第20話

 ヒッチハイクよろしく車を捕まえた後、乗っていた運転手を操り二人の後を追ってもらうことにした。非常時なんだから手段は選ばない。

 「翼…暦…」

 どうやら二人は街中を駆け回りながら戦っているらしい。自動車でも簡単には追いつけない程の速度で動いているのを感じる。

 不安でたまらない。彼が強いことは私だって知っている。以前暦と戦った時は子供と大人程の力の差があった。二度目があっても、結果は変わらない。

 そのはずだと自分自身に何度言い聞かせても上手くいかない。心の奥底ではそれが違うということを分かっているから。

 あの黒い液体を取り込んで暦は明らかに強くなった。原理は分からないがそれは確かだ。翼でも危ないかもしれない

 不安の種はそれだけではない。翼は暦を殺せるのだろうか。

 当然殺してほしいわけではない。できることなら彼女には生きていてほしいし、彼にそんなことをさせたくない。

 しかし、今の暦は完全に錯乱している。説得には決して応じないし、何が何でも翼を殺そうとするだろう。

 それに対して翼は暦の境遇に深く心を痛めていた。とても優しい人なのだ。私みたいな人間の癇癪に何度も辛抱強く付き合ってくれるほどに。顔の見えない怪物相手なら躊躇なく拳を振るえても人間に、それも暦のような女性相手に最後まで非情を貫けるだろうか。

 殺意の多寡、その点で言えば暦は翼より圧倒的に優れている。ルール無用の殺し合いになれば翼が不利になるのは目に見えている。

 不意に誰かの悲鳴が聞こえて思考が中断された。車の中からではない。外からだ。

 窓を開け、外を見渡す。特に頭上に注意した。騒ぎが起こっていないことから考えるに彼らは建物の上で戦っているのだろうから。

 「あ」 

 ものすごい速さで黒い何かが視界を通り過ぎた。一瞬しか見えなかったけどあれは…

 「暦!?」

 叫び声を上げながら飛んでいた。いや、自分の意思で飛んでいたというよりは吹き飛ばされていたように見えた。

 「翼!」

 赤信号で車が止まっている間もずっと空を睨んでいた。三十秒ほど経った時、信号が青に変わるのとほぼ同時に彼の姿が見えた。これもほとんど残像しか見えなかったが心なしかいつもより速度が落ちて見えた。

 運転手に彼を追うように命じた。車は右折し視界が開けた場所に出る。彼の姿がもう一度目に入る。

 翼は屋上を伝って、学校の体育館くらいの大きさの倉庫の中に入っていった。この場所から五十メートルもないところにある。車を使う必要はもうない。

 一体どういう状況なのかは皆目見当がつかないが、とにかく行かなければ。私だって何かできるはず。

 運転してくれた青年の頬に触れて命令を解いた瞬間、彼は呆けたような声を出した。知らない女が自分の車に乗り込んでいるのだから当たり前だ。

「…送ってくれてありがとう。危ないからここを離れて」

 お金か何かを置いていけられればよかったのだが、あいにく手持ちがなかった。頭を下げて車外に出る。

 走って倉庫まで向かう。心臓、脚、折れた腕と割れた頭、何もかもが悲鳴を上げている。こうして動いているだけでも身体の中身がこぼれてしまいそうな気までした。だがそんなことはどうでもいい。彼は無事なのだろうか。暦は。

 息を切らしながらも倉庫にたどり着くことは出来た。が、入口にはシャッターが降りていた。翼ならともかく私ではどうすることも出来ない。別の入り口はないのだろうか、そう考えたときだった。シャッターが横一文字に切り裂かれ、轟音をあげて。それだけじゃない。金属同士が激しくぶつかり合う音が立て続けに鳴り始めた。

 シャッターに空いた穴をくぐる。倉庫の中は照明が一つもなかったが、天井に空いた穴から月明かりが差し込んでいて、辛うじて視界を確保することが出来た。

 二人が戦っていた。翼は鉄パイプを、暦はあの鋏を、それぞれ振るっている。それがぶつかり合う度火花が飛び散って辺りを照らした。

 事態は想像以上に悪化していた。翼の左手は私のなんか比べ物にならないくらい滅茶苦茶に壊れている。上腕と前腕は皮だけで辛うじて繋がっているみたいで、血も夥しいほど流れている。

