第5話 第二章「アラミア中学校の変」


 マダラキツネはオゥジュ大陸に広く生息しており、特殊な習性から、妖怪として恐れられていた時代もあったいわくつきの動物である。


 魔物化により付与される属性の一つ、「焔」。

 ニックスは「焔」属性のマナを自らの息に混ぜ、火炎放射を放つ。


「フゥ――ッ!」


 教室に広がる赤い熱。

 プラムは制服の上着を脱ぎ、盾のように扱いながらこれを受け流す。

 生徒たちから、驚きと恐怖の悲鳴が上がった。


「やめろニックス!」


 コロンがプラムの前に立ち、変貌した級友と向かい合った。

 キツネは構わずに腕を振る。コロンが加護を高め、防御しようとする。

 爪は光を貫通し、肩を大きく抉った。


「あぁぁぁっ……!」


 コロンは大量の血を流し、倒れ、痛みに悶絶する。


「人間ってのはバカだよなぁ」


 ニックスは、下らない正義感を発揮した愚図を見下ろし、侮辱する。


「加護があるからって、何の訓練も受けてねぇガキが、魔物に立ち向かえると勘違いしちまうんだから。なぁ、コロン」


 その光景に、プラムは失敗を悟った。人がいる場所で戦うべきではなかった。

 机を投げつけ、魔物の注意を引きつける。


「逃げろ!」

 叫び、教室を飛び出す。人のいないところを目指して走る。


「逃がすかよ」

 ニックスはプラムを追う。


 廊下を駆け抜けながら、プラムは背後に迫りくる二つの気配を感じ取る。四足歩行に切り替えた魔物の疾走だ。


 速い。

 人間に化けていた時とは違う、野生本来の敏捷性が出ている。


 階段を二段飛ばしで駆け下りる。すると、突如として、横からキツネの爪が伸びてきた。コロンとの攻防の間に一体が先回り、待ち伏せていたのだ。


 奇襲。

 は、気づいていた。


 プラムは体勢を低くする。爪を躱し、すり抜ける。

 残りの階段を飛び降りると左に進路を変え、西棟に続く廊下へ走った。


 追いながら、ニックスは瞠目していた。今の奇襲で終わると思っていたからだ。

 なぜ躱された? 読まれた?

 奥歯を噛み締める。苛立ちが募る。


 廊下の慌ただしさに、教室から何人かの生徒が顔を出す。プラムが通り過ぎていったのを見て彼らは、走るな、と注意しようとした。しかし、その後ろから来る魔物を目にして、言葉を失う。


「ごめん、どいて。通して」


 廊下を歩いていた生徒たちを、プラムはかき分けて進んでいく。

 キャッ、と女子生徒の一人が転んだ。


 キツネがその生徒に手を伸ばす。

 彼女の腕を掴んで人質とし、首筋に爪を立てて、止まれ、とプラムを脅すところだった。


 その顔面に、羽ペンが飛んでくる。

 プラムが背を向けたまま投げたのだ。


 キツネは慌てて躱し、怯んだ彼の動きが、一瞬止まった。

 その一瞬。


 プラムは逃げから一転。Uターン。

 隙を見せた懐に入り込み、ナイフを構えている。


「!」


 右肩が斬りつけられた。

 血が飛ぶ。


「ギァッ! クソッ!」


 意識がプラムに向き、人質を忘れたキツネが腕を振る。しかし彼は回避する。

 他の二体も攻撃するが、予想外の反撃に動きが雑になっている。


 躱す。すり抜ける。

 再び先頭に出たプラムは全速力で走る。


「プラム、あなた何をしているのですか」


 騒ぎを聞きつけた教員が、西棟の出入り口付近で声をかけてきた。

 まだ事情は知らないようで、説教しようと眉を立てている。

 プラムは答えず、廊下の切れ目を指差し、叫んだ。


「先生、ここに壁張って!」

「なんですって?」

「いいから!」


 戸惑う教員の目の前を、キツネが通りすぎる。

 彼は驚き、反射的に、指示通り加護の壁を張った。


「ありがとう!」


 礼を言うプラムを、わけもわからず見送るしかなくなる。


「あ?」


 背後に出現した壁を見て、ニックスはハッとする。

 廊下への道を塞がれ、人質という手段を封じられた。


 彼は学校の地図と、時間割を思い出す。この先は礼拝堂だ。そして、この時間の礼拝堂は使われておらず、人は誰もいないはずだった。加えて、加護を巧みに扱ったあの教員は、学校で唯一の修道士の経験を持つ者で、普段はあの教室を担当していない。にもかかわらずプラムは、わかっていたかのように彼に指示を出した。


