第7話

 彼の頬を伝う涙を目にしたとき、私の心は大きく揺らいだ。

 だってあれは私のためだけのものだったから。私が知りもしない女のものじゃなく、今いるこの私だけのものだったから 

 でも、もうそんなことは二度と起きない。だって彼の中に再会してから二ヶ月間の私に関する記憶はもう消してしまったのだから。今はまだかすかに覚えているようだが、直に全て消えるはずだ。どんな記憶も時間は全て持ち去っていく。

「ごめんね。ご飯作るの任せっきりで」

「左手怪我してるんだろ?全然平気だから気にしないで」

 今の私ではまともに料理を作ることも出来ない。だから怪我をしているという『設定』

 にした。実際に手首を自分で抉ったんだから嘘ではない。

 ずっとこのままではいけないから、練習をもっとしないと。音羽唯は料理が上手な女の子なんだから。出来ないなら偽物になってしまう。

「…………」

「どうしたの、唯?」

「っ!ううん。なんでもないよ!」

 震えていた手を隠して明るい声を出した。

 お昼に彼が作ってくれたのはうどんだった。とろみがあって柔らかな味付けがしてある。丸一日なにもものをいれていない胃を驚かせないようにわざわざこれを選んでくれたのだ。さっき彼に触れた時に読み取れた。

 ここまで尽くしてくれた彼にこんなことをするのは裏切りとしか言い様がない。彼の本当に大切な人になりすましているのだ。もしバレるようなことがあればきっと許されないだろう。そんなことは有り得ないが。

「あ、唯。知り合いから映画のチケット貰ったんだ。よかったら、その、見に行かない?」

 平静を装っているつもりなのだろうが、目が泳いでいたし言葉も途切れ途切れになっている。いつも落ち着いている彼らしくない仕草だった。

 そんな珍しい姿を見せてくれるのもきっと昔の私を演じているからだろう。私なんかに彼が照れる道理はない。

 話を聞いてみた所どうやら恋愛映画のようだ。テレビやネットでも広告が流れていた。思えば私は映画館というものに行ったことがない。この手の話を見たことも。少し興味があった。

 それに明日はクリスマスイブだ。恋人ならデートするのが普通だろう。断る理由はなかった。

「………うん。ありがとう」

 今度こそは彼を嫌な思いにさせちゃいけない。ちゃんと、しっかり、完璧に振舞わないと。

 頬をかくような仕草をしている最中、彼が突然怪訝そうな顔をして手の動きを止めた

「あれ、でもどうして映画の半券なんて貰うことになったんだ?アイツとそんなに仲良かったかな?」

 なにかまずい。反射で手に力がこもった。

「…そういえばなにか大事なことを話したような…?」

「翼」

 近づいて彼の頬に触れる。心を探ると茶髪の少年が笑っている姿がぼやけて見えた。どうやらこの人物は私の事情を翼から聞いているらしい。記憶が中途半端に残っているのはそのためか。

 私が翼から消したのは昨日起こった全てと二ヶ月前に再会してからの”記憶を失くした音羽唯”との記憶。だから私以外の人間と私の話をしていたのなら覚えていても不思議ではない。

 今の内に修正しておこう。記憶が戻ることはないと思うが可能性の芽は潰しておかなければ。

「これはアナタが買ったものでしょ?」

「いや、これは…」

「違うよ。前から約束してたよね。クリスマスイブは一緒にデートしようって。だから映画のチケットを取ってくれた。そうだよね?」

「…そうだったかな?そうだった…ような気が」

 私が今話した内容を頭に刷り込ませた。代わりの話を埋め込んでおけば記憶の齟齬も起きない。

 いずれ少年の記憶も消しておかなければいけない。美月のもだ。私のことを知っている人間は全員例外なく。

 手を離して翼に微笑む。鏡で何度も練習したからきっと自然に見えるはずだ。

「映画、楽しみだね。翼」

「ああ、うん…」

 翼は少し疲れたような表情を見せた。記憶を弄られるのは負荷がかかるのだろうか。私自身この力を試したことがあまりないから詳しいことはよく分からない。誰か罪悪感を抱かないで済むような、都合のいい人間がいないものだろうか。