「うッ!」

 失血のせいか顔色も青白い。身体の軸もブレていた。立っているのもやっとなのだろう。

『「アアアアアァッ!!」』

 それに対して暦は今尚五体満足。乱暴に鋏を振り回し一方的に攻めている。疲れなど知らないと言わんばかりの猛攻だ。

 「止めて…お願い」

 あまりの惨状に膝が笑って崩れ落ちそうになる。どんどんボロボロになっていく翼を見るのが苦しくて叫びだしそうになる。死ぬ。殺されちゃう。いなくなってしまう。また一人になってしまう。

 感情は乱れに乱れて恐慌状態に陥りかけていたが、理性がギリギリでそれを制止した。お前にもまだ出来ることがある。泣いている暇があったら行動しろと。

 「落ち着いて、落ち着かないと…」

 誰にも聞こえないような小さな声で呟く。足を叩いて震えを抑える。

 いつまでも守られてばかりではいけない。今度ばかりは私が助けるんだ。その力が私にはあるはずだ。

 触れさえすれば暦相手だって意識を奪えるはずだ。だが正面から突っ込んでいっても上手くいかないだろう。触れる前に殺される。

 幸い暦は私の存在に気づいていないようだ。戦いに夢中なのだろう。ならばチャンスはある。背後から不意を突けばきっと。

「…!」

 倉庫の中には段ボールや鉄材などが積み上がっていくつもの壁が出来ていた。それを利用して二人に近づいていく。

 次の遮蔽物にまで駆け寄ろうと息を整えている間にバキンと硬いものが折れる音がした。それと同時になにかが私の方に吹き飛ばされる。蹴り飛ばされたサッカーボールのようなあっけなさだった。

 それはシャッターに激突し、ボトリと地面に落ちた。翼だった。口から血を零して地面に這いつくばっている。

 「翼!!!……あっ」

 声を上げた瞬間に自分が致命的な失態を犯したことに気づいた。口を押えたがもう遅い。不意を突かなければならないというのに自分から場所を教えてしまうなんて。相手は私がこの場所にいることすら想像しなかっただろうに。

 翼は私の存在に気づいたみたいで視線をこちらに向けた。とても驚いたような表情をしている。

 また失敗してしまった。取り返しのつかないミスだ。自分が馬鹿で無能だということは分かっていたつもりだったがまさかこんな失態を犯すなんて。

 もうおしまいだ。二人とも殺される。ああ、でも一緒に死ねるのなら、まだマシなのか…

『「………あれ?ゆーちゃんの声…したような…でも…いるはずないよね。それにこんなところ…見られたらイヤだし。あの子、私のことキラキラした目で見てくれてたんだもの。幻滅されたくない…」』

 虚ろな声だった。二メートルを超える黒い怪物から出されているとはとても思えない程に迫力がない。

 発言の内容も耳を疑うようなものだった。今自分が何をやっているのかさえ分かっていないのか。

 ゴミの山から顔だけを出して様子を窺う。暦は私の方を向いておらず近づく素振りすらも見せない。案山子のようにその場から一歩も動かず、なにかを待つように呆けている。

 『「…なんだか寒いな。帰りたい…な」』

 私たちを油断させるための演技かと思ったが、それは考えにくい。翼は死に体。私も怪我だらけな上にそもそも身体能力が並以下だ。翼を倒してしまえるくらいの力がある彼女にとって私の動きなんて止まって見えるだろう。そんな小細工は必要ない。

 何より私の直感はアレを本心だと伝えている。ひとまず危機は去ったというのに異様さのあまり怖気が走った。

 この不明瞭な言動。あの注射のせいなのだろうか。

 なんにせよこれは好機だ。まだ望みはある。

 『「…なんでも、いいや。早く…終わらせよう…」』

 のそのそと足を引きずるようにして翼に近づく。私もそれに合わせて前に進んだ。暦とすれ違うような形になる。

 「まだ…終われない…」

 荒い息をしながら翼がまた立ち上がった。そして一瞬だけ私の方を向いて笑顔を見せる。大丈夫だというように。私も頷いてそれに応える。

 次は失敗しない。二人で帰るんだ。暦の真後ろに立った。距離は十メートルにも満たない。私でも二秒あれば十分たどり着ける。

 『「なんですか…その目?癇に…障るんだけど…助かるとでも思ってるの?」』

 翼の言葉に反応したのか、虚ろな声に暗い熱が宿る。霧がかかったような声が怒りで存在感を取り戻した。

『「運のいい人はいいなあ。きっといつも誰かが助けに来てくれるからそんな風な目をしていられるんだ。私はあんなに酷いことされたのに誰も助けてくれなかった。止めてって何度言っても笑って踏み躙られた」』

