第10話
「えっと、確かめたいっていうのは…」
「…言葉通りの意味。今まで起きたことを調べるの。私がやったことじゃないっていう確証を得るまで」
オレと唯は食卓に向かい合うような形で座って話し合っている。彼女の気持ちは出来るだけ汲んでやりたいが、そこまでする必要があるのかオレにはどうもピンとこなかった。
「自分でやった覚えがないんだろ。ならやってないってことじゃ…」
「そう、だとは思うんだけど、私、昨日の夜みたいに自分でも抑えが利かないことがあって」
それに関してはオレも覚えがある。確かに彼女は一度だけ大勢の人を巻き込んでしまったことがあった。
しかしあの時の彼女は学校で苛烈な虐めを受けていて、まともにものを考えられる状況じゃなかったし、その時だって無関係な人間を殺そうとはしていなかった。それに彼女が人を殺すにしてもあんな風なやり方はらしくない気がする。
けれど、この辺りは彼女にしかわからない不安なのだろう。調べなければ気が休まらないのなら手伝おう。
「…分かったよ。唯が心配なら付き合うよ」
「手伝ってくれるの…?」
「いいよ」
「…うん、ありがとう」
感謝の言葉に花のような笑顔が添えられた。こんな風に頼みごとをしてくれるのは珍しい。以前は爆発寸前まで我慢して、悩みを溜め込んでいたから。
しかし、疑問が浮かんだ。さっきまでの精神的な話ではなく、もっと実際的な話で。
「具体的には何をやるの?」
「……………それは………」
固まった唯を見て確信する。考えていなかったんだな、この子。
議論し合った結果まずは情報収集することにした。家の中では大した情報を得ることは出来ないだろうが、まずはやれることからやるしかない。
「まず最初の被害者は相川昌子さん。二十三歳。場所はS銀行とマンションの間の袋小路。二日前の事件で深夜に起きた。」
翼がネットニュースを音読して、私がそれを書き写す。あまり役に立つとは思えないが要点は整理しておかなければ。
「唯、覚えはある?」
翼が携帯をテーブルの上に置き、私に見えるよう、百八十度回転させた。勝気そうな女性が写っている。
「……全然知らない」
全く知らなかった。顔写真を見ても覚えがない。この人を殺さなければいけない動機を自分は思いつかない。
「ならよかった。昨日の人は…飯田聡美さん。二十一歳」
画面をスワイプすると別の顔が写った。昨日見た彼女と違って髪が染められていない。染めたのは最近だったのか。
写真を長いこと見つめていると、空っぽになった瞳を向けた、あの生首のことが頭にちらつく。おぞましいまでの赤色も。
「…………」
「大丈夫?」
一度深呼吸をしてから、仕切り直す。やはりこの人にも覚えはなかった。
「やっぱり、知らない…」
「じゃあこの件は解決?」
「でも、全く関係ないのに、あんな夢を見たりする…?」
確かに被害者と私に面識はなかった。けれど、それだけではやっていないとは言い切れない。何より
「…あの黒いのが一体なんなのか分かるまでは調べてみたい…」
口にしてみて思うが、厚かましいお願いだ。手間はかかるし、報酬など何も出せない。私が安心したいというだけの理由で、ここまでやってもいいのかちょっと不安だ。
「うん、いいよ。これで終わりじゃあ少し味気ないし」
からっとした笑顔で即答した。どこか暢気そうだが、快諾してくれてよかった。とても嬉しい。
彼は端末を自分の手元に戻して、目を丸くする。そしてなにかを思い出そうとしているかのように視線を上に向けた。
「…どうしたの?」
「この人、どこかで見たような気がする」
翼が変なことを口走った。
「…どこかで見たって…昨日見たんだから、当たり前でしょ…」
「違うんだ、もっと前にこのマンションで見たんだよ」
その意外な言葉に今度は私が目を丸くした。
目を点にして呆けている彼女に説明を続ける。
「たまに見かけることがあるんだ」