 偶然であるはずがない。誘導されている。

 得体の知れない能力を感じて、彼はさらに、苛立つ。


「クソ野郎がッ!」


 脚に力を込め、一気に距離を詰める。

 プラムは、この動きも読んでいたかのように唐突に振り返り、ナイフでニックスの首を狙ってくる。


 が、ニックスは冷静だった。

 読んでくるとわかっていれば、加護を持たない彼の動きはあまりにも、

 ノロい。


 左手でナイフを弾き、掌底を胸元に食らわせた。


「がっ……!」


 プラムは突き飛ばされ、転がり、校舎の外に投げ出された。

 彼はすぐに起き上がると、傷む胸を押さえ、礼拝堂の扉を開けて逃げ込む。三体もその後を追って侵入する。


 堂内にはやはり、人がいない。

 舌打ちする。屈辱だ。無関係な人間を守られてしまった。だが追い詰めた。プラムは広々とした空間にたった一人。狩られるのを待つ野兎のようだ。


 ニックスはもう一度、一気に距離を詰める。

 プラムは不意を突くような動きで、首元に右拳を振るう。

 同じカウンター、同じ攻撃だ。だろうな。


 振り切ったプラムは、驚愕して固まる。握っていたはずのナイフがなくなっている。

 隙だらけの顔面を爪でえぐり、掌底で鳩尾を突いた。


「うぇっ」


 腹を抱えて蹲り、咳込むプラム。額から唇にかけて四本の傷。ドクドクと血が流れている。


「探してんのはこれか?」


 ナイフはニックスが持っていた。見せびらかすように、手の中で弄んでいる。

 握り締め、さらに距離を詰める。


 プラムは制服を左腕に巻き、盾にしようとした。

 盾を、ニックスは左手で触る。攻撃のためではない。触るためだけに触った。


 すると、しっかり巻きつけていたはずの制服はするりとプラムの腕を離れ、魔物の手元に収まった。

「窃盗」の魔法。


 防御を失いがら空きになった胴体が、斬りつけられる。


「い……っ!」


 鋭い痛みが神経を焼く。傷は浅いのに、涙が出るほど痛い。


「普通はこんな簡単にいかねぇんだぜ?」

 ニックスはナイフを捨て、右手を開閉する。


「なんで盗られるかわかるか? お前に加護がねぇからだ」

 頭から爪先まで、プラムの格好を目で追う。


「四六時中制服着て、毎日化粧して、似合わねぇ飾りまでつけて、大変だなぁ」

 首元にも目をやる。


「ああ、そのタトゥーもか」

 あまりに滑稽で、クツクツと笑う。


「同情するぜ。そこまでして補っても、魔法一つ防げない。だからお前は無能なんだ」


 見下ろし、見下し、優越感に浸る。笑う。


「おい」

 二体に目配せした。

「リンチ」


 傷を負ったプラムを二対一で殴り、蹴る。彼はどうやっているのか攻撃される箇所を読み、防御しようと動いているが、二体もそうされることはわかっている。手数を増やし、守りの上から叩き込み、ダメージを与え続ける。


 プラムは捕まっては逃げ、捕まっては逃げを繰り返す。シャツの加護が邪魔だった。攻撃が通りにくい。それすらも「窃盗」で奪われる。みすぼらしくなって、いよいよなす術なしだ。ニックスはその様子を眺め、楽し気に笑っていた。