 人の記憶を弄ぶなんて悪いことだとは分かっている。けれど、これは全部翼のためなのだ。

 幼馴染みと何年も離ればなれになって、やっと再会しても自分のことを覚えていない。おまけに暗くて、自傷癖があって、何から何まで気を遣わないといけないような人間に変わってる、なんて冗談にも程がある。

 そんな現実なら、嘘の方がまだマシだと、翼だって思うはずだ。

 「疲れているのかな?早く休んだ方がいいよ。洗い物は私がやっておくから、ね?」

 「…うん。ありがとう」

 部屋の中に翼が入っていくのを見送って、ようやく作り笑いを引っ込めることが出来た。弾みに大きく息を吐いてしまう。

 洗面所の大きな鏡と向かい合う。そこには相変わらず陰気でくたびれた顔が映っていた。

 こんな辛気くさい顔を恥ずかしげも無く見せていたという事実が腹立たしくて仕方が無い。

「…嫌い」


 『おめかしするから待っていて』

 という可愛らしい頼みを受けて、唯を待つことにした。なんでもとっておきの服があるそうで、ギリギリまで隠しておきたいらしい。

 今オレは待ち合わせ場所としてこの辺りでは有名な金時計の下にいる。同じ家に住んでいるのにわざわざこんなことをするのは雰囲気を出すためだろうか。

 本当ならどんな服で来るか、それを気にするべきなのにオレの頭は全く別のことを考えていた。

 「これ、なんなんだ?」

 左の袖を捲ると包帯が巻いてある。傷は大方治ったが、まだ多少痛んでいた。

 昨日からずっと気になっていた。何故自分でこんなことをしたのか。なにか猛烈に嫌なことでもあって、衝動的にとかだろうか。

 「…そんなことがあるなら覚えてるだろ」

 嫌なことだから忘れた?いや、人の頭というのはそう上手く出来てはいない。忘れようとすればするほど、その手の記憶はこびりつくものなのだ。

 本当に不可解だ。何度考えても動機が思い出せない。余程のことがなければ自分で手首を抉るなんてしないはずなのに。

 唯に相談すべきだろうか。彼女の心を読み取る力があればなにか原因が分かるかもしれない。

 しかし、自分でも分からないが教えてはいけないという警鐘が頭の中で鳴り響いている。

 どうして彼女を警戒しているのだろうか。ずっと好きだった女の子の筈なのに。

 「翼、待たせちゃってごめんね」

 息を切らした甘い声が人ごみの中から聞こえてくる。顔を上げると待ち人がようやく姿を現していた。

 思わず息を呑む。仕立てのよいコートにスカート、それに頭に載せているベレー帽、白を中心にまとめられ衣装。大人びたコートと幼さを感じさせる帽子が組み合わさって、成熟した女性の色気と無邪気な子供らしさを両立させていた。

 素の彼女も好きだが着飾った彼女も新鮮で可愛らしい。素がいいのだということを改めて思い知らされた。

 「…本当に綺麗だ」

 気がついたら自然と口から零れでていた。しまったと思ったが後の祭り。唯には聞こえてしまっていたみたいで驚きに目を見開かせている。

 「ふぇ!?あ、ありがとう」

 素っ頓狂な声を上げて照れる彼女を見て、自分がやらかしたことに気づいた。思わず目を逸らしてしまう。こんな馬鹿正直に臆面もなく口にするなんて我ながらどうかしている。穴があったら入りたい。