正確には“あった”というのが正しいだろう。だってもういないのだから。この先に会うことは有り得ない。
「…でも、あんなに目立つ髪型だったら流石に私でも覚えていたと思う」
「いや、前は染めてなかったんだ。だからオレも最初は気づかなかった」
写真の彼女はオレがこのマンションで見かけたときと同じく黒のストレートだった。昨日気づけず、今日気づけたのはそのためだろう。
「…ここに住んでたんだ」
「いや、きっとたまたまだって…」
接点を見つけて、不安そうな表情になる唯をなだめる。そもそもこんな反応をする子が殺人などしないと思うのだが。
「…私、行ってみる」
唯はスッと立ち上がって上着をとり、そのまま外に出てしまった。あまりの行動の速さについ反応が遅れてしまった。
「ちょ、待ってよ!」
唯はロビーに降りて、一階にあるポストに書かれている名前に目を通していた。飯田という名字を探しているのだと遅れて気づく。彼女がここの住人なら当然あるはずだ。
「…あれ、ない」
唯が呆然と呟いた。そんなはずはないとオレも名前を探す。
「…んなばかな」
けれど、やはりない。端から端まで目を走らせてもどこにも見当たらなかった。
「………」
もしかして、勘違いだったのだろうか。さっきあんだけ大見得切って、『もっと前に見たことがある』なんて抜かしていたのに、それが、勘違い。
なんだかすごい恥ずかしくなってきた。不謹慎だが、唯に記憶を消して貰ってもいいとまで思えてしまう。
「…翼、そうとは限らない」
「え?」
「…飯田さんはここに住んでたんじゃなくて通ってたのかもしれない。あるいは誰かの家に同棲してたか」
ああ、それなら確かに郵便受けに名前が書かれていないのも頷ける。しかし、
「すごいね。なんでそんなすぐに思いついたの?」
「……私がそうだから」
唯は少しだけ頬を赤らめた。自分と関わりが深いことだから気づけたということか。
当然だがここの部屋の名義は黒羽になっている。つまり唯は留守番中に電話や郵便が来たとき、『黒羽です』と言っているわけか。上手く言語化出来ないが、少し、ほんの少しだけ、興奮する。
「けど、結局どの部屋に通っていたのかは分からないな」
「…そんなことないよ」
唯は寂しそうな、嬉しそうな、矛盾した感情を孕んだ声で囁く。
「…私達、普通じゃないんだから」
加齢で頭が真っ白に染まっている管理人の心を操り、情報を引き出した。
仕事上、住人でない人間が出入りする場合は声をかけることがあるみたいで、飯田さんからも話を聞いたことがあったみたいだ。幸運なことに部屋の番号まで覚えていた。
他人の頭の中を覗き見るのはいけないことだと頭では理解しているのに、罪悪感はこれっぽっちもなかった。やはり私の性根はどこか腐っているのだろう。罪の意識より、ソレを感じなかったことの方が私にとってはショックだった。
飯田さんのマンションは五階の一番奥にあった。扉の前にはモノクロのニューヨークの写真が貼り付けられた傘立てに黄色い花が植えられた植木鉢。
「本当にやるの?」
翼が訊ねる。私は無言で頷きインターホンのボタンを押した。
ピンポーンと、そんなオノマトペで形容するしかない音が鳴る。返事が返ってくるまでの間に、右手から手袋を外し準備する。
不思議だ。何故こんなことをやっているのだろう。翼がいて、一緒にいることを許してくれているのに、それで十分な筈なのに、何故こんなことに関わろうとしているのだろう。
私は自分が殺人鬼じゃないか確証が欲しいと、だからこのことを調べたいと彼に話した。決して嘘ではない、けれど本当にそれだけなのだろうか。私はあの黒い怪物のことを知りたいと思って…
思案の途中に扉が開かれ、若い男が出てきた。
「…誰ですか?」
男は酷くやつれていた。よく眠れていないのか目が充血して隈ができている。声も病人のように嗄れていた。赤の他人の私達が突然やってきたというのに、驚きも警戒もしていない。頭の中が一杯で現実を上手く認識出来ていない、という感じだ。
