全員が一斉に、前方から目を逸らす。
巨大ネズミは懐から錠剤を取り出し、二錠目を飲み込む。胴体はそのままに、右腕がさらに肥大化した。
通路を丸ごと塞ぐまでに膨れ上がった拳を、注意を逸らした戦士たちに叩き込む。
「っ!」
シルバーは即座に動き、フルパワーの壁を三枚重ねて展開。剛腕を阻む盾とする。
一枚目、二枚目が一瞬で砕け、罅の入った三枚目でどうにか止める。
しかし風圧は防ぎ切れず、戦士たちは吹き飛ばされ、受け身も取れずに転がる。
「頃合いダ」
帽子ネズミが口を裂き、呟いた。
追い詰めた人間を『切り札』で畳みかける。万が一にも、立て直す隙など与えない。
彼は炎の杖を床に置く。そして新たに取り出されるのは、禍々しい紫をした二本目の杖。
ゾクッ……、と。
寒気と痛みが全身を走って、プラムは頭を押さえる。
打ち鳴らされるのは、これまで味わった中で最大の警鐘。避けようない死を彼は直感する。
帽子のネズミが杖を回すと、先端の真っ黒な宝石から、毒々しい煙が吐き出された。
それは、『キャンディ・プラネット』の最新兵器にして、恐ろしい殺傷能力を誇る凶悪な殺戮杖。
巨大ネズミを避け、加護の領域に広がっていく紫の煙。有するマナ属性は、
ミカゲ森蛇、
ゾーコブラ、
コルネリオスコルピ、
霧クラゲ、
グリンジュ大ガエル、
アッコウ蜘蛛、
キッツィオ白オクト、
ダイオウムカデ、
ギギア歯ギンチャク、
ヴェノムドラゴン、
の、
「毒」。
「逃げろォォッ!!」
プラムが大声を上げた、その瞬間だ。
暗闇が蠢き、ローブのネズミが現れたのは。
彼は待っていた。「隠密」による奇襲をことごとく察知してきた、紫の少年の『感知』。
超高性能なセンサーが目先の危険に集中し、針から意識が逸れるその瞬間を、ローブのネズミは、ずっと、待っていた。
魔物が笑う。
針が、プラムの心臓を貫かんとする。
「毒」と「必殺」。死の気配が調査隊の眼前に迫る。
目の前が真っ暗になる。
真っ暗に。
「聖火」
次の瞬間、
白い炎がエリア全体を包み込み、毒煙が一つ残らず浄化された。
十種の毒は完全に分解され、大気には欠片ほども残らなかった。
唖然とする。敵も味方も。何が起きたのか、誰も理解できなかった。
「やっと切ったな、切り札」
唯一、それを成したシルバーだけが落ち着き払い、銀の髪を揺らしている。その手にはプラムを狙ったローブのネズミが握られていた。
手の中のネズミは、わけもわからず混乱するばかり。なぜ自分は捕まっている、なぜ攻撃が読まれた。そんなことばかりを考えてしまい、逃走に頭が働かない。
「俺がプラムの右側を開けてたの、気づかなかったろ」
青く鋭い眼光が、ローブのネズミを見下ろした。
「チャンスがあれば絶対狙って来るって、思ってたよ」
読まれたのではなく、攻撃を誘われた。
気づいたネズミは絶望の顔色を浮かべた。その顔のまま浄化の光を浴び、彼はあえなく絶命する。
「バ、カな……」
帽子のネズミは驚愕し、固まる。
誘われたのは彼も同じだった。切り札は切ったのではなく、切らされた。そうでなければあれほど完璧な相殺は成立しない。
思考を巡らせる。
違和感は、ずっとあったのだ。シルバーが敵戦力の筆頭であり、王族に仕える身分であることは、フクロウの情報でわかっていた。だがそのシルバーは、守るばかりであまりにも消極的だった。
弱い、と思った。
違うと気づく。弱く見せていたのだ。
シルバーは恐らく、「脚光」の効果が表れた時点で、作戦を「逆転勝ち」に切り替えた。錯乱した戦士たちをあえて助けず、調査隊全員を囮にして、ネズミが誘われるのを待ち続けた。
