第9話

「ん………えへへ…き…すき…だいすき…」

 とても幸せな夢を見た気がする。大好きな人が私のことを好きって言ってくれた。優しく抱きしめてくれた。一方通行な想いじゃなかった。

 たとえ一夜限りだったとしても、一生忘れられないような輝かしい夢。

 もう一度眠れば、続きを見れるかもしれない。そう思って目を閉じようと思ったが、あることに気づく。

 さっきから視界に映っているこの黒い物体はなんなのだろうか。体毛、犬とか猫とかのだろうか。それに暖房も付けていないというのになんだか暖かい。左手もなにか熱いし。

 「え?」

 左手を上げると重く大きい男の手が握られていることに気づいた。

 そして自分が横たわっているベッドがいつもと違うことにも。掛け布団の色は違うし、ほんのりと男の人の匂いがするし。

 「??????」

 「あれ、唯?起きてたんだ、おはよう」

 目をこすりながら翼が体を起こす。その顔を見て昨日のことを思い出し、羞恥のあまり、頭がオーバーヒートした。


「~~~~!!!」

 恥ずかしいこといっぱい言って、散々泣いて、そのまま眠ってしまった。それに朝まで一緒の布団で寝てしまうなんて。思い返すだけで頭が爆発してしまいそうなほどに血が上ってしまう。

「ま、まあとりあえずご飯食べようよ、昨日の夜何も食べていないし」

 翼の顔も真っ赤になっている。私も大概だったが、彼は彼で恥ずかしいことを言っていたことを思い出した。

 「…フフッ」

 自然と顔がにやけてしまう。彼は赤く染まった顔を隠そうとして、顔を逸らした。とてもかわいい仕草。新しい一面を発見できて、胸が弾むような心地になった。

 そんな一幕が終わった後、二人で朝ごはんの準備を始めた。といってもお米とみそ汁は前に作ってあったものが残ってあったからほとんど温めるだけだったのだが。

 卵焼きだけは作った。少しは翼に手伝ってもらったけれど、八割は私がやった。味は悪くないと思うのだが、ちょっとだけ形が崩れてしまったのが少し残念。もっと努力しなければ。

 「おいしかったよ。ごちそうさまでした」

 「…ごちそうさまでした」

 おいしいと言ってくれたのが、嬉しくてガッツポーズをとりたくなってしまったけれど、我慢した。朝食を手早く済ませて、食器を片付け始める。一緒に住み始めてから少しは時間が経ったから、簡単な家事ぐらいはこなせるようになっていた。