男の名前は斉藤治という。管理人の情報によるとこの男の部屋に飯田さんは通っていた。おそらく恋人同士だったのだろう。
どれほどの仲だったかは知らないが、様子を見て大体は察せた。
質問には答えず、男の手にゆっくりと触れて、眠るように念じる。
以前、無一文で家出した時のことを思い出した。宿のアテもなかったから人を操って路銀を手に入れていたのだ。褒められるようなことじゃないけど、そのおかげで人の身体に触れるのは得意になっていた。
肩から力を抜いて自然に相手の手、もしくは首筋に触れる。触れさえしてしまえば後はどうにでもなるが、あまり勢いよくやると相手に警戒されて避けられてしまうことがあるのでそこだけは注意しなければいけない。
男はゼンマイが切れた人形のように仰向けに倒れる、寸前に翼が身体を支えた。
「うわっ、危ないな」
「…ごめんなさい」
そのままでは目立つので翼に部屋の中まで男を運んで貰う。大の大人であっても椅子を運ぶみたいに軽々と持ち上げられるのは流石というしかない。
リビングにあるソファの上に男の身体を置いて、一歩下がる。ここから先はキミの領分だと言うように。
もし飯田さんが死の直前にあの黒い影の存在に気づいていたり、そうでなくても身の危険を感じるようなことがあったら、交際相手であるこの男に伝えていたかもしれない。
男の寝顔を見下ろす。さっきのやつれた表情とは打って変わって、どことなく穏やかで、幼く見えた。飯田さんと付き合っていたのだから歳は私達と十は離れていないだろう。
情報が増える度に、心の中で昨日の死がどんどん重みを増していく。昨日死んだあの人を想っていた誰かがいて、確かに現実に生きていたのだということがいやでも分かってしまう。
感傷を振り払って、右手で彼の額に触れる。その瞬間互いの境界線が曖昧になった。
自分が相手の中に入り込むような、相手が自分の中に入ってくるような、奇妙な一体感。未だに慣れない。異性が相手だと猶更気持ちが悪くなる。
「…」
吐き気を抑えながら男の記憶を探っていく。気になるのは飯田さんのことだ。彼女が死の直前にあの黒い影を見なかったのか、もし見たとしたらどんな状況だったのか、それが知りたい。
就活が終わったから髪型を大胆に変えてみたと嬉しそうに話す女の声、旅行先で子供のようにはしゃぎ回る女の笑顔。女が死んだことを伝えられたときの狂いそうなほどの悲しみ。女に関する様々な記憶がスライドショーのように切り替わっていく。
けれどどれだけ調べても、男の記憶にはあの影に関する情報が存在しなかった。それだけでは彼女が何も見ていないという証拠にはならないが、これ以上調べても意味がないことだけは分かる。
額から手を離して、心のつながりを切る。手袋を着け直そうとポケットを探ったとき、視界が滲んでいることに気づいた。
涙がポロポロと流れ落ちていく。嗚咽が止まらないほどの激しいものではない。閉めた蛇口から水滴がこぼれ落ちるみたいに静かで断続的なものだった。
テーブルの上を見ると、飯田さんと斎藤さんの写真が置いてあった。一晩中彼が眺めていたものだ。
彼はあのテーブルの上でずっと考えていた。何故聡美が死ななければならなかったのか、隣にいたら結果は変わっていたのだろうか、あの夜自分が彼女を呼びさえしなければ、と。
「…酷い」
何も悪いことをしていないのに、なぜこの人達がこんな目に遭わなければならないのだろう。なんでこの人が後悔しなければいけないのだろう。
あまりにも理不尽で怒りがこみ上げてくる。けれどその矛先をどこに向ければいいのかすら今の私には分からなかった。
放心状態の唯を連れてマンションから出た後、二人してブランコに乗ってぼんやりとしていた。公園はなぜか人通りが少ない。休日だというのにどうしたのだろうか。
「なにか分かった?」
「…なにも。悲しかっただけ」