 地団太を踏むように何度も何度も鋏を地面に叩きつける。コンクリートが砕ける音が反響して痛いほどに鼓膜を震わせたが、迷子の子供のような涙声ははっきりと届いた。

「…」

 翼は何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。私も何て言葉を返せばいいのか分からなかった。

『「なに?その顔、同情してるの?憐れんでるの?ふざけないでよ!!そんなのいらない!!私はあの時助けてほしかったんだ!!」』

「暦…」

『「私を傷付けるやつらなんて全員ぐちゃぐちゃになればいい!!助けてくれなかった人達も皆大嫌い!!死んじゃえ!!」』

 子供のような八つ当たりだったがそれを笑うことはできなかった。ただやるせない気持ちだけが胸に残る。

 暦は鋏を大きく降り上げた。今までのように挟み切るつもりはないらしい。胸に突き刺すつもりだ。

 もう待つことは出来ない。駆け出して止めに行く。あまり音が出ないように気は使ったがそれでも気づかれてしまった。暦は即座に振り返る。

『「!?」』

 言葉も出ない程驚いていたようだが、反応は速かった。私の頭蓋を砕かんと凄まじい速度で得物を振り回す。

 対する私は全く反応が出来なかった。しゃがんでやり過ごすことも後退することはもちろん悲鳴をあげたり命乞いをして無様を晒す時間さえも貰えなかった。

 金属塊が私の間近に迫る。しかし紙一重というところで止まった。翼がしがみついて暦の腕を抑えてくれたからだ。

『「放せぇぇ!!」』

 絶叫しながら引きはがそうとするがもう遅い。私の右手が怪物の体に届いた。

『「あああああ!!!」』

 触れると同時に暦の感情と記憶が流れ込む。知らない部屋で知らない男に組み敷かれた時の恐怖を感じた。ナメクジが肌を這うような不快感を覚えた。平気なふりで日常をやり過ごさないといけない悔しさを知った。誰にも助けてもらえない絶望を味わった。

「…!」

 あまりにも痛くて苦しくて手を引っ込めてしまいそうになった。でも、それだけは駄目だ。

 証明したかった。誰もがあなたを見捨てるわけじゃないって。そのためにも絶対にこの手は離せない。

 奇妙な感覚があった。右手が怪物の体の中にめり込んでいく。怪物の無機質な冷たさじゃない。生身の人間の温もりを感じる。

 手を握り締めると布の感触がした。暦だ。本当の暦の体に触れているんだ。

 体重を後ろにかける。小学生の頃に一度だけやった綱引きみたいだ。あの時は行為の意味が分からずただ戸惑っていたけれど今は違う。何のために自分がいるのかはっきりと分かっている。