その作戦は成功したと言える。
優勢の雰囲気に酔い、思考が短絡的になった帽子ネズミはまんまと釣られ、強力な手札を二枚失った。
しかし、だとしてもしかし、あり得ない。
切り札は切り札だ。煙には十種の毒が複雑に絡み合っており、分解など簡単にできることではない。いったいどうして――、
「よぉ、陰険クソネズミ」
シルバーが、巨大ネズミ越しに声をかけてきた。
「てめぇの切り札ってのは随分ちんけなんだな」
彼は吐き捨てるように言うと、声にドスの効いた苛立ちを乗せる。
「舐めんなよ。俺は王族の護衛だぞ。最新兵器の対策くらい、練ってるに決まってんだろうが」
帽子ネズミはその言葉に、愕然とした。
ピシリと、自らの傲りに罅が入り、砕け散る音を聞く。
スタートラインからすでに負けていたのだ。下水道に潜む自分たちはまさに、井の中の蛙であった。人間の最高峰に触れ、彼は真の実力差を理解する。
「全員」
シルバーは調査隊を見回し、気炎を吐いた。
「顔を上げろ!」
転がったまま呆然としていた戦士たちは、消沈した様子で頭を持ち上げる。
「わかってるはずだぞ。『脚光』は無敵じゃない。囚われたのはお前らの気力の問題でもある」
錯乱状態ならばそれはそれで、やりようはあったと彼は主張する。なのに戦士たちは焦りや不安に手一杯で、まともな対策の一つも立てなかった。
「意識を強く持て! 簡単に揺れるな!」
調査隊は返事をせず、うつむくばかりだ。ここまで追い詰められたショックが大きく、立ち直れていない。
シルバーは鼻息をつき、すぐ近くまで吹き飛ばされていた戦士長を見た。
「戦士長」
自らの加護を彼に分け与える。
「あなたに『脚光』への耐性をつけた。後ろに下がり、俺の代わりにプラムを守ってくれ」
「君はどうするんだ」
戦士長は尋ねる。
「俺は前に出る」
彼は悠然と歩いていくと、前線の位置で立ち止まった。
「こういう相手にどういう指揮を取ればいいか、見せてやる」
前方で倒れていた修道士にも手を伸ばす。
「立てるか?」
肩を借り、立ち上がる修道士にも彼は命令する。
「お前も後ろに下がれ。目を閉じて、鎧を遮断しろ。歌にだけ集中するんだ」
指示を聞いた彼は瞠目した。
目を閉じる。歌に集中したいのなら、確かにその手があった、と。こんな簡単なことになぜ気づかなかったのか、と。
修道士が下がったのを確認して、シルバーは号令する。
「前衛、中衛! とりあえず立て! 陣形はぐっちゃぐちゃなままでいい! まずは目の前のデカブツを落とすぞ!」
指を差された巨大ネズミが、警戒を露わにする。戦士たちはゆるゆると起き上がり、剣を構える。
「あと、剣はその辺に捨てとけ。必要ない」
一同は意味不明な指示に混乱した。指揮官の命令は絶対だとわかっていても、素直に無手になれる者はほとんどいない。
シルバーは混乱を解消すべく、手本を示した。
「いいか? お前らはどうにか鎧を避けて攻撃しようとしてたが、それは逆効果だ。むしろドツボにはまる。視線を誘導されてるなら、誘導に乗ってやるのさ」
彼はネズミの足元まで近づくと、鎧に向かって手を伸ばす。膝のアーマーを掴み、無理やり剥がし、エメラルドを握り潰して粉々にした。
「鎧から先に砕いちまえばいい」
戦士たちは目から鱗とばかりに目を見開き、剣を捨て、次々に向かって行く。巨体の身ぐるみを剥がすべく、一斉に飛びかかった。
しかし、巨大ネズミもただ見ているはずがない。大きな唸り声を上げ、無防備に突撃する人間を叩き潰そうとした。
