第8話
マグカップに砂糖を入れるときのそそっかしい仕草。チビチビと舌先でコーヒーを舐めとる姿。放っておけなくて一挙一動を目で追ってしまう。唯らしくはないけれど戸惑いよりも好ましく思えた。
見知った姿をしているのにどこか未知を感じる女の子のことをもっと知りたい。そう思ってある他愛のない質問をした。
それがいけなかったのか、彼女は突然言葉に詰まり席を立ってしまった。何かしでかしたのか自問してみたがよく分からない。
化粧室から戻ってきた唯は青ざめた顔で周りをキョロキョロと見回していた。何かがあったのだろうか。
大丈夫かと聞くと、ゆっくりと首を縦に振るが、とても大丈夫そうには見えない。それで帰ろうかと聞くと、涙目になって頭を振った。仕方がないので、気持ち悪くなったら我慢せずに言うことを約束してもらった。
映画館に着いて指定された劇場の中に入ると席は半分ほど埋まっていた。公開して一週間ちょっと経ってこれなら、それなりに盛況と言えるのではないだろうか。
しかし正直自分は映画にあまり興味をそそられない。子供のころ数回父親に連れられた記憶があるだけで自分から見ようと思ったことはなかったような気がする。ましてやこんな年に何度も粗製乱造されるようなお涙頂戴の恋愛映画なんて一人なら絶対見なかった。
オレ達は最後列、中央の席に腰を下ろした。スクリーンからの距離は遠いが、画面全体がよく見える。
「もうすぐ始まるね」
「…あ、うん」
場内が暗くなりだして、予告が流れ出す。雰囲気に慣れていないみたいで、唯はそわそわと落ち着きがなかった。流れている映像よりもそっちの方が見ていて面白い。
「わ!音大きい…」
本編が始まった。若い女性が訥々と語りだす。重い病気を抱えていて、余命が僅かだそうだ。
映画の内容は頭の中に入らなかった。反応が気になって仕方がなかったから。
オレと違って彼女は体を前のめりにして、画面を食い入るように見つめていた。元気が戻ったみたいで少し安心する。
悲しい場面があると目を潤ませ、楽しい場面になると口許を綻ばせる。嫌味な登場人物が出てくると眉を怒らせる。
「…」
オレの知っている音羽唯はいつも笑っていた。雨が降ろうと、嵐が来ようと、雷が落ちようと表情は変えない。うっすらとした笑みを浮かべるだけ。美月は唯のそんなところを嫌っていた。
それに比べて今隣にいる彼女は本当に表情が豊かだ。まるで、そう、別人のように―
別人、その言葉を思い浮かべた途端、胸がざわついた。それと同時に記憶の底からある言葉が顔を出した。
『だって今の唯ちゃんと昔の唯ちゃんは違う人でしょ?』
誰かが、そんなことを口にしていたような気がする。アレは誰だったのだろう。
別人のようだとは思ったが彼女の身体的特徴はオレが知っている音羽唯のモノと一致している。変装にはとても見えないし彼女に双子の姉妹がいたという話も聞いたことがない。見せる仕草や表情に違いがあってもはっきり別人だと断言できるほどではなかった。
枝葉ではなくもっと根本の、決定的な相違点はなんなのだろうか。自分はそれを確かに知っていた筈なのだけれど、考えるにしてももう材料がなかった。なにか手がかりをつかむためにもう一度唯の体を見つめる。頭の上からつま先まで隅々と、決していやらしい意味ではない。
「あれ…」
観察してみて大きな違和感に気づいた。なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
彼女の口を押えている左手、白い手袋がつけられていることに。室内でしかも暖房が利いているというのに彼女は手袋を外していない。
ここだけじゃなく家や喫茶店でもそうだった。一体何が理由でこんなことをしているのだろう。
寒くないのに手袋をつける理由…一体何なのか…
雨粒が地面に落ちる音が館内に響く。山場なのだろうか。バシャバシャを水を蹴とばす音も聞こえる。しかし主役の名前すら記憶していないのだから関心は持てなかった。なにより今はもっと大切なことがある。
「なにかを隠すため…?」
そういえばオレ自身手首の傷を隠すために左の袖を普段より伸ばして服を着ている。行動には移さなかったが手袋をつけてみようかと思ったことすらあった。
「左…」
オレが彼女から隠そうとしていたのも左手。彼女が隠しているのも左手。これは偶然なのだろうか。
思い返してみるとこの傷がオレに異常を知らせ、自分の記憶が改ざんされていることに気づかせてくれた。それは偶然じゃなくて、元からこの傷は記憶を失ったオレへのメッセージだったんじゃないのか。
その時オレは何を考えていたのだろう。オレが自分自身に残したこの傷の意味はなんなのか?