斉藤というあの男性に触れてから彼女はずっと物憂げな表情をしていた。恋人の死を経験したばかりの人間の感情を一瞬とは言え共有してしまったのだから無理はない。
「……」
なんとか元気づけてあげたいが、どうしたものか。手のひらを見つめている内にあることを思いついた。
「…ひゃっ!…急に、何?」
「剥き出しだったからつい…」
「それ痴漢の理屈だよ!」
無防備な右手を握ったら、唯が歯を剥き出しにして怒った。けれどあまり迫力がない。子猫やハムスターみたいな小動物を連想させる威嚇の仕方だった。
彼女の手は相変わらず柔らかくて、滑らかで、少し力を入れただけで壊れてしまいそうなほど華奢だった。恥ずかしいのか、もじもじと指が動くのもたまらなく可愛らしい。
「うー。手握りながら恥ずかしいこと考えないで」
顔を赤くしながら彼女がそっぽを向く。うっかり忘れていたが、触れている間は心が読まれてしまうのだった。
「唯は手を繋ぐの好きじゃない?」
「…キライじゃない、けど。は、恥ずかしい」
反応が可愛くてもっとからかいたくなってしまう。美月の気持ちが少し分かったような気がした。
「…サディスト」
また心を読まれてしまったみたいだ。全くもって敵わない。
「…翼、その傷…?」
唯の声が突然震える。視線はオレの左手首に注がれていた。二日前の傷がうっすらと跡を残している。
ほとんど治って痛みもなくなっていたから、自分で手首を切ったことをすっかり忘れていた。
「これなら別に大したことじゃないよ。自分で切っただけで…浅い傷だし」
言い訳は通用しなかった。彼女の顔はどんどん青ざめていって、あっという間に泣きそうになっている。
「…私が、翼の記憶を消そうとしたときに、出来たんでしょ?…私、のせいだよね」
「えっと…」
なんと言えばいいのか、何を言っても落ち込ませてしまいそうだし、黙っていたら泣き出してしまうかもしれないし。
「…泣かないよ。泣いたらまた翼が困るから」
落ち着きを取り戻したみたいで、声の震えが大分収まっていた。
「…我慢されるのも同じくらい辛いよ」
「…なら翼が見てないところで泣く。気づかれないように。部屋の隅で膝抱えながら」
「いやだなあ、それ」
冗談なのか本気なのか分からないが、元気そうだ。以前よりも精神的に強くなったのかもしれない。
「…翼は、私に触るのが怖くないの?」
にわか雨のような小さな声だった。触れているのだから答えを口にする必要はないのかもしれないがオレも言葉で応じた。
「怖くないよ」
「…また記憶を消されちゃうかもしれないのに…?」
「うん。喜んでくれるなら、それでもいいかなって思って」
「…翼って、本当に変わっているね」
小さく呟いて唯が押し黙る。沈黙が二人の間に流れたが決して不快ではなかった。風が吹いて、足下で落ち葉がカサカサと音を立てる。包み込むような優しい日差しもあって瞼が重くなってきた。
船を漕ぎかけたその時、唐突になにかを忘れているような気になった。一体何なのか思い出そうとするが、あと少し、というところで出てこない。
「…どうしたの、翼?」
「うーん。今日ってなにかあったような、なんだったっけ…」
「…そういえばクリスマスだね」
「それだよ!」
そうだ。昨日はクリスマスイブだというのにケーキもプレゼントも何も用意していなかった。色々忙しくて考えている余裕がなかったから仕方がないといえば、仕方がないのだが。
「ねえ、唯。せっかくだから今日祝おうよ。昨日の分も含めて」
「…私、キリスト教徒じゃないし」
「細かいことはいいから」
唯の腕を引っ張って立ち上がる。ケーキを買ったり、クリスマスツリーを見に行ったり、今でしか楽しめないことが沢山ある。ここでじっとするのも悪くないが、折角なら特別なことをしてみたかった。
「…こんな時に?」
「こんな時だからだよ。酷いことがあったんだから、その分楽しんで埋め合わせしないと。足し引きが合わない」
「……でも私がその酷いことを起こしたのかもしれないんだよ」