『「…やめ…やめて」』

「駄目…そこから、出て」

 ブチブチと糸が千切れるような音がする。抵抗する力は強かったがそれでも絶対に離しはしない。

 そしてその瞬間は訪れた。暦と怪物を繋ぎとめる最後の糸が千切れた音がする。支えを失って私の体も倒れた。

 暦が中から引きずり出される。彼女の体は私に負けないくらいボロボロだった。顔の半分が血に塗れ黒いコートはあちこちが裂けている。

 暦から引き離された黒い怪物は動きを止めた。糸が切れた人形のようにガクンと膝を落とす。

 翼はもう限界なのか倒れ伏したまま身じろぎ一つしない。私も限界なんかとっくに超えていたが、まだ役目を果たしていない。なけなしの気力を総動員して立ち上がった。

「う…」

 呻き声を上げて彼女は立ち上がり怪物の下に戻ろうとする。何かに取りつかれたように瞳を濁して。

「もうやめて!やめよう、暦!」

 縋りつくようにして後ろから暦の体を押さえる。服越しとはいえ彼女の体はあまりにも冷たかった。まるで熱を感じない。

「放して…放してよ」

「嫌だ!こんなことしても何にもならないよ!」

 暦は私の言葉に全く反応を示さなかった。何にもならない、そんなことなんて本人が一番よく分かっているからだ。

「人を殺すのが楽しいわけじゃないんでしょ…」

「…一度もしたことがないくせになんで分かるの?一般論?そういうのホント嫌い」

 突き放すような言葉だったけれどそれがまるで自分の言葉みたいで可笑しかった。

「分かるよ…私もしたことがあるから」

 私の返答に暦は僅かだが体を震わせた。

「…私、内気だし協調性ないし、髪の色も変だし、普通じゃないからよくいじめられてたんだ。…嫌だったけれど私にはどうすることも出来なかったから我慢するしかなかった。でも自分が人の心を操ることが出来るんだって分かって、図に乗って、私の大切なものを壊したヤツを屋上から落としたの。…結局死ななかったんだけどね。でも気づくまでは本当に殺したと思ってた。だから、少しは分かると思う」

 たまたま強風に煽られて木に引っかかったのだ。それなりに怪我はしたが大した傷にはならなかった。その後何をしているかは知らない。今まで通り学校に通っているのかもしれないし、怯えて遠いところに行ったのかもしれない。どちらにしてももうあまり関心はない。

「なんとかしてやり返してやりたかった。殺していいと思った。笑いながら落としたよ」

 自分が受けた苦痛を一割でもいいから味合わせたかった。そうしなければ無力感に押しつぶされてしまいそうだったから。

「…でも落ちる瞬間のアイツの顔を見て、急に怖くなった」

 怖がる顔が見たくてわざわざ自分の方に顔を向けさせたまま落とした。それなのにアイツの怯え切った姿を見て私まで体が震えた。ずっと続いた悲鳴が急に途絶えたときには思わずへたりこんでしまった。自分のしたことの結果を見ることもせずにその場から逃げるように立ち去った。

 あれほど憎かったはずなのに、殺してもなにも不利益なんて生まれるはずがなかったのに、終わった後に残ったのは激しい後悔と恐怖だけだった。

 誰にも見られず、誰にも咎められない方法で人を殺したとしても自分自身は覚えている。逃げることなんて出来ない。

「…人殺しで気分がよくなったりするわけないよ。もっと苦しくなるだけ。アナタだって本当は気づいていたんでしょ」

「…だからなんなの?アナタには関係ない…じゃない」

「私達、友達なんでしょ?関係ないなんて言わせない」

 暦にとっては数あるうちの一人かもしれないが私にとっては初めてでただ一人の友人なんだ。その気にさせた責任はちゃんととってもらう。

「…でも、こうすれば、帰ってきて…くれるって……なのに…なんで…なんで…!」

 抱き留めた体と声がどうしようもないくらいに震えている。止めることが出来なくてもせめて受けとめたくて私は腕の力を強く籠めた。

「…あの時、アナタがこうやって抱きしめてくれたの、覚えてる?」

 喫茶店で黒い怪物に抱きしめられたことを思い出す。あの時私を殺せたはずなのにそうしなかったのは、戯れなのか、それとも同情なのか、どちらかはどうでもいい。とにかく言っておきたいことがあった。