彼女が手袋を外さないのは何か隠したいものが、傷があるから―
確かめるために右手をそっと彼女の左手に這わせたゆっくりと手袋を脱がした。映画に夢中だったので気づかれずに実行するのは容易かった。
「ああ…」
手首には包帯がぐるぐると巻いてある。その下には見ていられないぐらいに深くて痛々しい傷があることをオレは既に知っていた。
自分の手首に傷をつけたあの時、特に考えがあった訳ではなかった。痛みで眼が醒めればいい、それぐらいの気持ちだった。
結果的にそれが功を奏した。左手首、唯と同じ箇所の傷が記憶を呼び起こしてくれたのだ。
全部思い出した。八年前に音信不通になったこと。ずっと唯を探していたこと。二月前にようやく再会したこと。一昨日の動物園のこと、オレの膝の上で泣きじゃくっていたこと、全部。
「思い出したよ。唯」
こんなありきたりな恋愛映画でも劇場で見ると臨場感があるのだなと感心し、感動した。想像以上に夢中になっていたところに突然声がかけられた。
「思い出したよ。唯」
隣を向くとまっすぐな目が私を見つめていた。いつのまにか私の手袋は脱がされて、手と手が重なっていた。
思い出した、おもいだした、オモイダシタ?
何故、いつ、という疑問はある。けれど、もっとも強く浮かび上がったのは疑問じゃない。
絶望だ。終わってしまった。私が記憶を消して、捻じ曲げたことがバレた。もう二度と笑ってくれない。頭を撫でてくれない。助けてくれない。
「…あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「唯、落ち着いて!オレは怒ってない。本当だ、キミならわかるだろ」
怖い、怒った顔を見たくない。私を罵る言葉なんて聞きたくない。そんなの耐えられる筈がない。
初めて私を助けてくれた人なんだ。初めて私に優しくしてくれて、居場所をくれたんだ。そんな人に嫌われたらどうすればいいんだ。
「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ」
「唯…お願いだから話、を…!」
声が止まった。見上げると翼の顔は時間でも止められたみたいに硬直していた。その原因が私の力だということに遅れて気づく。彼が私の手に触れていたからだ。麻痺させようとは考えていなかったけれど、無意識に発動したみたいだ。
どうあれチャンスだ、動きが止まっているなら、もう一度記憶を消せばいい。今度こそ完璧に…やり直して
「…!?」
「……た、のむ…ほん…とうに」
彼が私に向かって手を伸ばしていた。ゆっくりとけれど確実に距離は縮まっていく。段々と身体の自由を取り戻しているみたいだ。
胸の中で肥大化した恐怖の種が爆ぜて、私は、また逃げた、階段を降りて、劇場から抜け出した。辺りがざわついていたが、気にしなかった、というよりそんな余裕はなかった。
「なんで効かないの!?」
他の人間で試したときは一度もこんなこと起きなかった。みんな私が命令したことに忠実に従ったし、忘れろと念じれば全部忘れたのに。なんで逆らえるんだ。
息を切らしながら外に飛び出す。どこに逃げようか辺りを見回して、すぐにその無意味さを悟った。寒くて、真っ暗で、見慣れない景色が広がっていて、知らない人しかいない。昨日と同じだ。行く場所なんてどこにもない。
それにもう逃げる意味なんてない。だって翼はもう私を嫌いになってしまったんだから。今更何をやっても無駄だ。
ただ見捨ててほしくなかっただけ、好きになってほしかっただけなのに、なんでこんなことになったんだろう。
答えは分かっている。いいや、本当は最初から分かっていた。何をやろうが私には無理だったというだけだ。彼の記憶を書き換えて、他人のふりをしようが私そのものは何も変わらない。今日じゃなくてもいつかボロが出ていただろう。
自分の欲求の為に人の頭の中を好き放題弄り、素顔の醜さを隠すために他人の仮面を被ろうとした。こんなことをする人間には相応しい結末だ。
「もう…どうでもいいや」
膝から力が抜けてその場に座り込んだ。アスファルトは冷えて、ざらざらとしている。最低の座り心地だ。地面にまで存在を否定されているようで笑ってしまう。
ひそひそ声が聞こえだす。無遠慮な視線も感じる。いつの間にか道行く人々が私をじろじろと見つめていた。人の数が多かった。何故だろうかとぼんやりと辺りを見渡すと派手にライトアップされたクリスマスツリーを見つけた。ああ、そういえば今日はクリスマスイブだっけ。
