第6話

 終業式の後、担任が軽く挨拶をして二学期は終わりを迎えた。担任は『あまり羽目を外しすぎるな』、『課題は計画的に』、そんな毒にも薬にもならないようなありきたりの言葉を言っていたと思う。よく聞いていなかったから細かい部分は覚えていない。

 美月を送ったあの後も更に更に何十分も走り回ってようやく唯を見つけた。すぐさま気を失った彼女を家に連れ戻したが、それで全部コトが丸く収まったわけではなかった。彼女は意識を取り戻すなりすぐに部屋の中にひきこもってしまった。丸一日経ったのに一歩も外に出てこない。それどころか食事すら取っていなかった。オレがいるから食べづらいのかと思って何度か外に出たが、卓に置いておいた食事は一口も手をつけられていなかった。

『美月もオレも怒っていない』、『なにもしないから出てきてほしい』、そう何度も扉越しに伝えたが『ごめんなさい』と喉が枯れるまで謝り続けるだけで、いつまでたっても出てきてはくれなかった。

「…………」

 どうすればいいのだろう。無理やりにでも部屋に入るべきだろうか。でもそれはしてはいけない気がする。無理に距離を縮めようとしてもいい結果は…これはただの言い訳なのか、もうなにがなんだか分からない。

 「やあ、やあ。ご機嫌いかがかな。翼クン」

 朗々とした声が背後から聞こえた。そのおどけた口調があまりにも今の気分にそぐわなくて、つい神経が逆立ってしまう。

 「その一言で最悪になったよ」

 うんざりしながら振り向く。細長い手足、男にしては高い声、芝居がかった仕草、馬の体毛を想起させるような栗毛、何より特徴的なのは張り付いたような笑顔。宮代明は、同性から見ても秀でた容姿を持っていたが、見るものにどこか作り物めいた印象を与える少年だった。