「うるせぇ」
と、シルバーは一言で切り捨てる。
彼は自らの加護を白い鎖に変形させると、丸太のような二本の腕を縛りつけた。膨れ上がった筋肉でも破れない強力な束縛により、ネズミは抵抗できなくなる。
「今説明してんだろが」
動けないネズミは一方的に蹂躙される。鎧は戦士たちの手によって、掴んで剥がされ、殴って壊される。装備がみるみるうちに脆くなっていく。
すると、左右の壁が赤く光り、火炎玉が打ち出される。帽子のネズミも抗う。
「【ホーリィ】」
対して、シルバーは手を合わせ、詠唱。彼を中心に光が広がり、魔法の炎は一つ残らず消滅した。
「何回見たと思ってんだ。もう食らわねぇよ」
彼の本来の立ち位置は前衛。前に出ることで本領を発揮したその封殺劇に、ネズミたちの心は叩き落される。戦士たちは安心して攻撃に専念できる。
「クソ! クソ……!」
そんな中、一人歯噛みしている戦士がいた。
彼は、『脚光』に完全に囚われていたうちの一人だ。錯乱が抜けきっておらず、指示が聞こえなかったのか、未だに剣で攻撃している。肉体を狙おうとして上手くいかず、全て鎧に弾かれていた。
そんな彼にシルバーは近づき、助言する。
「剣を使いたいのか? なら鎧ごと斬っちまえよ」
落ちていた一本を拾い上げ、加護を研ぎ澄ませたシルバーは、手本を見せる。
「こうだよ」
白い一閃が光る。
斬撃が、鎧もろともネズミの肉を切断した。
巨大ネズミは血飛沫上げ、呻き声を轟かせる。
戦士たちはあんぐりと口を開いた。剣の一振りでさえも次元が違う。戦士長や修道士でも届かない離れ業をまざまざと見せつけられた。
「そんなに難しい技じゃないぞ」
しかしシルバーは、何でもないように言う。
「光の宿し方に無駄が多いんだよ。もっと鋭く、刃の形に添うようにしろ。それさえクリアすれば、ここにいる奴なら誰でもできる」
相変わらず錯乱している彼に向き直る。
「やってみろ」
言われた通りに実践する戦士だが、しかし上手くいかない。その度に、シルバーが細かい助言を繰り返した。
すると別の戦士が、
「できた……!」
足元には、斬り落とされた鎧の破片があった。手本には遠く及ばない威力だが、確かに成功している。
「ほらな」
シルバーは笑うと、巨大ネズミの全体を見る。既に、鎧の半分が砕かれていた。
「錯乱もだいぶ解けてきただろ」
戦士たちの目を確認する。視線を誘導されるような、不自然な泳ぎ方はしていない。
白い鎖を解き、巨大ネズミを解放した。
「なら任せる。好きにやれ」
調査隊はすぐさま剣を拾い直し、前衛、中衛と陣形を整えた。各々で思考し、飛びかかっていく。ネズミは太い拳を振り、迎え撃つ。
彼らはシルバーの助言を実践し、意識して剣を振った。その結果、三分の一が鋼を斬る剣技を身に着け、巨大ネズミは抵抗空しく鎧の上から斬撃を食らい続ける。
失血し、頭を垂れたその首が刎ねられ、絶命する。死んでも薬の効果は切れないらしく、死体は巨大なまま残る。
壁に隠れていた帽子のネズミと、その後ろの百体が、ようやく姿を現す。
「別に強くないだろ?」
黙って見守っていたシルバーは、戦いが終わると口を出す。
「慌てすぎなんだよ、お前ら」
彼はそこで、さて、と言葉を切ると、青い瞳で全体を見回した。
「まだ、自信を失ってる奴はいるか?」
返事はない。代わりに、高ぶった加護の光が返って来る。
頷き、彼は檄を飛ばす。
「心を強く持て! 忘れるな! ちゃんと戦ったお前らは、ちゃんと強い!」
残ったネズミを指差し、告げる。
「蹂躙しろ」
戦士たちは駆け出した。