地べたに座る人間が珍しいのは分かるけれど、今ぐらいは放っておいてほしかった。
どうせ誰も助けてくれない、学校でいじめられてたときも、廊下で吐き戻した時も、いつもそうだ。なのに私を見て、ほくそ笑む。助けてくれないならせめて放っておいてくれればいいのに。
誰も表立って口にはしないが、人にとっての最大の娯楽は他人の醜態なのだ。少なくとも私を取り巻く人間たちは皆そうだった。
そんなことは昔から知っていて、とっくに受け入れている。けれど今はそれがどうしても許せなかった。
「ねえ、あの子なんでこんなところで座ってるの?」
「目立ちたがりなんだろ」
「あの目見ろよ、こっち睨んでるぞ」
「きもちわるーい」
皆私を見て笑っている。指をさして馬鹿にしてる。写真を撮りだした人までいた。
「なにが面白いの…?」
痛い、寂しい、悲しい、辛い、妬ましい、恨めしい、苦しい、憎い、怖い、黒い感情がどっと溢れてくる。それは波濤のように私の胸を内側から叩いて、外に飛び出した。
「…キライ。消えちゃえばいいのに」
動け動け動け動け動け動け。そう頭の中で百回ぐらい念じた頃だろうか、ようやく体の自由が利くようになった。汗で体中がべったりと濡れている。
「早く追いかけないと…」
唯に金縛りをかけられた後、どれくらい時間が経っただろう?大した時間ではないと信じたいが、体感的には一時間、いや、それよりも長く感じた。
けれど、正面に向き直ると、映画はさっき見た場面から大して話が進んでいなかった。これなら大丈夫そうだ。
小走りで館内から抜け出し、唯の姿を探す。遠いところに行ってしまったのではないかと危惧していたが、入り口の前にあるエレベーター、そこを降りた直ぐ先に唯はいた。地面にへたり込んでいる。いったいどうしたのだろう。
彼女の傍をただ通り過ぎる人もいれば、好奇の目で無遠慮に見つめているものもいた。見ていられない。
すぐに連れ出そうと近寄ったその時、
「…キライ。消えちゃえばいいのに」
小さい呟きが聞こえた。タイヤが擦れる音、人の話し声、統一感のない足音、日常にあふれる雑音に負けてしまいそうなか細い声だったのに、数メートル離れたこの場所からでもはっきり聞こえた。多分周りにいる他の人たちも全員聞こえていたと思う。そんな奇妙な確信があった。
突如悪寒に襲われる。胸が苦しくて全身の力が抜けていく。さっき味わったあの感覚だ。
「ま、たか…!」
どうしてだ。唯には触れられていないのに。そう疑問に思った直後異様な光景を目にした。
周りの人間全員が彫像のように固まっている。この現象は唯が引き起こしたものだ。なぜ、そしてどうやってこんなことをやっているのかは分からないが、止めさせなければ。
「ぐっ…!うぅ!ッッッ!! 」
奥歯が潰れそうになるほど食い縛って体に力を入れる。この程度どうってことない。海で溺れることに比べれば十倍マシだ。
「ぁぁあっ!!…やったっ!!」
金縛りはこれで三度目、さすがにもう慣れた。意識を強く保てば抵抗は出来る。
硬直が解けた瞬間、重心を前に傾けすぎたせいで危うく倒れそうになったが、そのまま勢いを生かして唯の元に駆け寄った。
「唯!今すぐ止めるんだ」
「………」
肩を揺すっても、彼女は何も答えない。人形のように力が抜けて、無感動に地面を見つめている。死んでいるんじゃないかと思ってしまうほどに瞳に生気がない。
固まっている人たちの数は、十、いや、二十数人といったところか。まさか一生このままなんてことは…
何かが擦れるような大きく高い音が聞こえてすぐに、ドン!と強い衝撃が体に響いた。車がガードレールにぶつかったようだ。オレたちの座っている場所から十歩歩けば届くほど近い。
立ち上がって運転手の安否を確かめる。生きてはいるようだが、ほかの大勢の人たちと同じで虚ろな表情をしていた。
この異常はどこまで広がっているのだろう。いつまで続くのだろう。少なくとも目に届く範囲にいる人間は例外なく固まっている。今の事故は犠牲者が出なかったが、もしもっと大きな車両、例えばトラックやタンクローリーみたいな大型車の運転手が気絶したりしたら…
考えるだけで冷や汗が出てくる。何人が犠牲になるか分かったものじゃない。
「早く止めてくれ…こんなことがしたいわけじゃないだろ!」
もう一度しゃがんで、唯の手を握った。目を覚ますように必死に念じる。
彼女は人を傷つけてしまうことが多い。意図してのことじゃない。取り乱すと周りが見えなくなる性格と彼女の持つ力がそういう結果を招いてしまう。