 「ボクが話しかける前から機嫌は悪かったでしょ?」

 「察しがいいな。なら分かり切ったことを一々聞くなよ」

 「あはは。そんな風にばかり話してたら友達いなくなるよ」

 指摘されてようやく自分の言い放った言葉の乱暴さに驚く。八つ当たりにも限度と言うものがあるだろうに。

 「……ごめん」

 「そんなことよりさ。今朝のニュース見たかい?」

 「…いや、今日テレビ見てない」

 酷く落ち込んでいる唯のことが心配で、他所の事情なんかに気を回している余裕はなかった。あの調子だと持ち直すのに一周間では足りないだろう。

 「…ツバサ、いまどき情報源がテレビだけなんて。現代社会のスピードについていけている?」

 「うるさいよ。で、そのニュースってのは何なんだ?」

 「裏路地でね。殺人があったんだよ。死体が見つかったのは昨日のうちだったみたい」

 殺人。それはまた物騒な話だ。しかしそれだけならよくあることで終わりそうなものだが。

 「首を切られたんだ。この近くでね」

 正確な場所を聞くと、驚かされた。昨日オレたちが遊んでいたと動物園からそう遠くない。

 「これだけなら、どこぞの狂人が人を殺したってだけで済むんだけど」

「まだあるのか?」

 「その人はね。見えないなにかに殺されたらしいんだ」

 「…見えないってのはどういう」

 「目撃者がいたんだよ。その人が独りでに、見えないなにかに引きずられるみたいにその路地に入るのを」

 よほどの仕掛けを用意しなければ無理だろう。いや、手間と証拠を増やすだけだ。そもそもそんなことをするメリットはない。

 「…へえ、なにかの見間違いじゃないのか?幽霊の正体見たりとかそんな諺もあるだろ」

 「ロマンがないなあ。超常現象は本当にある、って考えた方が面白いじゃない?」

 「本当はないから超常現象って呼ばれるんだろ。実際に起こってたらそれはもう超常でもなんでもないただの現象だよ」

 「確かにそうかもねえ」

 昨日はロクに寝ていないし、疲れが溜まっている。雑談をする気力ももう残っていなかった。さっさと帰ったほうがいい。

「悪い、少し疲れてるんだ。また今度」

「まあ、待ちなって。グロッキーな翼君にはサンタさんから早めのクリスマスプレゼントをあげよう」

 こちらのペースなんてお構いなしだ。この傍若無人ぶりはある意味才能といえるだろう。

 両手には一枚ずつ映画館のチケットが握られていた。流行りものの恋愛映画みたいだ。

「キミ映画見に行かない?」

「…お前となんてやだぞ」

「ボクとじゃないよ。クリスマスイブに男二人で恋愛映画なんて怖すぎるでしょ」

「じゃあなんで二枚あるんだよ?」

「付き合っていた女の子がさ。すごいおっちょこちょいで、そこが可愛いんだけど。まあとにかくその子と「イヴの日は一緒に行こう」って約束したんだよ」

 砂糖漬けした果物みたいに甘ったるい惚気話を聞かされるのはなんというか、癪に障る。言ってて恥ずかしくないんだろうか?

 そこでふと話のおかしな点に気づく。約束があるのならなぜ手放すのか。

「だったらなんでオレに渡すんだよ。一緒に行けばいいじゃないか」

「もう別れた、振られたんだよ。残念ながら、悲しいことに」

「それは、災難だったな」

 いけ好かないやつだとは思うが流石に同情してしまう。白々しい口調でなければの話だが。

「まあ、仕方がないよ。本当にいい子だったからね。ボクじゃあ最初から釣り合わなかった」

 相変わらずよく分からないことを口にする。真面目に取り合うのは無駄だろう。

「で、結局いる?」

 差し出された二枚のチケット。借りを作るのはいい気分がしないが、唯と一緒に見に行くのもいいかもしれない。断られる可能性の方が高いが、どうせ余り物だ。明には悪いが使わないという手もある。

「…もらっとく。ありがとな」

 軽く感謝してから背を向けた。いつまでも教室で立ち話をしているわけにもいかない。ほかのクラスメイトはすっかりいなくなってもうオレたちしか残っていなかった。

「ねえ、唯って子とは上手くいっている?」

 後ろから呼びかけられた。オレは以前コイツに唯との関係について何度か相談したことがある。昨日までは美月にも唯と再会したことは話さなかったのに、コイツだけには話していた。なんだかんだいって信用できる奴だからだと思う。それに口も軽くないし。

「…わからない」

 振り向いて答える。オレ自身は唯のことが好きだ。昔のことを覚えていなかったとしても、その気持ちは変わらない。

 だから一緒に暮らしている中で昨日みたいに彼女が突然取り乱して泣き出したり、寝込んだり、そういうことがあってもそれを迷惑だと思うこともない。

 心配なのは二人で暮らしていても唯のためにならないのではないかということだ。オレは心理カウンセラーではないし、ましてや親でもない。彼女と同じただの子供だ。本当に彼女のためを思うならもっとほかの方法があるんじゃないかと不安になる。端的に言うと自分では手に負えないような気がしてならない。