「言っただろ。そんなこと絶対ないって」
「でも………あっ!?」
また俯いてしまった彼女の手を引いて走り出す。人気がなくてよかった。流石に他人に見られながらこんなこと恥ずかしくて出来やしない。ついてこられるように手加減はしているつもりだが、それでも後ろから聞こえる彼女の吐息は荒く苦しげなものだった。
「つば、さ。速い!」
「ごめん。速いってところしか聞こえなかった!」
「全部…!聞こえてるじゃん!」
笑いながら唯を引っ張っていく。身体を動かせば悩み事も消えるだろうという純度百%の善意からの行動だったのだが。
「つ、ば、さ」
調子に乗りすぎたのがよくなかった。地の底から響いているような怨嗟の声がオレの身体を金縛りにする。
結局、テレパシーからの金縛り、『あの小さな身体のどこにそんなパワーが!?』と思わせる渾身のドロップキックにより池の中に叩き込まれてしまった。
世の中にはからかっても許してくれる人とそうじゃない人の二種類しかいないが、彼女は後者だったということを身をもって思い知った。
「寒いなー風邪引いたかもなー。誰かさんが池に落とさなければなー」
翼がわざとらしく自分の身体を擦っている。もうあれから六時間近く経っているというのに、少しくどいと思う。
「…自業自得。それに風邪引くほどヤワじゃないでしょ」
「そうだけど…少しは加減というものを…」
今現在私達は殺人事件も怪物のことも頭の隅に追いやってクリスマスの雰囲気を愉しんでいた。昨日の怪事件を怖がって閉じこもっている人が多いかと予想していたのだが、街は例年通り賑わっている。暢気なものだと言いたくなったが、自分たちにそのまま返ってくることに気づいて口を噤んだ。
イブを過ぎたおかげで安くなっていたケーキやチキンを買い、殺風景な家を彩るためにゲーム機まで購入した。私も彼も普段からゲームをやる人間ではないから本当に使うのか怪しい。
クリスマスにはおもちゃがないと寂しいけれど、欲しいものがない。一般的な高校生はゲーム機を欲しがるものではないだろうか。ならそれを買ってみようという、考えだ。
彼のことはもちろん好きなのだが、それを言い出したときはロボットが人間の生活を摸倣しようとしているみたいで気味が悪いと思ってしまった。
「ねえ、唯。ケーキ食べるのさ、外でやらない?やってみたいことがあるんだ」
買い物袋を両手に持った彼が少し照れくさそうに頬を掻く。外でロウソクを付けたりするのだろうか。想像してみるとなんだか楽しそうだった。
「…うん。でも、外って何処?」
「上だよ」
彼にしては珍しく得意げに声を弾ませて、薄暗くなった空を指指す。まったくもって意味が分からず私は頭を捻らせた、
三時間後
「唯、準備できたから行こう」
低い建物に挟まれた人気のない路地裏に翼の朗々とした声が響く。
ようやく意図を掴めた。なんてことはない。上というのは文字通りここより高い場所。つまりビルの屋上ということだったのだ。
家に帰って夕食を済ませた後、彼はケーキとバッグを持って外に飛び出していった。今思えば屋上にあらかじめ荷物を置いていったのだろう。
「…一応聞いておく。どうやって…上まで行くの?」
「ジャンプして」
さも当然のことのように彼は言ってのけた。私も大概だが彼もどこか常識が抜け落ちているような気がする。
高いところは苦手だ。学校の三階ぐらいの高さから下を見下ろしてもゾッとするし、足が竦む。それになぜかは知らないが昔から落下する悪夢を何度も見ている。嫌なほど鮮明な。
「大丈夫だよ。百回近く建物の上を走ったけど、落ちたのは一回しかないんだから」
「そこは嘘でもゼロって言ってよ!落下率一パーセントって飛行機の千倍以上危ないじゃない!!」
「…だって嘘言ってもバレるし…」
色々突っ込みたいところはあったが、目を瞑って観念した。他ならぬ彼の頼みだ。最初から断るつもりはない。