けれどそうした後はいつも苦しそうな顔をする。彼女自身が傷つけられた時以上に。部屋に閉じこもって泣いている彼女の声を何度も聞いた、赤く腫れた瞳を何度も目にした。
そんな思いはもうしてほしくなかった。難しいことだし、ただのエゴとは分かっているけど、出来るだけ笑ってほしい、辛い目には遭ってほしくない。
「…だから、起きてくれ」
抜け殻のようになった体を抱きしめて願いを口にした。
体がプカプカと漂っている。何も見えないし、何も聞こえない。深海や宇宙みたいに、真っ暗で静かだ。
こんな場所なのに少しも不安はなかった。いや、だからこそと言うべきか。
ここには何もない。私を傷つける奴らはいないし、私に無駄な希望も抱かせない。ただ安寧だけが満ちている。
ここがどこかは分からないし、帰り方も分からないけれど、それも問題じゃなかった。自分の意志でここに来たことだけは覚えていたからだ。
「…最初からこうすればよかった」
ここに来る前の自分はいつも他人に傷つけられて、いつも他人を傷つけていた。欲しいものを手に入れることなんて滅多になくて、その癖指がかかった時には決まって自分でダメにしてしまう。
なら何もないところで閉じこもっていた方がずっといい。他人も自分も誰も傷つかない。平和そのものだ。
体の力を抜いて流れに身を任せた。この空間に時折流れる波は、揺り籠のように私を心地よく揺らしてくれる。
目を閉じる。疲れた。
けれど、安寧は長く続かなかった。無音の空間になにかが落ちてきたのだ。一つや二つじゃない。数十個の重い物体がゴボゴボと泡を立てながら辺りに沈んでいる。
目を凝らして見るとそれは人間だった。服装も年齢もバラバラな集団。誰もが虚ろな目をしていて、沈んでいくことを気にもかけていないみたいだった。その異様さに落ち着いていた気持ちがまた波立つ。
さらに注意深く見ると彼らの体からは皆等しく黒い糸が伸びている。どこに延びているのかは目で追ううちにすぐ気づいた。
「…え?」
私だ。落ちてきた人達の身体に括り付けられている糸は私の身体に繋がっている。今まで気づいていなかったが私の身体は蜘蛛の巣に絡め取られたようにびっしりと黒い糸に覆われていた。
「なにこれ…?」
糸の存在を知覚した途端背筋に冷たいものが走った。頭の中にたくさんの声がこだまして割れそうになる。
『出して』、『体が動かない』、『助けて』そんな悲鳴ばかりだ。
うるさい。うるさい。こんなところにまで来るな。耳障りだ。私には関係ない。そんなことを口に出そうとした瞬間、直感が囁く。私の愚鈍さを笑うように。
ここに彼らを呼び寄せたのは私だ。今起きていることも全部私のせいなんだと。
「…もう!またなの…!?」
絡みつく糸を千切ろうとしてもびくともしない。それどころか段々と締め付けがキツくなっている、
更に体が加速度的に沈み始めた。きっと重石が増えたからだろう。ただでさえ無明に近かった景色が更に暗く重いものになっていく。呼吸が出来ない。まるで溺れているみたいだ。
どこまで落ちていくのか、この苦しみはいつまで続くのかそれを考えると恐怖が止まらない。必死に藻掻くが沈む速度は増す一方だった。
藻掻き続けても状況は全く好転しない。だから動くのを止めて沈むのに身を任せた。恐怖がなくなったわけじゃない。それ以上に諦念が上回ったのだ。
逃げ続けてもいいことなんてないって分かっていた。辛くても踏みとどまってやり直すしかないことを知っていた。それを無視し続けた果てにこの結果がある。自業自得。文句などつけようがない結末だ。
私の愚行に巻き込まれた人たちには申し訳ないが一緒に沈んでもらうより他ない。だっていくら引っ張っても取れないんだよ。この糸は。
そんな時真っ暗だった景色に明かりが差した。薄っすらと頼りない月明かりのような光。それが真上から降り注いでいる。
「もうやめてよ…」
なんで私をまだ助けようとするのだろう。迷惑をかけてばかりで何もできないのに。そうやって優しくするからまた期待してしまうんじゃないか。
目を閉じて、無視しようとした。それでも瞼を貫いて光は自分の存在を私に強く主張してくる。
誰かが、彼が私を呼んでいる。あんなに酷いことをしたのに、まだ私を助けようとしてくれている。
「───あ、あ、うっ、ううっ」
嬉しい。嬉しくて、情けなくて涙が止まらない。人を傷つける度に逃げ回って、閉じこもって、なのにいつも助けが来るまで待っている。今だってそんな自分を消すためにこんなことをしたのに、結局私は縋ることを止められない。
現実が私を待っている、怖くて思い通りにならない歪みまみれの現実が。でもやり直すためにはそこに行かなければならない。