 「…オレが一緒にいても何も変わらないんじゃないかって、むしろ苦しめてるだけなんじゃないかって、そうとしか思えないときがあるんだ」

 「…喧嘩でもしたの?」

 「まあ、そうかな」

 昨日の一件は喧嘩とは少し違うかもしれないが、事情を説明するには少し骨が折れる。

 独り言のように小さく呟いたオレに、明はいつになく真剣な表情を見せた。

 「初めて会った時から何も変わっていない?笑顔を見せる回数が増えたり、よく喋るようになったり」

 随分食い気味だったので、少々面食らった。何故そこまでオレと唯のことが気になるのだろう。

 「…それは、あるけど。時間が経ったからだろ。一か月も経てば…」

 「そうは思わないな。何か月経とうが独りぼっちじゃ心の傷は治らないよ」

 「…何が言いたいんだ?」

 「自信を持って、ってこと。キミが思っているよりキミはその子のためになってるよ」

 「…なんでそんなことが分かるんだよ?」

 苛ついた。何の根拠もない慰めの言葉なんて癇に障るだけだ。

 唯に一度も会ったことがない癖に知った風な口を利くなよ。そんな言葉すら出かかっていた。

 内で生じた怒りは相手にも伝わっていたと思う。けれどコイツはいつも通りのにこやかな表情を変えることはなかった。

 「キミ優しいから。一緒にいれたらいいだろうなって」

 「…は?」

  ものの見事に毒気を抜かれてしまった。こいつはなぜこういう科白を臆面なく言えるんだろうか。

「……訳分からん、気持ち悪い、そもそもお前に優しくした覚えなんてない」

「覚えてないだけかも」

「ないったらない!」

「あはは。じゃあ、そういうことにしとこう。イブのデート上手くいくことを祈ってるよ」

 小馬鹿にしたような笑い声をあげてそのまま教室から飛び出していった。本当におかしなやつだ。

「…まったく」

 けど、少しだけ、ほんの少しだけ気力が戻ったような気がする。

「よし…」

 帰ったら怖がらず、普段通りに唯と接そう。すぐに元に戻るわけじゃないだろうけれど、それでもやらなければいけない。

 教室から外に出る。オレが最後だったから鍵をかけて職員室に返さないといけなかった。

「…唯、お腹空いてるよな」

 早く帰ろう。自分が待たれているかどうか、必要かどうかも自信はもてない。けれど、今はアイツの言葉を信じてみることにした。

 軽めなもの、消化にいいものを作ろうか。鍋焼きうどんとかどうだろう。季節にもあってるし。

「…よし、そうしよう」

 外に出ると、薄い雲と澄んだ青空という冬らしい景色が待っていた。それだけでなんとかなりそうな気がしてきた。


「私のせい私のせい私のせい私のせい私のせい」

 左手首の傷口に指を突っ込んで肉を抉り出す。痛みなんて気にもならなかった。むしろそれが望みだった。

 治りかけの患部が広がって血液が溢れ出す。血が床にこぼれ落ちて、小さな水たまりが出来る。

 美月には謝ることすら出来なかった。東京に帰ってしまったから。それだけならまだよかった。最悪なことに、私はそれを聞いたときほっとしてしまったのだ。顔を合わせなくて済んだって。

「~~~っ!」

 呪詛の言葉を吐きながら頭を抱える。これからどうなるんだろう。美月にはきっと二度と口を利いてもらえない。翼にだってもう愛想を尽かされてしまうかもしれない。

「いやだいやだ」

 自分はろくな人間じゃない。何の取り柄もないし、不登校で、まともな人付き合いもない、それに度を超えた臆病者だ。今まで一度も人の役に立ったことがない。要らない人間だ。彼にまで見捨てられたら本当に居場所がなくなってしまう。

 時刻は十二時を指していた。今日は終業式だからもうそろそろ帰ってきてしまう。

「…どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう」

 帰ってきたらなんて言われるんだろう。出て行って欲しいって言われるのかな、キライって言われるのかな、もう優しくしてくれないのかな。

 なにも食べていないせいか視界がグニャグニャと歪んでいるし頭が痛い。胃の中は空っぽなのに吐き出してしまいそうだ。

 みっともなく涙を流して喚いても時計の針は止まってくれない。だというのにどう申し開きをすればいいか何も思いつかなかった。

 結局のところこんな私だから全部ダメになっちゃうんだ。今の私じゃなくて昔の“音羽唯”ならこんなことにはきっとならなかった。

 記憶、記憶さえ失わなければ何も問題はなかったのに。小さな頃からずっと翼がいて、昨日みたいなことも起きなかったはずなのに。彼からもらったあのウォークマンだってもっと大事にしていた、きっと壊されたりしなかった。

