第19話

 身体が粉々になってしまうかと思うほどの激痛の後、今まで感じたことのないような歓喜が全身を満たした。

 ─くんが私の中にいる。─くんが私に力を貸してくれている。

 空を飛ぶように走りながら私は声を上げる。視界に入るもの全てが手に入りそうな気がするくらいに私の体は力が漲っていた。

 こんなに爽快な気分はいつ以来だろう。初めて人を殺した時だってこんなに晴れやかな気分ではなかった。

 あの時のことはよく覚えている。─くんが消えてしまって、どうしようもなく落ち込んでいた時、急にあの女が家に押しかけてきた。

『お前のせいでミノルがおかしくなった』

『いつも通り素直に言うことを聞いてればよかったのに』

 訳の分からない言葉を吐きながら首を絞めてきた。瞳孔は怒りからか点のようになり、顔は真っ赤で、口の端から泡まで溢れていた。今思い返してみるとカニみたいだった。

 あの時、夢中で手元にあった鋏を突き立てて追い払った。もう少し力を込められていたら死んでいたかもしれない。

 悲鳴をあげながら逃げる女の背中を見た時、胸の中で殺意が膨れ上がるのを感じた。

 ずっと我慢していた。きっとこの子もアイツに騙された、私と同じ被害者なんだって。私を売るようなことをしたのもきっと脅されて仕方なくやったことなんだって。けれど、もう耐えられない。

 私を騙してあんなに酷い目に遭わせたのに何故被害者面をしているのだろうか。あんなことさえなければ私は綺麗なままでいられたのに。

 そう思った瞬間、不思議なことが起こった。体が羽のように軽くなったのだ。信じられない程力が溢れていて、まるで超人にでもなったみたいだった。

 さらにあの女の居場所が手に取るように把握できた。どこに逃げられても追いかけられるような気までした。

 夢を見ているようなフワフワとした気分の中で走った。部屋の中まで追いかけてズタズタに殺してやった。

 バラバラになっていく身体を見るのはとても気持ちよくて 

 気持ち悪かった。

 あのクズも一緒にいたけれど手を出すことは出来なかった。殺したくて仕方がなかったのに。その時に自分の力がどういうものなのか理解した。『傷をつけた相手しか殺せない』のだと。

 それに気づいた後はゆーちゃんが言った通りの方法で人を殺していった。飲み物に薬を盛って眠った相手の手の甲に傷をつけた。

 中には眠らない人やそもそも手を付けない人もいたけれど別に問題はなかった。他の相手を見つければいいだけなのだから。

 あの人達に恨みはなかったけれど仕方がない。彼に戻ってきてもらうためなのだから。

           私だけが酷い目に遭うのは不公平だからとにかく他の人達も苦しんでほしかった。

 それに楽しくて仕方ないのだ。止める必要なんてどこにもない。


     もうやめないといけないって分かっているはずなのに。


 しかし標的に選んだあの子に私みたいな特別な力があったのは不運だった。殺すことに失敗したのみならず、正体もバレて追い詰められてしまうとは。

 でももうお終いだ。今の私はあの少年より強い。あんなお人好しで不幸なんて何一つ知らなそうな子供に負けるはずがない。

 今だって別に逃げているわけじゃない。ただ自分がどれだけ動けるのかを確認しているだけ。準備運動みたいなものだ。

 私はツバサ君を殺す。それからゆーちゃんも。その後は、その後は…

 彼が戻ってくるまで。それまで続けると私は言った、けれど本当に終わりなんて来るのだろうか。もうたくさん殺したのだから戻ってきてもいいはずじゃないのか。そもそもあの女が家に来た夜、なんで私を助けてくれなかっ――