帽子のネズミは一目散に逃げ出し、百体のネズミはそれを守るように立ち塞がる。
研ぎ澄まされた剣撃が、有象無象どもを次々に斬り飛ばしていく。
加護の領域が広がっていく。
はっきり言って、「必殺」と「毒」がなくなった時点で、調査隊を頼る必要はもうなかった。
シルバーは強い。敵地であるハンデを以てしても、手の内を晒したネズミたちでは彼一人にまるで歯が立たないだろう。
しかし、彼は一人で戦おうとしなかった。
シルバーは慎重な男だ。あらゆる事態を想定し、あらゆる可能性に備える。その思考は今ではなく、未来を見ていた。
この先も長くかかるだろう迷宮探査。そこには、戦士たちの力が必要になる。今、シルバーが一人で敵を殲滅したとして、それ以降の調査は滞りなく進むか。村を、町を、魔物の侵略から守り切ることはできるか。否だ。
ゆえに、彼は調査隊の一人一人を奮起させ、鍛えることにした。この先起こる、あらゆる事象に対応するために。
それが、シルバーの慎重。
後ろで見ていたプラムは、シルバーの考えを読み、今日何度目かの感嘆をした。
下水道に入ってから、彼は圧倒されっぱなしでいる。
命のやり取りの一瞬一瞬に生じる、凝縮された思考、技術。それらを何度も味わい、少年の心は静かに、奮い立っていた。
「すごいなぁ」
と、呟く。
百体が残らず倒され、帽子ネズミは壁際まで追い詰められる。
自分よりも遥かに大きい人間に囲まれ、剣を向けられ、何もできない。このまま死を待つだけだ。
しかしと、彼は歯を食いしばり、最期まで抗う決意をする。
炎の杖でも毒の杖でもなく、懐に隠していた短い三本目の杖を取り出した。切り札に隠した、正真正銘の奥の手。
魔法が起動され、下水道全体がカタカタと震える。
それは、最初にワープゲートを塞いだ「操作」の魔法。
部屋全体のコンクリートを操り、天井を落とし、この場にいる人間全員を道ずれにしようとする。
「だろうな」
シルバーは光を放ち、マナを浄化。それすらも完封する。
最初に自分たちを閉じ込めた魔法を、彼が覚えていないわけがなかった。
戦士が剣を振り、帽子のネズミの首が飛ぶ。
これで終わった、と誰もが思った。
しかし、帽子ネズミの切り離された首。
その口元はなぜか、微かに笑っていた。やってやったぞと、口角を上げていた。
背後でコンクリートが蠢き、塞いでいた出入り口が開かれた。
ワープゲートが露わになる。
そこから、八体のネズミが飛び出してくる。
「!?」
後方にいた戦士長、修道士は、驚愕して振り返る。転移越しの攻撃であったため、プラムも気づくのが遅れた。
「チッ、まだいたのか」
シルバーは急ぎ駆け戻る。
八体のネズミは鋭い牙を晒し、他には目もくれず、真っ直ぐにプラム目がけて襲いかかってくる。
その瞬間、
プラムの頭は、ものすごい速さで回転した。
ネズミの牙が届くその数秒の間に、凄まじい情報量を脳が処理していた。
まず、戦わなければと思い、腰からナイフを抜き、構えた。
次に、八つの牙に危機を直感し、村長を殺した「汚れ」のネズミだ、と断定した。
さらに、間に合ったシルバーが守るように前に立ったので、さすがだな、と思った。
そして、ネズミたちの心を読み、コイツらは家族のために戦っているのだな、と理解した。
最後に、自身の戦闘力を鑑みて、僕では勝てない、と判断した。
途端、プラムの紫の瞳からスゥと意識が遠のいた。
眠るように瞼を閉じて、すぐに開かれる。
「まったく、今回だけだぜ」
プラムの口が、まったく異なる口調で何かを言った。