もう一度罪を償うためにも私はやり直したい。今度こそ自分の間違いに向き合いたい。謝りたい。そのために手を伸ばした。
光に向かって手を伸ばすと、私の体はふわふわと上に向かって浮かんでいった。
「あ…」
目を覚ますと、誰かが私の手を握っていることに気が付いた。大きくて温かい。他の人と違って気持ち悪くない心。
「目が覚めたんだ。よかった…」
翼が心の底から安心したような声を出して、私の瞳を覗く。いつもと同じ真っすぐで優しい眼差し。その視線に対して顔を俯けることしかできなかった。
「…………」
戻ってきたはいいものの何も言葉が出てこなかった。何を言えばいいのだろうか。そうだ、謝るんだ。そのために帰ってきたんだから。
「…翼、私…」
突然何かが倒れる音を聞いた。それも一つだけじゃない。音は何十回も立て続けに鳴り響く。ドミノが連鎖的に倒れるときのあの感じによく似ていた。
音の方向を向くと、大勢の人が頭を抱えて倒れていた。私を携帯で撮っていた人も、指を指していた人も、ただ歩いていただけの人も皆。
「唯、まだ立っちゃ…」
手を振りほどいて立ち上がり、辺りを見回した。車が煙を上げてガードレールの傍で止まっているのが見えた。横断歩道を越えた先でも大勢の人が倒れているようだ。
あの黒い空間の中で私と一緒に沈んでいた人達、あれはやっぱり意味のない夢なんかじゃなくて現実とリンクした幻だった。私が呪いめいた言葉を吐き出した時に彼らも一緒にあの空間へ引き込まれたのだろう。
「…私がやったんだ…」
歩行者だけでなく自動車に乗っていた人達まで気絶していたとしたらとんでもない事故が起こっていてもおかしくない。今更ながら自分のしでかしたことの重大さに気づいて臓器が縮まるような感覚がした。
「…死人は出ていない。保証する」
嘘だということはすぐに分かった。彼だってすべてを把握してるわけじゃない。目の届かないところで誰かが亡くなっているかもしれないということを、内心気付いているのだろう。彼の心の揺らぎを感じる。
こんなことするつもりじゃなかった。いや、それは言い訳だ。消えてしまえ、と呪詛の言葉を口にしたくせに。こんなことするつもりじゃなかった?ならいったい何のつもりであんなことを言ったんだ。あの時私は間違いなくこの状況を望んでいただろう。
「………」
「帰ろう。唯」
差し出された手を私は呆然と見つめる。みっともない真似をしてでもやり直そうと思っていたのにもう挫折していた。消えてしまいたいくらいに自分でいるのが嫌だ。
「…帰れる、わけない」
翼は困ったような顔で笑って、口ごもる。私を説得する言葉を探しているようで、しばらく黙った後もう一度口を開いた。
「その、本当にオレは怒っていないんだ。オレの記憶は戻ったし、なんでこんなことをやったのかもよく分かるから。オレにしたことで気に病んでるなら、その必要はないよ」
「“気に病んでるなら”って、気にしないわけない…」
「そうだよね、ごめん…」
謝るべきなのは私なのに、なんでここまでお人好しなんだろう。腹が立つ。訳が分からなくてイライラする。
「…分からない、分かんないよ…なんで…私にここまでしてくれるの…?」
どうしてここまで親身になってくれるのか分からない。迷惑をかけてばかりで、ゴミみたいな性格をしている私になんで付き合ってくれるのか。
翼には何度も触れてきたけれどその理由が私には判然としなかった。思考や感情を読めると言っても、その時に考えていることなら別の話だが、それは曖昧模糊としたものではっきりと言語化できるようなものではない。だから彼が私に好意を向けてくれていることは分かってもそれ以上のことはよく分からない。
「ねえ、答えてよ…」
密度の濃い時間だった。唾を嚥下する喉の動き、微かに揺れる眼差し、強張る体。彼が起こす細かな動作全てに気づけてしまうほど強く見つめて答えを待つ。どんな答えを望んでいるのか自分でも分かっていないけれどただ聞きたかった。
「それは」
躊躇うように目を伏せてゆっくりと口火を切った。けれど割り込むように突如、ぞわりと刺すような冷気が周囲に広がった。嫌な汗がこめかみを伝ってくる。首を回して、その怖気の元を向くとあの黒い影が立っていた。
「…ハハ」
こんなときにまで幻覚が現れるなんて。もう私の頭はどうかしてしまったのかもしれない。乾いた笑みがつい零れた。
「…なんだ、あれ?」
翼の呆然とした低い声。視線は私と同じ方向にある。
「…翼も見えてるの?」