 でも、そんなもしもは無意味だ。過去は変えようがないのだから。どんな人間にだって…

「…違う、私なら、変えられる」

 一つだけ、他のどんな人間にも出来なくて、私には出来ることを思い出した。とても単純で絶対的な解決法。

「…記憶を消しちゃえばいいんだ」


「…」

 自宅の玄関前で目を瞑って心を落ち着かせる。学校を出たときから覚悟は決めていたつもりだったが今の唯と顔を合わせるのは少し緊張する。

 明るく振る舞わないと、いや普段通りに接した方が、そもそも意識してる時点で普段通りではないような。

 というか冷静に考えると映画を見に行こうって、これデートの誘いだよな。それは流石に恥ずかしい。多分緊張して呂律が回らなく

「ええいままよ」

 弱気な自分の心に鞭打つために頬を叩き、ドアノブを捻った。学校を出た時から、それよりもっと前に、駅のホームで彼女と再会したときから既に賽は投げられている。

「ただいま、あれ?」

 ドアを開けると唯がいた。部屋の外に出ている。廊下に膝を抱えて冷たい床の上に座っていた。いつからこんなところにいたのだろうか。

「唯…」

 呼びかけても反応はない。顔をその細い足の間に埋めたままブツブツと独り言を呟いている。「キライ」「やり直す」、そんな言葉が断片的に聞こえる。

「………唯、こんなとこいたら寒いよ」

 彼女のその様子に内心恐怖さえ感じていたが、できるだけ明るい声を出した。怖がって接したら余計彼女を傷つけてしまう

「…あれ、翼、いつからいたの?」

 彼女はふらふらとぎこちなく立ち上がって、オレを見つめた。その瞳は病的な程淀んでいて、なにか別のものを見ているかのように焦点がずれている。

「おかえり、翼」

「……ああ、うん、ただいま」

 一昨日と同じ空元気であるのは分かる。けれど、今の唯は笑顔で何かを取り繕おうとしているだけでなく、不気味な雰囲気を醸し出していた。

「それ、何?」

 唯が指指したのはオレが右手に持っていた買い物袋だった。下校途中に買ってきたものだ。かまぼこやうどんなどが中に入っている。

「え、これ?唯がお腹空いてるんじゃないかなと思って、買ってきたんだけど…

「………翼は優しいね」

 何もおかしなことは言っていないはずなのに、唯は涙を流し始めた。泣きながら笑っている。

「…美月も昨日のことなら気にしてないし、あのウォークマンのことだってオレ」

 言い終わる前に軽い衝撃が胸に伝わった。唯がオレの身体に抱きついたからだ。唯の身体が密着しているという事実で鼓動が激しくなる

 身体を震わして泣きじゃくっていた。熱い涙が胸を濡らす。嗚咽はいつまでも止まらなくて喉がかれてしまうんじゃないかと心配になるほどだった。

 けれどよかった。理由は分からないけれど唯が自分から外に出てオレに頼ってくれた。彼女の方から歩み寄ってくれるならオレも助けになれるかもしれない。

「寒いよ。早く中に入ろう」

 頭を撫でてから長い時間が経ってようやく震えが収まった。潤んだ目でオレの顔を見上げている。熱が籠もった視線は蠱惑的でいつもの彼女より大人びた色を感じさせた。

「…ねえ、私のこと好き?」

「え?」

 急な質問で頭が真っ白になる。なぜこのタイミングでそんなことを聞いてくるのかが分からない。からかわれているのだろうか。

「好きかって…唯、からかわないでよ」

 答えるのが照れくさくて目を逸らそうとしたが、それは出来なかった。彼女の表情があまりにも真剣だったから。

「…」

 答えはずっと前から変わらない。八年前の春に別れたときから一日だって目の前の少女のことを忘れたことはなかった。

「…好き、だよ」

 震えそうになる声と逸れそうになる視線を押さえて答える。短い言葉なのに口にするだけでどっと疲れた。

「……えへ、えへへ、嬉しい」

 オレの答えに唯は表情を明るくする。プレゼントをもらった小さな子供のように目を輝かせていた。 

 朱色に染まった少女の顔はとてつもなく愛らしいし、自分のことを好いてくれていることが分かって嬉しかった。それなのになにか、曲がり角の向こうに恐ろしいナニカが待ち構えているような、嫌な予感がしてならない。

「でも、今の私じゃないんだよね?」

 冷たい言葉とともに表情がなくなる。宝石のように輝いていた瞳からは光が失われて、ガラス玉みたいに空虚なものに変わり果てていた。

「え…?」

「翼が好きなのは明るくて、優しくてアナタを助けてくれた女の子でしょ。陰気で泣いてばかりいる私みたいなのはいらないんだよね、分かるよ。私だっていらないもん、こんなの。昨日だって私が昔と同じならあんな風に美月を傷つけるようなこともなかったし、みんな嫌な思いをせずに済んだのに」