それに一緒に住む少し前、と言うより直前に、屋上から落ちたところを彼に助けて貰ったことがある。昨日も抱えられて飛び回っていたし。高いところを今更怖がるのもおかしな話だ。
「…連れてって」
「え?いいの?」
「…大丈夫」
彼はゆっくりと私の身体に手を回してヒョイと抱え上げる。自分が発泡スチロールにでもなったのかと勘違いしてしまうくらい素早く胸の高さまで引き上げられた。
「…あ、でも、行く前に一つだけ約束して」
「なにを?」
「…もし足を踏み外して、落ちることになっても絶対離さないで。そうしてくれるなら…どこだって構わない」
「…分かった。約束する」
その言葉を合図に、彼は一息に六メートルはある建物の上に飛び移る。私達の周りだけ重力がなくなってしまったみたいだ。
「よし、行くよ」
動き出す。景色が次々と流れていき、風が身体を打つ。凄まじい速さだった。スポーツカーや新幹線には流石に及ばないだろうが、窓などの遮るものがない分、体感速度はそれ以上に感じる。
「うっ…わっ!」
身体がフワリと浮いたと思うと、衝撃とともに浮遊感がなくなる。ビルの隙間を跳んで着地しているのだ。そのままの勢いを活かして彼は更に助走し、跳躍し、着地する。それの繰り返し。高さがいつもと違うだけで、ずっと続く走り幅跳びのようなものだ。
相当な距離を走っているのに彼の息は少しも乱れておらず、走る速度も落ちないどころかどんどん速くなっていった。
目を薄く開くと普段見上げなければ天辺が見えないほどの高さだった構造物が、視線と同じくらいの高さに落ちていた。それだけでどれほど高いところにいるのかがよく分かる。
「…っ!」
恐怖で反射的に瞼が落ちた。心臓が早鐘のように打って背筋が凍る。直視するのは耐えられない。
「絶対落とさないから」
静かだけど芯の通った強い声だった。それを信じて彼の首に回している腕の力を抜く。身をよじらせて、下を向いた。
「きれい……」
恐ろしくもあったが、素晴らしい景色だった。暗い町並を色とりどりの光の点が照らしていて、まるで宝石が鏤められているみたいだ。そしてその輝きは都心に進めば進むほど増していく。
普通車はおろか、トラックなどの大型車ですら手の中に収まってしまいそうなほど小さく見える。巨人にでもなった気分だ。
「アハハハ!!すごいすごい!」
壮麗、爽快、荘厳、驚異的、神秘的、自分の貧弱な語彙力ではとても言い表せない程に素晴らしい景色だった。
私の笑い声に釣られて、彼も小さく笑う。とても楽しそうで嬉しそうな顔だった。
機械が出す無機質な駆動音も、他人の喋り声も、大勢の足音もなにも聞こえない。二人の笑い声だけがずっと響いていた。
超高層ビル、とまではいかなくても地上から五十メートルほど離れた、それなりの高所に今オレ達は座っている。もっと高いところにも行けたかもしれないが、彼女を抱えたままでは危険だと判断し、取りやめた。
レジャーシートにLEDランタン、毛布などを用意したおかげで室外ではあるがそれほど不便には感じない。ちょっとしたキャンプのようなものだ。
嬉しいことに今日は風も然程吹いていない。屋外でクリスマスパーティーなんて酔狂なことをやるのには、絶好のコンディションだ。
ケーキを食べ終わった後、唯は小さく船を漕いでそのまま眠ってしまった。この三日間、毎日外を歩き回っていたから疲れが溜まっていたのだろう。今日ばかりはゆっくりさせてあげた方がよかったかもしれない。
彼女はオレの肩にもたれかかって静かに眠っている。寒空の下ではその体温が何よりありがたい。
ケーキを食べる前に彼女は「おめでとうクリスマス」をとても楽しそうに歌っていた、しかも英語で。やけに発音とノリがよかったから、思い返すと今でも愉快な気分になる。やっぱり面白い子だ。
空になったケーキ箱をゴミ袋に入れている内にあるものが足りないことに気づいた。
「ああ、そうだった」
肩にもたれかかっている唯をそっと寝かして、バッグの中を探る。硬く丸い、ざらざらとした手触りのものを掴んだ。