 「い、いや、それにしてもそんなの持ってるなんて知らなかったな。いつ買ったの?」

 なんとかして誤魔化そうと照れ隠しで放った質問は何故か彼女の顔を曇らせた。そして、少し悩むようなそぶりを見せてから口を開く。

 「美月が…買ってくれたの、翼が好きそうな服を教えてあげるって」

 二度と会えない誰かを想うような、寂しそうな声だった。背を向けてどこか遠くに視線を遣っている。

「…え?」

 小さく漏らした驚きの声は唯には聞こえていなかったらしい。彼女はオレの方に振り向かなかった。

 美月が唯に服を…?そのことが妙に引っかかった。昔から美月は口もロクに利かないくらいに唯を嫌っていたのに。引っ越すときも挨拶をしなかった。

 それにあの呼び方。唯は一度として「美月」などと呼び捨てにはしなかった。「お姉さん」、「美月さん」そういった慇懃な呼び方をしていた。ましてやあんな風に強く感情を込めることなど。そんな仲ではなかったはずだ。

 あの時別れてから二人の仲が縮まったのか?しかしそんな話を二人から聞いた覚えが…

「…あれ?」

 その時ようやく気付いた。八年前のあの日から今に至るまでの記憶がほとんどない。

 手首の傷を見た時にオレは疑問に思った。自分の手首を素手で抉るなんてことをしたからには相当嫌なことがあったはずだ、何故忘れているのだろうと。

 忘れているのはそれだけじゃない。いいこともなんでもないことも、何もかも思い出せなくなっている。母親の実家に引っ越したはずのオレが何故ここにいるのか、今いる学校を選んだのか、ソレすらも思い出せない。

 ここ最近の記憶も朧気だ。無趣味で空虚な生き方をしていることは自覚しているが、それにしたって二日前、三日前、直近の記憶すらない。いくらなんでも有り得ないだろう。

 これだけ不思議に思うべきことがあったのに、今の今までそれを疑うという発想が起きなかった。まるで催眠術かなにかみたいじゃないか。

「…」

 心を読める唯なら触れた時当然オレの異常に気づいたはずだ。しかしそのことをおくびにも出さなかった。知っていて言わなかったのだ。それどころか疑問に思わないように誘導していた素振りすらあった。

 加えて、人の記憶を書き換えることが出来る人間なんてどこを探しても他にはいないだろう。信じたくはないが彼女がやったとしか考えられない。

 記憶は人生そのものだ。自分を形作る最たるものといってもいい。それを勝手に弄繰り回すなんて。

 オレの記憶はどこまでが本物なんだろう。ひょっとしたらオレには姉なんかいなくて、唯と言う少女に恋したことも全て作り話だったのかもしれない。“黒羽翼”なんていう名前すら今では確かなものと思えなくなっていた。

 眩暈がする。地面がひっくり返って空に落ちてしまいそうな、自分という存在がバラバラになって消えてしまいそうな、嫌な錯覚が体を襲った。

 聞かなければ。なぜこんなことをやったのかを。そして元に戻させないと。

 不安と強迫観念に駆られて彼女に向かって歩を進めた。足音に彼女が振り返る。なにをするためなのか自分でも理解していないまま手を伸ばす。

 そもそもの話、こんなことをする人間が、目の前にいる女が、本当にあの音羽唯なのだろうか。彼女を騙った別人なのではないか。なら本物は何処に…

 「…ど、どうしたの?」

 少女はどこか怖がっているような表情でオレを見上げていた。自分が機嫌を損ねてしまったのか不安でしょうがないといった風に。少しの刺激を与えるだけでこぼれてしまいそうなほど目に涙が溜まっている。

 「あ…」

 廊下で目覚めた時に垣間見たあの光景が頭を過った。見捨てられるのが怖いと言って、泣いていた誰か。それを見て何を思ったのか、助けたかったんじゃないのか、ならオレは―

 伸ばした右手で気がついたときには頭を撫でていた。一秒でも早く安心してほしくて。

 「…なんでもない、なんでもないんだ」

 どうかしていた。理由はどうあれ唯に、いや、こんな小さな女の子に手を上げようとするなんて。

 「…つ、翼。やめてよ…こんなところで…ヘヘ…エヘヘ」

 手を動かすたびに彼女は身を捩じらせる。恥ずかしそうに、けれど何倍も嬉しそうに。同い年のはずなのにひと回り幼く見えた。

 彼女がオレになにか嘘をついていることは確かだ。オレの記憶を弄ったのも。だけど、それにもきっと何かやむを得ない事情があったのだろう。この子に敵意や悪意があるようにはどうしても見えなかった。