 憎悪のこもった声が暗い部屋の中に響く。その感情は他の誰でもなく彼女自身に向けられていた。

「違う…」

「違わないよ。私が昔のことを覚えていないから、昔の私じゃないから翼は悲しそうな顔をするんでしょ。ちゃんと気づいてたんだから」

「それはっ…そんなつもりじゃなくて…」

 口にしてから自分がとんでもないミスをしたことに気づいた。どんな形であれ彼女の自己否定の言葉を肯定してはいけなかった。

「そうだよね!やっぱりそうだったんだ!!私なんかでもそれくらいは分かるんだ!!」

 壊れた笑い声が頭の中にこだまする。最後の一押しは自分の手でなされてしまったのだという事実で頭が真っ白になる。

「今は我慢してくれてもきっとすぐにいらなくなっちゃうんだ。捨てられちゃうんだ。でも私そんなの耐えられない」

「そんなことない!!…どうしてっ…分かってくれ…」

 その先は言わせてくれなかった。舌がもつれる。頭にノイズが走る。麻酔をかけられたみたいに全身の機能が麻痺していく。

「…あ、え?」

 乱雑に包帯を巻かれた小さな手がオレの首に触れていた。細い指はゆっくりと血管を撫でている。

「だからね、『忘れて』。今の私のこと、全部」

 小さな囁き声、それだけでバットで頭を殴られたような凄まじい衝撃が頭の中に生じた。目眩はさらに激しさを増してきた。意識が、バラバラと崩れていく。

 消えそうな意識でも何が起こったているのかは辛うじて把握できた。触れた相手の心を操る唯の力。それが自分に向けられている。

 しかし原因は分かっても目的は分からない。一体何をするつもりなのだろうか。

「っ何、する…気なん…だ」

 ひやりとした指はオレのうなじを張っていた。そこから苦痛と愛情がないまぜになった、どろりとした思念が流れ込んでくる。

 とうとう立つことすら出来なくなって、へたり込んだ。唯もそれに合わせて屈み込む。

「安心して。私が記憶喪失だっていうことと“この”私との記憶を忘れてもらうだけだから。どうせ私は迷惑しかかけてこなかったんだから忘れてもなんともないでしょう?」

 あっけらかんと残酷なことを言ってのける。自分自身のことをどれだけ嫌っていればこんなことが言えるのだろう。

「同じ手なのに少しも料理できなかったよね。同じ声なのに退屈なことしか喋らなかったよね。同じ顔なのにいつも暗かったよね」

 ごめんねと、何度も何度も口にする。そのたびに胸が抉られるように痛んだ。

「なんだよ…それっ…違うって……言ってる…のに」

 涙交じりの情けない声しか出てこない。それくらい悔しかった。確かに唯がオレのことを忘れてしまったことは悲しかった。けれどだからといって昔に戻ってほしいとか、ましてや今の唯が昔より劣っているなんて考えたこともなかったのに。

「もう一度だけチャンスをちょうだい。目覚めたときにはアナタが望んだ本物がいるから。私、頑張って演じてみせるから」

「…あっ……ゆ…」

 言いたかった。そんなこと望んでいないと。けれどもう名前すら呼ぶことが出来ない。全身が弛緩してしまって舌はおろか指一本すら動かせなかった。

 唯はオレの首から手を離して、そっと胸に飛び込んだ。心底愛おしそうに顔を胸に押し当てている。

「だから、ずっと一緒にいてね」

 オレは唯のことが好きで、唯もオレのことを好いてくれている。想い合っているはずなのに、こんなに近くにいるのに何故こうなってしまうのだろう。どこで間違えてしまったのだろうか。もう、取り返しはつかないのだろうか。