「…懐かしいな…」
取り出してみると、それは古びた野球ボールだった。中学時代、野球部に入ったときになんとなく買ったものだ。結局、部活動の時間外に部員と練習するようなことはなくて、美月とキャッチボールをするためにしか使われなかったのだが。すぐ止めてしまったのだ。
家の中にあったアウトドア用のショルダーバッグを適当に見繕ってきたが、ボールをどうやら入れっぱなしにしていたらしい。もう使わないだろうし、今度捨てておこう。
「これじゃなくて…」
ボールを上着のポケットの中に突っ込んで、もう一度バッグに手を入れる。今度こそ目当てものを取り出した。
昼間買ったボーティブキャンドルだ。グラスの中に蝋が詰められていてなんでも数十時間も火が消えないらしい。
雰囲気作りのために買ったのだが、ランタンだけで十分視界を確保できていたから存在をすっかり忘れてしまっていた。
ふところからマッチを取り出して、火を付ける。小さいけれど、暖かいオレンジの明かりが周囲を照らした。
「…翼?」
唯が眠たそうな声をあげて、抱きついてくる。どうやら起こしてしまったみたいだ。
「…ロウソク、綺麗だね」
「そうだね」
人間の原始的な本能に起因するものだったか、揺らめく炎を見ていると心が休まるような気がする。
「…ねえ、翼」
唯は炎を見つめたまま静かに口を開いた。オレは首肯して続きを促す。
「…?」
「あの男の人、斉藤さんの心と繋がったとき、思ったんだ」
「なにを?」
「…大切な人がなんで殺されたかも分からないなんて酷いなって」
彼女の視線がキャンドルからオレに移される。どこか遠くを見ているようだけれど、虚ろなわけではない、夢を見るような眼差しだった。
「…もし、私達であの怪物の正体を突き止められたら、倒せたら、少しは残された人達の為になるかな…?」
驚いた。目の前で人が殺されそうになっているならともかく、自分と関係のない事柄に積極的に関わろうなんて発想が自分にはなかったからだ。被害者達のことを可哀想だとは思うし、悼みもするが、あくまで他人の問題であってオレが踏み入ることではないと線引きしていた。
でも、唯の性格から考えるとそう不思議がることでもないのかもしれない。彼女はとても傷つきやすくて他人との接触を怖がっているが、それはひとえに共感能力が高すぎるからだ。悪意や敵意に影響されやすいが、心の痛みにも敏感で、傷ついている人がいると放っておけないのだろう。
誰よりも脆いから誰よりも優しくなれる素質があるのかもしれない。
あともう一つ。「私」と自分一人だけじゃなくて、「私達」とオレも含めてくれたのが少し嬉しかった。
「…二人で、か。いいね。じゃあオレと唯はコンビだ」
「え?」
「唯が探偵役で、オレが助手」
「…私の方が成績いいし。妥当な配役」
「それもあるけど、唯はおっちょこちょいだからね。助手みたいな裏方は務まらないよ」
「なにそれ、ムカつく!私そんな間抜けじゃないし」
「そうかな?昨日だって、演技するの途中で忘れてたじゃないか。口開く度にボロが出てたし」
「その話はしないでよ…!」
首を傾けて不思議そうな顔をしたり、自慢げに鼻を鳴らしたり、諸手をあげて怒ったり、涙目になって落ち込んだり、感情の移り変わりが忙しい。
もっとからかってみたいという嗜虐心と、流石にこれ以上は止めておこうという自制心、どちらの声に耳を傾けようか思い悩んでいたところ、一陣の強い風が吹いた。
キャンドルの弱々しい明かりが吹き消され、身体から体温がごっそりと削られる。ビル風の音はまるで亡霊の呼び声みたいで、根拠のない不吉な予感が胸の中に湧き出てくる。
「…唯、寒くなりそうだからもう帰ろうか…」
「………」
彼女はいつの間にか立ち上がってどこか遠くを眺めていた。
「唯?」
「…アイツがいる」
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