少年は紫の光を全身に帯び、不敵な笑みを浮かべると、シルバーよりも素早く動いた。
腕を振る。
それだけで、八体のネズミは残らず真っ二つになり、地に落ちた。
「何?」
シルバーは困惑した。
理解できず、今起きたことを振り返る。
プラムがネズミを斬り落としたことは、間違いない。だがその太刀筋は、まるで別人のように卓越していた。急成長などという言葉では説明できない。
どうなっている、と彼は少年を訝る。
「大丈夫か!?」
遅れて、戦士たちがプラムに駆け寄った。
「うん、大丈夫」
プラムは答える。その顔から、もう別人のような笑みは消えている。
「ねぇ」
彼は戦士たちに取り合わず、地べたに転がるネズミの死体を見つめながら、尋ねた。
「これ、僕が殺したんだよね?」
「ああ、そう見えた」
「そっか」
プラムは呆然としていた。助かったというのに安堵の色も見せず、浮かない様子でいる。
「どうした?」
戦士の一人が尋ねる。
「なんでもない」
紫の瞳が、ネズミの赤い血から目を離さない。
「コイツらにも、家族がいるんだなって。それだけ」
戦士たちは顔を見合わせ、少年の心境を憂いた。
人ではないとはいえ、初めて、知性と生活を持つ生物を殺したのだ。その罪悪感は計り知れないだろう。十四歳の子供には重くのしかかるはずだ。彼らはケアが必要だと判断した。
代表して、戦士の一人が前に出た。
「プラム、大丈夫だ。俺たちも昔は……おーいどこいく」
話の途中で突如踵を返し、離れて行こうとするプラム。戦士はその肩を掴み、引き留めた。
「え?」
振り返った少年はすっきりした顔をしており、落ち込んだ様子がなくなっているものだから、引き留めた戦士は驚いた。
「平気なのか?」
「うん、平気。受け入れた」
戦士は再び驚いた。あまりの切り替えの早さに声が出ない。強がっているわけでもないようだった。
プラムはネズミの死体に背を向けた格好で立ち止まる。もう振り返らないと言わんばかりに見向きもせず、一言だけ、告げる。
「謝らないぞ」
シルバーはその横顔を窺っていた。気丈な態度と眼差しには、迷いのない信念のようなものが宿っている。
彼は少年の精神性に、非凡なものの片鱗を見出す。
♦
調査隊の第一陣は、ワープゲート先のこのエリアを拠点1とすることに決めた。
傷の深い者は応急手当を受け、余裕のある者は結界術で加護の領域を広げていく。全員疲労の色が濃いが休んでいる暇はない。
今日はここで眠り、明日の早朝には、第二陣がこの拠点1までやって来る手はずだった。
合流して準備が整い次第、拠点1の維持は二陣に預け、一陣はさらに深くへと調査を進める。その先に拠点2を設置すると、第三陣が加わる。
三陣が拠点1を、二陣が拠点2を維持し、一陣はさらに先へ。これを繰り返し、地道に迷宮の攻略を進めていく。十分なルートと安全が確保されれば、第四陣、五陣の投入にも繋がるだろう。
プラムは二陣の先遣隊とテレパシーで交信していた。彼の最大の役割は戦闘ではない。別の陣との交信が本領である。しかし、
「大丈夫か? 顔色が悪い」
シルバーが尋ねる。
「ん、平気」
プラムが答える。
「シルバー!」
加護を張っていた戦士が何かを発見し、呼びかける。
「扉だ」
それは、足首くらいまでの高さの扉だった。隠し扉ではなく、ネズミのサイズに適した大きさをしているだけだ。人間の目線を基準に探していては、見落としてしまう。
シルバーは軽く壁を叩く。空洞のある音がした。部屋がある。
「プラム、どうだ?」
「何もいない」
敵が待ち伏せている可能性を排除する。ネンカを送って様子を見るが、これも異常なし。罠もないだろう。