 もしそうだったとしても、こんなに嬉しそうに笑ってくれるなら記憶ぐらい好きにしてもらってもいい。そんな風にさえ思った。

 

 駅から出て映画館に向かう途中、喫茶店に寄った。余裕を持って家を出たおかげで一時間近く、時間が余ってしまったからだ。

 喫茶店というものにはほとんど足を運んだことがないから、とても新鮮だ。照明が暗くて、席の間に仕切りがついているから落ち着いて本が読めそうな気がする。

 「ウフフ…エヘヘヘ」

 頬っぺたがポカポカと暖かい。頭を撫ででもらった。これもきっと私が本物を演じているおかげだろう。やっぱり私の判断は間違っていなかった。

 でも、私を撫でる直前にすごく怖い顔をしていた、あれはなんだったのだろう。それだけが少し気がかりだった。

 「お待たせしました」

 まだ成人していない、大学生ぐらいの女性が注文したものを持ってきてくれた。喫茶店でアルバイト、私には難しいだろう。人見知りだし、笑顔は得意じゃないし。別に憧れてはいない。そんなことはない

「…………………………」

 私はブラックコーヒーを、翼はカフェオレを頼んだのだが、カップに注がれている真っ黒な液体を見て激しく後悔した。

 黒い。もの凄く黒い。人間が飲むようなものじゃないように見える。何を頼めばいいか分からなくて、反射的に「ブラックで」なんて言ってしまったのがダメだった。

 「…苦いの苦手ならオレのと替えよっか?」

 「だ、大丈夫だよ。私、大人だし、苦いのとか辛いのとか大得意だから」

 「大人が言う台詞じゃないと思うけどな…」

 「…うっさい」

 意を決して口に含む。危うく落としてしまいそうになるほどマグカップが熱くなっていた。

「………」 

「どう?」

「~~~~~!!」

  苦い。酸っぱい。吐き出しそうだ。こんなのをありがたがって飲んでいる人間がいるなんて信じられない。

 「苦いのは得意じゃなかったの?」

 「…あ、熱くてビックリしただけだから」

 からかわれてしまった。恥ずかしい。やっぱりジュースかなにかにしておけばよかった。このペースじゃあ一時間かかっても飲めそうにない。

 「砂糖入れればいいんじゃない?」

 「あ、そうだった」

 会話に一区切りがついてから、お互い黙って飲み始めた。砂糖が入ったのと、時間が経ってほどよく冷めたおかげか段々と美味しいような気がしてきた。たまに彼の顔を盗み見ると目が合って、なんだか照れてしまう。

 「ところでさ、唯は映画とか見るの?」

「え?」

「なんとなく気になってさ、今から見に行くんだし」

「…見るには見るかな…」

 本を読んでいることの方が多いが、読んでいた本が映像化されていたりすると、私の思い描いていたものと映像がどう違うのかが気になって見てみることもある。後は有名どころのを少しかじった程度だ。

「どんなのが好き?」

「私は…」

 口を開こうとしたとき、気づいた。今自分は八年前の自分になりすましているのだということに。

 どう答えるのが自然なのだろう。人付き合いが上手くて、皆に好かれる少女はどんな映画が好きなのだろうか。自分には想像もつかなかった。

 「…えっと、待ってね」

 声が震えるのを感じる。黙っていたら変だと思われてしまうのに言葉が出てこない。思いつきはしたのだ。『ジャンルは何でもいいけど、悲しい終わり方をするのは嫌だ』、『あまり難しくない、単純なストーリーがいい』、そんな科白がパッと思い浮かんだ。けれど、そのどれもが嘘臭くて口にすることができない。

「どうしたの唯?平気?」

 まただ。また気遣われている。三日前と同じだ。私が勝手に取り乱して、翼に迷惑をかける。そういうことが嫌だから翼の記憶を消して、他人になりすますなんて真似をしたのに。