 だが、気づいてしまった。

 プラムはまだ抵抗している。逃げ回りすぎている。これほど防戦一方なのに、動きが悪くならない。息すら切らしていない。


「お前、疲れてないのか?」

 思わず尋ねた。


「疲れる?」

 プラムは、腫れた顔でニックスを見た。


「疲れるって何だ? 疲れたことがないからわからない」


 ニックスの心は、かつてないほどざわついた。

 何だ。コイツは何だ。どれだけ追い詰めても、神経を逆撫でしてくる。まるで上回っているかのような顔をする。


 二体に混ざり、ニックスは爪を立てた。引っかく。


「~~~~っ!!」


 肉体を傷つける。確実に筋肉を切るように、深く傷つける。

 声にならない呻きを上げ、プラムは頭を垂れる。


「てめぇ、やっぱ死ね」


 暗い眼差しを、プラムはなおも気丈に睨み返す。

 全身を切りつけられながら、反撃の糸口を探す。


 どうする!? どうすればコイツらを殺せる!? ニックス以外は油断している。それはわかる。付け入る隙だってあるはずだ。せめてナイフがあれば。


 彼は攻撃を受けながらそれとなく獲物を探して、瞬間、別のものを感知する。


 こっちに来ている気配があった。

 プラムの喉が干上がる。


 ダメだ。巻き込んじゃダメだ。来る前に殺さなきゃ――、

 爪が、脇腹を深々と抉る。


「う、げぇぇ……」


 肋骨を抜け、内臓に届こうかというところまでかき回される。吐き気が込み上げる。


「ぅぅ……」


 力が抜けていく。もうナイフまでは絶対に届かない。

 ならばと、プラムは思考を切り替え、一か八かの賭けに出る。


「んんんんっ!!」


 全身の力を振り絞って飛び上がり、捕まえ、せめて動きを止めようとして、


「バカが」


 強烈な蹴りが炸裂する。

 プラムは弾き飛ばされ、何度も床を跳ねながら転がっていく。出入り口付近の壁にぶつかって、ようやく動きを止めた。


 ぐったりと腕を下げる。

 かすむ視界に、歩いてくるキツネたちが映るが、動けない。身体機能の限界だった。


「クソ……」


 呟きを落とす。

 ニックスはプラムの前で立ち止まると、爪を研いだ。強い憎しみを込め、振りかぶる。その時、


 隣の扉が勢いよく開かれた。

 白い髪をなびかせ、パフェが現れる。その横顔を見上げて、もう一度呟く。


「クソ……」


 パフェは正面に三体のキツネを捉え、すぐ横に倒れているプラムを発見した。


「プラムッ!」


 キツネたちは大きく後ろに飛ぶ。

 パフェがグレゴリオの使用人として、相応の技術を学んでいることは彼らも知っている。警戒し、構える。


「パフェ、ごめん……」

「いい! いいよ! そんなのいいから!」


 彼女は義弟と魔物の間で視線を往復させ、対応に迷う。

 回復させるか。攻撃するか。


 攻撃。その響きに、パフェは一瞬凍りつく。どんなに悪辣な生物相手でも、命を傷つけることは、彼女の最も苦手とするところだった。

 手に光を集めるがしかし、躊躇する。


 切り抜けるには、攻撃するしかないと理解していた。顔を歪めて、迷って、


 眦を決する。


「【天界】!」


 簡易儀式、詠唱。

 魔物たちの足元を中心に半径数ヤードの加護が、爆発的に増加する。


「【裁き】!」


 領域内の光に、強い浄化の効果を施す。


「ぎ、ぃぃっ!」


 キツネらは膝をついて崩れ、内側から焼かれる感覚にもがき苦しむ。

 しかし、動く。反撃しようとしている。出力が足りない。

 パフェは声を上げた。


「みんなぁ……!」


 呼びかけに、礼拝堂の周囲で待機していた数十人の中学生たちは応え、パフェに自らの加護を送った。

 子供の未熟な光だ。しかし集まったそれらは確実に儀式を強化し、加護の純度はさらに高まる。領域は光り輝いた。


「ギャアアァァァ!!」


 絶叫。二体のキツネはとうとう手をついた。ニックスに至っては動けてすらいない。浮かべているのは苦悶の表情だ。


 見ていられないと、パフェは目を逸らす。

 しかし手は緩めない。手を組み、魔物に向けてかざした。


「【シィール】」


 加護の光が檻の形に変わっていく。

 キツネたちを囲み、閉じ込める、浄化の檻だ。

 パフェは素早い手際で、三体を完全に封印して見せた。


 光を解く。彼女は力が抜けたように膝をつくと、すぐにプラムに向かった。


「……プラム……プラム、大丈夫?」


 酷い傷だった。急いで治癒の儀式を発動しようとして、


「パフェ!」


 中学生の一人が叫ぶ。

 振り返る。

 ニックスがナイフを持って襲いかかってくる。


 なぜ!? 封印したはずだった。

 彼女は反射的に加護の檻に視線を向けた。

 中にはニックスの子分二体と、プラムの制服だけ。


 マダラキツネの属性の一つ、「幻惑」。

 閉じ込めたと思っていたのは幻だった。パフェが目を逸らした一瞬の間に、服にマナを付与したのだ。