 なんだ。私も少しくらいは成長していたんじゃないか。

 あれほど欲しかった平穏な時間が戻ってきたことはとても喜ばしかったけれどそれ以上に重い罪悪感を覚えた。

 勝手な思い込みと被害妄想で部屋に閉じこもっていなければこの風景はもっと早く取り戻せていた。それどころか危うく自分で壊しかけた。私は致命的に間違っていた。

 やっぱり彼にきちんと謝っておかないといけない。遅すぎるけれど今からでもやり直さないと。

 「翼…」

 「ん?なに?」

 あくび混じりに軽く伸びをしていた彼に呼びかける。自分の心を勝手に弄んだ女が同じ部屋にいるというのに暢気なものだ。私もその大らかさを見習いたい。

 これ以上ないほど深く頭を下げた。許してくれていること、そもそも怒っていなかったことも知っているがそれでも謝る義務が私にはある。

「…本当にごめんなさい。翼に酷いことした。美月にも」

「別にそんなこと…」

「ダメ」

 遮ろうとする彼を制止する。今回ばかりはその優しさに甘えたくなかった。

 「我儘ばっかでごめん。けど謝らせて」

 あの時の私は本当にどうかしていた。そもそも正常だった時なんてあったのかは分からないが輪をかけて酷かった。

 私がやろうとしていたことはとどのつまり、彼を都合のいい人形に仕立て上げることだった。尊厳や自由を踏み躙るような恐ろしい行為だ。

 本当なら頭を下げて済む問題じゃないし、仮に許してくれたとしても隣にいる資格なんてない。大人しく彼の下から去るべきなんだろう。

 けれど私はまだ隣にいたかった。だからせめて精一杯謝る。今はまだそれくらいしか出来ないけれどそれだけはしなきゃいけない。

 「…分かった。許すよ。だからもう頭上げて」

 優しい声。体を包むような温かい視線。顔を上げると他の誰よりも純粋な笑顔があった。

 「…ありがとう、ありがとう」

 震える声で何度も同じ言葉を繰り返した。それしか言うことが出来なかった。

 もう二度とこんなことはしない。絶対だ。彼のためにも私のためにも。心の中で固く誓った。


 「翼、テレビつけていい?」

 「いいけど…」

 二人で黙々と皿洗いを進めるうちにあることが気になった。リモコンの電源ボタンを押す。目当ての情報はチャンネルを変えるまでもなく画面に現れた。

 昨日行った映画館前の映像が写されている。空中から撮影されているようで全体図がよく分かった。

 『死亡したのは飯田聡美さん二十一歳。一晩経った今でも信じられません…突然宙に浮かび上がって…』

 ニュースキャスターは興奮した様子で言葉を吐き出す。正確な情報を過不足なく伝える、その本分を忘れたかのようだった。

 あのとき起きたことはやっぱり夢じゃない。それを痛感させられた。

 『…なお、その直前に付近で大勢の通行人が気を失う事態が発生しました。それにより交通事故が発生しましたが今のところ死者は確認されていません』

 「………よかったぁ」

 鋏の怪物に襲われた女性は死んでしまったのだからなにもよくはないのだが、少なくとも自分のせいで死んだ人がいないことを確認出来て安心した。もし誰かが死んでしまっていたらと思うと足が竦んで体が震える。偶然に助けられることは人生でほとんどなかったが今回ばかりはいい出目を当てたようだ。

 「いや本当によかった。これで一件落着って感じかな。あの黒いヤツのことは少し気になるけどオレ達には関係がないし」

 黒いヤツ、鋏を持った怪人。思い出すと浮かれた思考に冷や水をかけられたような嫌な感触を覚えた。

 翼は関係がないと言ったけれど、本当はそうじゃない。私はあの怪物を昨日の事件の前から知っていた。

 「…翼、話しておきたいことがある…んだけど」

 「なに?」

 深刻な話とは思っていないのか彼はのんびりとした返事をする。せっかく穏やかな時間を取り戻せたのにこんなことを話していいのだろうか。しばらく迷ったが結局伝えることにした。隠し事や嘘はもうつきたくない。

 「…私、あの影を何度も見たことが、あるの」

 「え?」 

「二日前、別の女の人が殺された夜…人を鋏で殺しちゃう夢を見たりもして…」

「そう、なんだ…」

 私の告白を聞いた彼は複雑そうな表情をしていた。何を言えば分からないといったような。

 似たような表情とセリフをどこかで見聞きした覚えがある。数秒記憶を探って思い出した。美月だ。やはり姉弟同士どこか似ているところがあるのだろう。

 本当にそっくりで笑いがこみあげてしまった。

「フフッ」

「え?今、シリアスな話をしてるんじゃなかったの!?」

「うん、そのつもりだったんだけど…ちょっと思い出し笑い」

 少し笑った後、表情を引き締める。

「私がやったんじゃないかって…不安になるの」

 アレはいつも私の気持ちが暗く沈んだ時に現れた。幻覚だと思い込もうとしたけれど、あの影は現実に爪痕を残している。もう無視することは出来ない。

 私は人の気持ちを感じ取ることが出来るし、逆に自分のそれをぶつけることもできる。その力のせいで人を憎いと思ってしまったとき、絶望したときに、私の暗い思いがあの影を形作って人を襲っていたんじゃないか。

 それに私が怪物になって女を殺したあの夢。あんなものを見てしまった以上私と無関係とはとても思えない。

「関係のない人を殺すなんて有り得ないよ。考えすぎだって」

 彼ははっきりとした口調で言い切った。彼が私をどんなに信じてくれているかは昨日痛いほど思い知らされている。

「…そう思ってくれるのは嬉しいし、その期待に…応えたい」

 けれど私にはそこまで自分のことを信じられなかった。人を殺したいと思ったことなんて十や二十じゃきかない程だし行動に移してしまったことさえあるのだから。

「…どうしても確かめてみたいの…自分が本当に人殺しじゃないってことを」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る