「…ごめんなさい。ちょっとお手洗い行ってくるね。すぐ、戻ってくるから」

 席を立って逃げるようにテーブルから飛び出したときに声をかけられた。

「急がなくていいよ。ちゃんと待ってるから」

「…うん」

 彼の視線から目を逸らして、化粧室に入った。不幸中の幸いというべきか、中には誰もいない。

 鏡には青ざめた顔をして怯えているちっぽけな小娘の顔が映っている。明るい表情でい続けなければいけないのに、引きつったような笑みしか出来ない。魔法が解けてしまった童話のヒロインみたいだ。見ていられなくて視線を白いシンクの中に移した。

 あんな風な受け答えは『音羽唯』として不自然極まりない。私は完全に昔の私に戻らないといけないのに。これじゃあなにも変わらない。

「…やり直さないと…」

 もう一度翼の記憶を消してしまおうか。数年前の記憶を消すのは辻褄を合わせるのが面倒だ。けれどついさっき起きた出来事ならなかったことにしても大したことにはならない。

 でも、それは…

『どうしたの唯?平気?』

『急がなくていいよ。待ってるから』

 彼がかけてくれた厚意まで全部なかったことにしてしまうということだ。あの温かい声も気遣いも消えてなくなってしまう。それは嫌だった。

「…」

 でもその感傷はあまりにも遅い。既に八年以上の記憶を彼から奪ってしまっているのだ。今更躊躇うなんて…

 本当にこんなことをする必要があったのか。翼は今の私にも一杯優しくしてくれた。さっきだってそうだ。記憶を消すときも最後の瞬間まで私のことを想ってくれていた。

 もしかして私はただの思い込みで取り返しのつかないことを…

「違う違う違う、私は間違ってなんかない。迷惑をかけてばかりいたら翼が不幸になるから…」

 昨日出した結論を口にする。あの時は確信を持って正しいと思えていたのに、今となってはどうしようもないくらいに薄っぺらい詭弁に聞こえる。

 けれど記憶の戻し方なんて分からない。消すことは何度もしてきたけれど戻すことは一度たりとも試していない。そもそも戻せたとしても今度こそ愛想を尽かされてしまう。

「どうしよう…」

 そう呟いたとき不意に視線を感じた。慌てて辺りを窺う。

「…?」

 けれどこの場に他の人間など誰もいなかった。個室の鍵は全部開いていたし誰かが入ってきたのなら気づいただろうし。

 不安のあまり神経質になっているのだろう。そう結論付けて鏡に向き直ったときにそれの存在に気が付いた。

「………ッ!?」

 うっすらとぼやけた輪郭をしたあの黒い人影が私の後ろに立っている。瞳ははっきりと見えないがこちらを見つめていることはなんとなく分かる。

 最初は気の疲れから見えた一度きりの幻覚だと思っていたのに、とうとう二度目だ。二日前のあの幻覚といい、自分は気が狂ってしまったのだろうか。

 黒い人影は一歩ずつ私に歩み寄り始めた。ゆっくりと私の恐怖心を煽るように。

「これは幻覚これは幻覚これは幻覚」

 祈るように何度も同じ言葉を繰り返しても黒い影は消えてはくれない。あっという間に身体同士が触れあう程近くまで来ていた。

 黒いなにかは両手を伸ばした。その手は予想に反して、細く滑らかで綺麗な指をしている。

「ひ…」

 絞め殺される、そう直感して悲鳴が漏れた。これから訪れるであろう苦痛を予期して反射的に目を閉じる。こんな状況を直視し続けられるわけがない。

「~~~!………?」

 いつまで経っても痛みは生じなかった。換気扇の音だけしか聞こえない。

 意を決して目を開けると、そこには予想だにしない光景が待っていた。

 影は私をただ抱きしめていた。子供を慰める母親のように、強いけれど優しさを感じる不思議な力加減で。

 眠たくなるような優しい指遣い。どこかで感じたことのあるような気が…

 困惑しながら振り返るともうそこには影はいなかった。鏡に目を向け直しても私しか映っていない。

 どんな感情を抱けばいいのか見当もつかなくて、しばらくその場に立ち尽くしていた。

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