「…ありがとう、暦。お母さんみたいに暖かくて、すごく安心した」

 クスクスと小さな笑い声が聞こえた。呆れたような、小馬鹿にしたような音なのに不快には思わなかった。

「…………ふふ、自分を殺そうとしてた相手に、そんなこと言う?」

 暦は振り向いて血濡れた顔を向ける。顔の半分が真っ赤に染まっていたけれど、その笑顔の穏やかさには陰りがない。なんだか初めてこの人の笑顔を見たような気がする

 もう暦から敵意は少しも感じられなかった。瞳からも妄執の色が綺麗に抜け落ちている。

 その様子に安心して私も笑った。張り詰めていた神経が緩んでドッと疲れが舞い込んでくる。

「…生きて、どうすればいいの?償えとでも言うつもり?」

「…分からない。私はアナタに誰かを殺されたわけじゃないし、そんなことを言えるほど立派な生き方してないもの」

「…厳しいね。責めてくれた方がまだ気が楽なのに…」

「でも、でもね暦。償いたいって思っているなら私も手伝う。役になんて立たないかもしれないけど…それでも私…」

 冷たくなった手を右手で包む。自分の世話一つ出来ない人間がこんなこと言う資格なんてないんだろうけれど、それでも頼ってもいいということを伝えたかった。

「いなくなっちゃったっていうアナタの恋人も私が一緒に探すから…だから…!」

 言葉と一緒に涙まで溢れてくる。この人は狂ったフリをして罪の意識から逃れていた。正気に戻ってしまった今、もう逃げられない。誰かが手を下さなくても遅かれ早かれ消えてしまうだろう。

 犯した罪を考えればそれでも温い結末なのかもしれない。だけど私は悲しかった。この人だってほんの少し前までは普通に暮らしていたのに。不幸に見舞われても必死に耐えてきたのに。少しくらい報われたっていいはずなのに。

 暦は握られた手をぼんやりと見つめながら、夢を見ているような調子で頷いた。

「あり、がとう。嬉しい、なあ。ふふふ」

 途切れ途切れの笑い声が止んだ。首がカクンと落ちて表情が見えなくなる。大丈夫かと聞く間もなく暦は仰向けに倒れた。

「え?」

 月明かり、何が起きているのかをすぐに教えてくれた。腹部から血が流れて、コートに大きな染みを作っている。頭のはもっと酷い。肌からは色が完全になくなっていた。

「…寒い。寒いよ」

 紫色になった唇の間からか細い声が漏れる。

「しっかりして!」

 すぐに救急車を呼ばなければ。その前に応急処置だけでもしないと、翼に助けを…ダメだ。今は起きられない、自分でどうにかしないと。

 不意に手を強く握られる。死に瀕しているとは思えない程強い力だ。

「手を離して!早く血を止めないと…!」

 ほとんど泣き叫ぶように絞り出した声も彼女には届かなかった。目の前にいるこの女はもう命を諦めているようだった。

「…幸せだったの。あの人と一緒にいた時だけは幸せだった。私にも隣にいてくれる人がいたんだよ」

 本当だ、嘘じゃない、と彼女は弱弱しい声で自分自身に言い聞かせるように何度も繰り返した。

 氷のような冷たい輝きを帯びた白髪の少年を幻視した。暦の言う“あの人”のものだろうか。

「信じて…くれる?」

 自分の命よりも私の答えを求めているようだった。私は彼女の意思通り命よりも想いを尊重し問いに答えた。

「…最初から、疑ってなんかない。そういうの分かるから」

 そうだった。アナタはそうだったよね、と彼女は微笑んだ。そしてそのやり取りから少し間を置いて彼女はまた口を開いた。

「……ねえ?あの人は来てくれるよね。ちゃんと…言うとおりに…したんだから」

 口にした本人自身が誰よりも叶わないことを知っている。祈りのような言葉。それを聞いて私は彼女を恨んだ。来ない、なんて言えるわけないだろうに。

「…うん。きっと来てくれるよ」

 私は血を吐くような思いで嘘を吐き出し、彼女はそれを笑って受け取った。なんて欺瞞に満ちた会話なんだろう。

「…………よかった…私……いた…こと…た……ん…あ……ら」

 声も呼吸の音もどんどん小さくなっていく。言葉を聞き取ることはもうできない。手のひらから伝わる思念も弱まっている。

 見ていられなかった。人の命がジリジリと消えていく様なんて直視に堪えない。

 それでも見なくちゃいけないことは分かっていた。だから血が出そうなくらい強く唇を噛んで、涙が溜まった目を強引に開けた。そうでもしないと逃げ出してしまいそうだったから。

 「ぁ…………て………る…………」

 「え?」

 何かを言ったのは分かったが声が小さすぎてまるで聞こえなかった。もう一度言ってもらわないと。

 「なんて言ったの?」

 震える声で訊いても返事がこない。少し待った。けれどまだこない。体を揺すって催促した。それでもこない。返事はいつまで経っても返ってこなかった

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