「開けるか?」
戦士長が尋ねる。
「ああ、頼む」
味方の陣形が整うのを待つと、彼は壁を殴りつける。
罅を丁寧に広げ、人が入れるサイズの穴を作ると、調査隊は部屋に侵入した。加護の光を灯す。
中には高く積まれた紙の山が隙間なく連なっており、資料室かと思った。人間から奪ったであろう書物が本棚に敷き詰められており、憤る。しかし違った。
この部屋は研究室だったのだろう。試験管やビーカーと思しき容器、顕微鏡のらしき機械がある。壁の一面には、生体サンプルのようなものがずらりと並んでいる。カーテンで仕切られた先は、実験室だろうか。
人間の道具と形が違うことと、やはり小さすぎるがゆえに判別が難しかった。インクと薬品の匂いがする。
「これ全部研究資料か……?」
戦士の一人が、その量に呻いた。積まれた紙束は、人間の目線で見ても高い。ネズミにとってはビルが聳えているように見えることだろう。そのビルがいったい、何棟あるのだろうか。
机と椅子は、見渡す限り一体分だけ。まさか、たった一体でこれだけの研究を行ったというのか。
彼は資料の一枚をつまむ。
「読めない……」
当然字も小さい。その上、魔法学の記号は人間社会では一般的ではないため、解読には相当な時間がかかるだろう。
「とんでもないな」
魂を削るかのような研鑽の痕跡に、シルバーさえも感嘆の息を吐いた。
「なんだこれ……」
一方で、プラムは絶句していた。
息を呑む。体が震えている。
彼の受けた衝撃は、戦士たちの比ではなかった。
プラムは、他の者とはまったく違うものを見ていた。
山と積まれた資料、小さな実験道具たち、壁に記されたいくつもの計算式。そこに宿る、感情。執念。
叫び声がしたかと思った。部屋全体が絶叫したように、聞こえた。
赤い感情だ。この部屋の主が何を考え、何を思って研究に打ち込んできたのか、殴りつけるように伝わってくる。
滅ぼす、と。
文字の一つ一つ、紙の一枚一枚が人間を指差して、死ね! と、言っている。
「う、ぁ、ぁぁ……」
膝から力が抜け、尻餅をついた。
両手で顔を覆う。髪を掴む。顔色がさらに悪くなっていく。
「おい、どうした?」
修道士が駆け寄り肩を揺するが、何も聞こえない。
ネズミの短い生涯、その全てを捧げるほどの激情に、完全に呑み込まれている。
これが、魔物の目。
プラムは息を詰めた。心臓の鼓動が早くなる。血液が沸騰するように、身体中を駆け巡る。
ティーカップとワインボトルの話を思い出す。
あの時、プラムは別に、強がっていたわけではなかったんだ。
リンジェルの話はピンと来なかったから、やはり自分はティーカップなんだなって、確かにそう思っていたんだ。
紙束が燃えた。驚いて、戦士たちは各々持っていた資料から手を放す。
今度こそ罠かと警戒し身構えたが、そうではなかった。燃えているのは研究にまつわるものだけで、人間を攻撃してくるような気配はない。情報を盗まれないよう隠滅する魔法だ。
黒ずみ、燃え、舞い上がっていく執念の痕。
プラムの目に焼きついていく。
その表情はもはや蒼白になって、大量の脂汗をかいていた。体調に異常をきたしているのは間違いなかった。
修道士が大声で周囲を呼びかけている。
「僕は……」
朦朧とする意識の中、プラムは弱々しく呟く。
涙を流すような表情で、命の宿る部屋を指差した。
「こんな風に、生きたい」
倒れる。意識を失う。
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