 パフェには優れた能力がある。だが彼女は優しすぎた。決定的に戦いに向いていない。だから隙を突かれた。


 ニックスはナイフを振りかぶった。

 パフェではなくプラムに向かって。

 焼けた喉で叫ぶ。


「俺は無能じゃない!!」


 凶刃が命を貫こうとする。防御は間に合わない。

 今度こそ終わりだと覚悟して、しかし、


 キン、と音を立て、ナイフが弾かれる。

 プラムの前にはいつの間にか分厚い光の壁に張られており、刃は届かない。


「はぁ!?」


 ニックスは激怒する。邪魔をしたのは誰だと辺りを見回す。


 攻撃を防いだその男は、礼拝堂の扉から現れた。背が高く、白いスーツの上からでもわかる筋肉質な身体をしている。銀髪と青い瞳が特徴的で、二十代半ばに見えた。


「俺は慎重な男だ」


 男は堂内を軽く見まわし、第一声にそう言った。

 意味がわからず、その場にいた誰もがきょとんとする。


「慎重な俺はあらゆる事態に備え、それゆえにあらゆるものを守れるんだが……今回は危なかった」


 彼はポケットに手を入れたまま、魔物を見据える。


「俺はシルバーという。リンジェル・アリア・アメジストの護衛だ」



       ♦



 シルバーはニックスに目を向けたまま、プラムに声をかけた。


「いいか、俺は慎重な男だ。だからどんな事態にも対処できるよう、リンジェルと君の両方を守れるように準備していたんだ」


 物腰柔らかな彼は、嘆息で呆れを表現する。


「だが、君は本当に理解不能なんだな。まさか学校の中で戦いを仕掛けるとは思わなかった。おかげで学生を避難させなければならず、遅れてしまった」


 守るように、パフェの前に立つ。


「後で説教だ」

「チッ!」


 長々と話を進める男に、ニックスは苛立つ。


「ごちゃごちゃうるせぇよ!」

「うるせぇのはてめぇだ!!」


 それまで丁寧な口調だったシルバーは、突如として激怒した。彼は眉を歪め、生意気なガキを見るマフィアのような顔つきになると、白い光を纏う。


「今俺が喋ってんだろうが」


 莫大な加護が、礼拝堂の高い天井を貫かんばかりに立ち昇る。それはメイジーの流麗な光とはまた違う、荒々しい獣のような輝きだった。


 ニックスは強烈な加護に圧倒され、一歩、二歩と後ずさる。

 勝てる相手ではないとすぐにわかった。しかし、逃げることは、彼の小さなプライドが許さなかった。

 鋭い犬歯を噛み締め、意を決する。


 火炎放射を放つ。

 超広範囲に及ぶ熱の波。王族の護衛はそれを、軽く手を振るだけで打ち消して見せた。


「な……!」


 驚いている暇はない。シルバーは手を組み、儀式を発動させる。


「【シィール】」


 パフェが作ったものの、ゆうに十倍はあろうかという光の檻が顕現した。

 ニックスはなす術もなく囲まれ、封印される。


 が、瞬きをすると、檻の中にはナイフだけ。幻覚だ。

 爪が迫る。


「同じ手を――」

「食ってるわけねぇだろボケ」


 死角から襲いかかるニックスの首を見もせずに捕まえる。

 そのまま乱暴に腕を振り、投げ飛ばし、檻の中にぶち込んだ。

今度こそ完全に封印した。


「クソッ……出せ! ぶっ殺してやる!」


 浄化の光に焼かれ、悶え苦しむキツネはしかし、目を血走らせたまま延々と罵倒を繰り返す。その矛先はプラムに向いている。

 シルバーは煩わしそうに目を細め、詠唱する。


「【パージィ】」


 檻の中に、別の儀式が重ねられた。

 すると、鬼のようだったニックスの形相が、段々と段々と、柔らかくなり、ついには覇気を失う。


「……お、れが……悪かった……」

「悪意を浄化した。もう大丈夫だ」


 シルバーが言うと、中学生たちは一斉に安堵の息を吐いた。


「捕まった……ぁぁぁ……」

 力なく座り込み、うつむく。その爪が、キツネ自身の喉元に向いている。


「ぁぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」

 勢いよく自らの血管を引き裂き、自殺しようとして、しかし、その腕も下がる。皮が剥けただけで中断され、抜け殻のようになって動かない。


「害意も浄化している」

 と、シルバーは補足した。


 キツネの魔物を三体、生け捕りに成功する。


「すぐに、すぐに治するからね」


 パフェはプラムの手を握り、治癒の加護をかける。血が流れすぎていることに焦り、生々しい傷口を見る度に動揺しながら、手順は間違えない。目尻に涙を溜めながら、温かい光を与え続けた。


「……ごめんね」


 プラムは細い声で謝る。

 泣かせた。やり方を間違えてしまった。不甲斐なくて、うつむいてしまう。


 無能。ニックスに幾度も吐かれた侮蔑が、頭の中で響き続けている。目を閉じて、眠りについた。

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