私だけにしか見えない幻だと思っていた。あの黒い怪物は一人でいる時しか現れなかったし、突然現れて突然消えるから。
倒れていた人達も皆、影のほうを向いている。怯えて腰を抜かしているか、それか立ち上がって後退りしているかの二種類だった。
影は私達の方を向いて、消えた。そして、目前に現れた。突然の息遣いが感じ取れるほどに距離が近いのに命の気配がこの怪物にはまるでなかった。
『………』
以前と違い何の感情もない瞳。品定めをするように、機械的に私をみつめているだけ。
翼は私の体に腕を回して、大きく後ろに下がった。こんな状況なら私ほど臆病でなくとも距離を置くのは当然の反応だ。しかし、
「え?」
怪物は私達に背中を向けた。その視線は人混みの中に移っている。そしていつの間にかその右手には黒く大きな凶器が握られていた
「何を持っているんだ、アイツ…?」
本体と同じく黒くぼやけているが私はそれがなんなのか分かった。いや知っていた。
「鋏…」
大きくて、分厚い、薄汚れた鉄の塊。街中で突然見た白昼夢の中でそれを手にしていたことを覚えている。あれを持って私は女の人の首を…
「…あ」
あの怪物が何をしようとしているのかをようやく理解して間抜けな声が漏れた。
黒い怪物はゆったりとした足取りで人混みに近づき、その中にいる一人を見下ろした。若い女の人だ。黒い髪の中に白いメッシュが入っている。
“え、私?”
声は届かなかったが、そう言っているように感じた。遠く離れているのに恐怖と困惑が自分のモノのように伝わってくる。
女の周囲の人間は散り散りになって駆けだした。けれど当の本人は腰が抜けてしまっていてその場から動くことすら出来ない。
夥しい量の黒い糸のようなものが怪物の体の中から湧き出る。それは爆発的な速度で広がり、無防備な女の体を捉えた。
糸は軽々と女を宙に吊るす。その光景はどこか絞首台にかけられた罪人のようにも見えた。
「や、いやぁ!たす…たすけ…ゆるしてぇ!」
腹の底から絞り出すような悲鳴。涙と鼻水に塗れた顔。足をじたばたとさせながら、必死に体の自由を取り戻そうとしている。
しかし群衆は誰一人として怪物と女に近づこうとはしない。巻き込まれたくないからか、今起きていることを現実として認識できていないのか、あるいはその両方か。
恥も外聞もかなぐり捨てた命乞いの叫びに対して怪物は声をあげて応じる。おかしくてたまらないとでも言っているような笑い声だった。眩暈すら感じさせる大きく耳障りな音が駆け巡って周囲の人間たちは皆耳を抑えて蹲ってしまった。
そんな中で私だけが目を閉じることも耳を塞ぐこともせず怪物を見つめ続けた。怖くなかったわけではない。何かがひっかかったからだ。アレは本当に―
「止めろ!」
ぼんやりとした思考を強い声が断ち切る。翼が立ち上がって走り出した。肉食獣のように素早く、軽さを感じさせる動きだ。瞬く間に距離を詰めていく。
それでも間に合わないという確信があった。翼が遅いからじゃない。距離が遠いからでもない。きっと私たちの目と鼻の先で、同じことが起きたとしても、隕石があれの頭上に降ってきて、その頭を砕いたとしても、女の人はきっと助からない。
あの影には強い意志があるからだ。なにがなんでも殺してやろうという、狂気じみた執念を怪物は持っている。
翼が影のもとまで文字通りあと一歩という距離まで近づいたとき、それは起きた。起こってしまった。
肉が裂ける水っぽい音、骨が断たれる破砕音、そして視界を埋め尽くす真っ赤な液体。
「あ」
首が落ちた。鋏で落とされたのだ。胴体から離れた首は地面をころころと転がった。絶望的な表情を顔に張り付けたまま。首の後を追うように胴体も地に落ちた。首を切られた直後ほどは出血の勢いは激しくないが、それでも多量の血液が切断面から流れ出て、道路を赤く染めている。
「………え?……え?…え?」
あまりにも現実味のないことで、頭はそれを否定しようと必死だったけれど、頬にはねた赤黒い血がそうさせてくれなかった。
転がった首と目が合った。生まれつき、視線だけでも何かしらの感情は読み取れる、けれどあの光が消えた目からは何も感じない。体が空っぽの抜け殻になること、それが死ぬっていうことなんだ。
なぜいきなりあんな怪物が現れたのか、唯の言葉の意味は何だったのか、どちらもまるで分からないが反射的に駆け出した。人が危ない目に遭っているのは確かだ。考えるのは助けた後でいい。