 いいや、まだなにかやれることはあるはずだ。考えろ。今の唯の望みは決して彼女を幸せにしない。もしここで全てを忘れてしまったら、唯はずっと一人で苦しむ羽目になる。

 理想の自分を演じて、それを相手に信じ込ませることが出来たとしても結局はウソだ。相手を騙すことが出来ても自分自身は騙せない。

 抗おうとしても、押さえつけられるような感触とともに意識は薄れていく。

 そんな時、一つのアイデアを思い付いた。役に立つかは分からない。だがもう考えている時間はなかった。

 夢見心地のまま手を動かす。僅かに痛みを感じて、そして

「翼、起きないと駄目だよ。風邪引いちゃうよ」

 活発そうな声が無理矢理に意識を呼び覚ました。頭の中がなんだかぐらぐらとしていて気分が悪い。酒を飲んだことはないけれど二日酔いというのはこんな感覚かもしれない。

 目を開けると金髪の少女がオレを揺すっていた。

「あれ、唯?」

「うん、そう。私だよ」

 幼馴染みの音羽唯がいつも通りの笑顔をオレに向けている。不思議なことなんて何もないはずなのにそれに違和感を覚えた。

「あれ、オレなんでこんなところで寝てたんだろ?」

「こっちが聞きたいよ。どれだけ眠かったの?」

 からかうような口調で唯はまた笑う。釣られてオレも笑った。酔っ払いじゃあるまいに。もしや本当に二日酔いなのだろうか。

 頭痛を放り出すように頭を振って立ち上がる。調子はあまりよくないがここにずっと座っていてもどうにもならないし。

「どれぐらいこうしてたんだろう?」

「……えっと、十分ぐらいかな。帰ってきたと思って、リビングに来るのを待ってても全然来なくてさ。どうしたのかなって様子見に来たら、ここで寝てたんだよ」

「凄いな。オレ、そんなに疲れてたのか」

 何故か唯は目を見開いてオレを凝視していた。顔にゴミでもついているのか。

「……何で泣いているの?」

 驚きと恐怖、それにわずかな喜びが入り交じったような複雑な声だった。言葉の意味よりもその声に込められた感情の方が気になって頬を伝う涙にようやく気付いた。

「え?」

 泣くようなことなんて何もないはずなのに泣いていた。拭っても拭っても涙が止まらない。

「すごく悲しい夢を見たんだ。誰かが泣いてて…ああ、くそ。思い出せない」

 大切な誰かが泣きながらオレに縋りついているのに、何もしてやれなかった。見捨てられたくないと震えていた誰かを安心させたかったのに、嫌いになんてならないと伝えたかったのに。そんなことすら出来なかった。

 しかし、それでも夢は夢だ。いくら悲しかろうが目覚めてしまえばお終い。一度きりの幻のはずなのに。

 自分の奥深くにあるなにかはそのことに執着していた。何があっても忘れてはいけないと強く訴えて、オレに諦めることを許させない。なにか手はないだろうか。その時目の前の少女の力を思い出した。

「そうだ。唯ならなにか分からないかな?オレの手、握ってみてよ」

 唯はびくりとした後、貼り付いたような笑顔で首を横に振った。

「悲しいことなら思い出さない方がいいよ。忘れたって困ることなんてないもの」

 そう言ってオレに背を向けてしまった。いつもなら無理にでも心を覗いて解決させようとするはずなのに。やっぱり何かおかしい。そもそも

「なんで一緒に住んでるんだっけ?」

 八年前にオレと唯は一度離れ離れになった。オレは母方の実家に身を寄せて、それから…それから…

 頭の奥に霧がかかっているような感覚がしてそれ以上思い出すことが出来ない。

 答えを知っている筈の彼女からの返答は思いもよらないものだった。

 「そんなことどうだっていいでしょ」

 どうだっていい。そんなに重要なことをそれだけで片付けられたら反感の一つも抱くはずなのに。その言葉を自然に受け入れてしまった。

 「…そう、だよな」

 違和感は少しずつ頭の中から消えていって、次第に何を不思議に思っていたのか、それすらも思い出せなくなった。

「いっ!」

 突然左手首に痛みが走る。見てみると皮膚が深く裂けていた。出血量はそれなりに大きかったが、傷は血管までには達していない。大事には至らないと思う。

 切り口は荒く、刃物で切ったというよりは爪で抉ったという方が近い気がした。そして見たところ新しい傷だ。血が少しも乾いていない。

「なんだこれ?」

 不可解だ。誰かにやられたにしても、偶然負ったにしてもこんな深い傷がついた理由を覚えていないはずがない。

「やっぱり変だ」

 さっきのことといい、この傷といい、思い出せないことが多すぎる。物覚えは悪い方ではないというのに。一体何が起こっているというのか。

 さらにおかしなことに気づいた。右手の人差し指が血で濡れている。爪の隙間には人間の皮膚まで挟まっていた。

 左手首の傷と右手にこびりついた血、二つを照らし合わせて考えると…

「…オレが、自分でやったのか?」

 信じがたいがそうとしか考えられなかった。だがそれが何を意味するのかやはり全く分からない。あまりにも訳が分からなくて身体が震えてきた。

「翼、どうかした?」

 リビングから唯の声が聞こえた。反射的に手首を隠す。

 とりあえず今はこの傷のことを隠しておこう。自分で手首を切っておいてそれを覚えていないなんて言ったら彼女が驚くだろう。

 足下にある買い物袋を拾って台所に向かう。早く行ってご飯を作らないと。

「…なんでもない!今行く」


 

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