間に合う。怪物のすぐそばにまで近づいたとき、そう思った。アイツはこっちを見ていないし、鋏をもって両手が塞がっている。よしんば、オレを認識できていたとしても、突き飛ばすのはそう難しくないことだと油断した。
けれど誤算が一つだけあった。手が塞がっていれば抵抗できない、人間ならそうだろう。でも相手は怪物なんだ。そんな常識ぐらい無視できることを念頭に置いておくべきだった。
「っ!!?」
女性を吊り上げていた黒い糸の塊、その一部が鞭のようにしなって、蠅叩きのようにオレを突き飛ばす。体を宙に浮かされたが、なんとか受け身をとって着地することができた。だが、ロスタイムは致命的なまでに大きい。
「クッソ!」
顔を上げてもう一度近づこうとしたときにはもう手遅れだった。鮮血が巻き上がる。血の雨が降り注いで、目に入るすべてが赤く染まった。生温かい体液がわずかに付着したが外気に晒されてすぐに冷たくなった。一つの命が消えたことを言葉以上に雄弁に語っているような気がした。
出血の勢いが衰えたころにはもう怪物は消えてしまっていた。残ったのは無惨にも首を切り落とされた死体だけ。グロテスクなこと極まりない光景なのに吐き気はこみ上げてこなかった。首なしの死体は現実感がなさすぎたからかもしれない。ただ申し訳ないという気持ちはあった。
「ごめん…」
オレがもう少し速ければ、助かっていたかもしれないのに。謝って済むような問題ではないし、そもそもそんな資格がないことは分かっているが言わずにはいられなかった。
せめて目に焼き付けておこう。何が起こったかを忘れないために。曲がりなりにも死を見届けた人間として最低限のことはしておきたい。
死体を見つめる。首は切断されたが、頭髪は巻き込まれていなかった。首さえつなげれば棺に入った時、生きていたころと変わりない姿のまま送り出せる。遺族には何の慰めにもならないとは思うが。
もう少しの間感傷に浸っていたかったが状況はそれを許さない。悲鳴があちこちから聞こえて、すぐにそれが怒号に変わる。
群衆はパニックに陥っていた。誰も彼もが恐怖の表情を浮かべて、走っている。こんなものを見せられて平気でいられる方が異常だとは思うが、これじゃあまるで戦場か爆破テロの爆心地みたいだ。
大勢の人が互いを押しのけ合って、死体を中心に放射状に広がっていく。下手をすれば死人が出かねないぐらいの勢いだ。
振り向くと、唯は涙を流しながら無気力に膝をついている。自分の身を守ることも今の彼女にはできなさそうだ。
押し寄せる人の波に引きつぶされそうになった彼女をすんでのところで抱えて車道に出る。さっきの事故のおかげで歩道側の車線に車は走ってなかった。
無機質で甲高いサイレン音が街中に響き渡る。救急車、パトカーどちらかは分からないが、ここに近づいてきていることは分かった。
「離れないと…」
ここに留まっていたら面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。さっさと退散したいところなのだが、公共交通機関は使えない。駅には人がごった返していると思うし、バスもこんな状況じゃ客を入れないだろう。
気が付けばここの近くはオレたち以外誰もいなくなっていた。死体から遠ざかっていく人がほとんどなのだから、当然と言えば当然なのだが。
押し殺したような泣き声が聞こえる。腕の中で縮こまっている彼女のものだった。
「…唯」
泣いているのは悲しいのか怖いのか、多分その両方だろう。ついさっきまでは普通に歩いていた人が原型を失って、ただの肉塊に成り果てる瞬間は言葉では言い表せないほど衝撃的で、惨かったから。感受性がそれほど豊かではないオレですらわずかながら手が震えていた。
「…怖い、助けて」
か細く、震えている彼女の声に突き動かされて、駆け出した。路地裏に入り、屋上に飛び移る。場所によって建物の高さはまちまちだ。隣接している建物の間が深すぎたり、高さに差が開き過ぎたりしているとスムースに移動が出来ない。なので普段から跳びやすいルートを探し、頭に入れている。日常的に通うような場所は大体制覇した。ここから家までの道筋も覚えている。こんな道楽が役に立つ日が来るとは思わなかった。
「少しだけ目を瞑って我慢してくれ」
何も考えずただ走り続ける。高さと速度のせいで、風が痛い程ぶつかって、冷気が体に染みる。それがいつも以上に気になるのはさっきのことと無関係ではないだろう。
数分ほどでマンションの屋上にたどり着く。人目につくかもしれないから彼女を下ろそうと思ったが泣き声は未だに続いていた。まだ立てないみたいだ。仕方がないのでそのまま階段を降りて部屋に向かった。幸いなことにその間他の入居者とすれ違うことはなかった。
「ふぅ…」
家の中に入ってドアと鍵を閉めた。安全圏にたどり着いて気が緩んだせいか意識せずに深く息を吐き出してしまう。
外の騒ぎはここまでは広がっていないみたいで、辺りは静寂に包まれていた。居間の窓からは月明かりが優しく降り注いでいた。それに魅かれて窓辺に近寄る。
「もう着いたよ」
そう言っても、唯はオレの腕から離れようとしなかった。抱きかかえたままその場に座る。
「唯…」
「私…私…のせい、で、死ん、じゃ…った」
涙交じりの声で唯が訳の分からないことを口にする。よほど混乱しているのか、夢を見ているような虚ろな口調だった。
「どうしてそんな風に思うんだよ?」
「だ、って消えちゃえって、私が言った、から」
「そんなことで人が死ぬ訳ないだろ」
「で、も、でも!」
堰を切ったように唯が声を上げる。見上げる顔は涙に塗れていて、月光がそれをキラキラと輝かせていた。
場違いな感想だとは自分でも思うが綺麗だった。金糸のような髪が湿った肌に張り付いている様も、濡れて揺れ動く碧い瞳も、火照って桃色に上気した頬も、苦し気に息を吐く小さな口も、その全てが可憐で愛おしい。
「皆が急に倒れたのも、私が、やったから、だし!翼の記憶を消したのも、私、だもん!」
「だからって…」
「それなのに!なんで…私なん、かにいつまでも構うの!?悪いこと、ばかりしかしてないのに……訳わかんない!!」
「そんなの…」
決まっている。正直なところ少しばかり頭にきていた。テレパスだというのにこの子は察しが悪すぎる。劣等感のせいで周りが見えていないのか、そんなに万能な力じゃないのか詳しい理由は分からないし、どうでもいい。
彼女の左手を握った。氷のように冷たくなった手。離れないように、離さないように指を絡ませる。
「…好きだからに決まってる。前もそう言っただろ」
彼女はこれ以上ないくらい顔を真っ赤にさせて目を見開いた。しかしすぐさま頭を何度も激しく横に振る。
「そ、そんなの!どうせ、昔の私でしょ!」
「違う!“今”のキミが好きなんだ!表情がコロコロ変わるところも、少し世間知らずでドジなところも、背伸びしようとして失敗するところも全部!」
「…………そ、それ、全然褒め言葉になってない!」
「あれ、そ、そうかな?いや、そうかもしれないけれど!」
好きなところを並べてみたのだが、どうにも反応が悪い。言わない方がよかったかもしれない。
けど、一つだけ絶対に伝えたいことがあった。
「キミが笑っているだけで、オレも嬉しいと心の底から思うんだ。それだけじゃ、駄目かな?」
彼女を説得する言葉としては十分ではないかもしれない。それでも伝えたかった。
得があるから一緒にいてほしいとか、迷惑だから離れて欲しいとかそんな打算的なことじゃない。記憶があるとかないとか、そんなこともどうでもいい。
ただ単純に彼女の笑顔が好きだった。喜んで欲しい。悲しんで欲しくない。何をしていても彼女のことが気になって、どうしているのか考えてしまう。それぐらい夢中になっていた。
彼女は下唇を噛んで、なにかを必死に堪えようとしていた。けれどすぐ、堤防が決壊したみたいに、言葉と涙が溢れだす。
「あ、あ、うっ…うぅぅ!!ご、ごめんな、さい!ごめん、なさい!ごめんなさい!何度も伝えてくれてたのに、怖くて、信じ、られなかった」
繋いだ手はそのままで震える背中を抱きしめる。床も風も普段なら我慢できないほど冷たいはずなのに、今は少しも気にならない。
繋いだ手から柔らかい熱が伝わって体中が暖かくなる。物理的な熱だけじゃなくて、彼女の心の温度まで伝わってくるようだった。
「好き…好き…大好き」
耳元で何度もささやく彼女の頭をそっと撫でる。長い間遠回りをしてしまったけれど、ようやく想いを伝えることができた。
不意に彼女の声が途切れて体の力が抜ける。泣き疲れて眠ってしまったようだ。ものごころついたばかりの子供みたいでとても微笑ましい。
「おやすみ、唯」
その寝顔を見ているうちにオレまで眠たくなってきた。彼女の眠気まで移ったみたいだ。床で眠りたいぐらいだが、翌朝体がしんどくなるだろう。寝ぼけた頭でそう考えた。
彼女を抱えたまま自分の部屋に入り、そのままベッドの上に身を投げ出す。女の子と一緒に眠ってしまうのは少しまずいかな、と頭の端に浮かんだが、そんな些末事はすぐにかき消えてしまった。
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