『「――」』

 それ以上は駄目だ。とにかく今は降りかかる火の粉を払うことだけを考えよう。

 猛毒のように胸の中で広がる不安から逃げるために、背後から迫る敵へ意識を向ける。このペースならそろそろ追いつかれるだろう。

『「今度は負けません。覚悟してください」』


 追いかけ始めてから約三分、中々追いつくことができない。全速力を出せば捕まえられる自信はある。だが上手く足を動かすことが出来なかった。

 正直なところあの怪物に怯えていた。鋏の投擲による壊滅的なまでの破壊力、それを繰り出すあの体には今まで以上の力が漲っているのだろう。

 以前より遥かに力を増したあの怪物に太刀打ちできるのか…

「いや、関係ない」

 オレには退く選択肢はない。ここで切花を逃がせば、大勢の人がまた殺される。それに唯の命も危ない。

 傷をつけられている以上唯は常に命を握られている状態にある。昼下がりでも深夜でも、オレ達が隙を見せた瞬間にあれを呼び出せば、それだけで彼女は殺される。

 止めたければ戦うしかない。覚悟を決めて速度を上げた。

 風を追い越してビルの上を跳び続ける。

 小さな黒い点でしかなかった怪物は段々と大きく、形もハッキリしてきた。あと三十秒もあれば触れることが出来る。

 初手は何がいいだろうか。跳び蹴りか。いや、流石に隙が大きすぎる。相手の手の内がまだ分からない以上迂闊な行動は出来ない。

 攻撃は駄目だ。まずは様子見に徹そう。近づけば相手から攻撃してくるはず。そこで間合いを測る。

 二十メートルほどの距離に入った。秒数で言えば残り十五、十四、十三、十二、十一、十

 秒数が十を切る直前、それは起こった。

「─!」

 ブオンと風を巻き込みながら何かが飛んできた。すんでのところで頭を屈めて躱す。

 回避したことに安堵する余裕はなかった。飛来物は休むことなくオレめがけて飛んでくる。

 身体を捻り、跳んで、時にはそのまま突っ切って躱していく内に投擲物の正体が見えた。

 室外機、アンテナ、花瓶、コンクリート片、屋上にあるものを手当たり次第に投げているのだ。当たれば怪我では済まない。

「近寄らせないつもりか…!?」

『「アハハハハ!」』

 予想は裏切られた。肉食獣の威嚇めいた笑い声とともに黒いシルエットが飛び掛かってくる。

 空を仰ぐようにして上体を逸らし、体当たりを躱す。だが、

「!?」

 怪物を追いかけるようにしてあの鋏がオレに迫ってきた。体当たりをする前に髪で鋏を掴んでいたのだろう。オレが一撃目を躱しても仕留められるように用意した二段構え。

「くっ!!」

 それをギリギリのところで蹴り上げ軌道を逸らした。一センチズレていれば骨が粉々になり、その時点で敗北が決まっていただろう。

『「曲芸師みたいですね。あ、もしかしてそういう職業に憧れがあったり?」』

 ノイズが混じったような不可思議な声。けれど、その口調、声音の根本は間違いなく切花暦のものだった。改めて今、自分が怪物とではなく、人間と戦っているのだということを実感した。

「…そんなことはないですよ。そっちこそ、その仰々しい格好でスプラッタ映画にでも出るつもりですか?」

『「うーん。私ああいう気持ち悪いのってあんまり好きじゃないんですよね。向いているとは思うんですけど」』

 会話は、通じる。冗談めかした言葉も口にできる。本当にただの人間だ。分かり切った事実だというのに、戦意が削げ落ちていくのを感じる。

「…どうしても、止めてくれないんですか?」

『「…しつこいなあ。帰ってくるまで続けるって言ったじゃないですか?」』

 説得は無理そうだ。言葉は通じるがそれ以上に大きな壁が立っているのを感じる。

『「この際はっきりさせておきます。私は止めないし、二人も殺します。邪魔ばっかりしてくるもの」』

「…」

『「それに翼クンにはちょっと恨みがあるんです。散々私のことを虐めてくれちゃって…」』

 巨大なシルエットが自分の体を抱きながらプルプルと震える。声に合わせて辺り一面に広がり景色を侵食する黒い頭髪の束、まるで憎悪が形を得て外に漏れ出ているかのようだった。

『「ぐちゃぐちゃになって死んじゃえ!!」』

 煮えたぎった毒のような殺意とともに黒い髪がオレの体を引きちぎりにかかる。四方八方から繰り出される攻撃の前には後退を選ぶほかない。以前のようにかいくぐろうとすればたちまち全方位を囲まれて…どうなるかは考えたくもない。

 量も速度も倍近く向上している。髪の毛を槍の穂先のように変形させる、モノを掴み投擲する、足代わりにする、などの挙動から推察するに自由度も上がっているみたいだ。

 それに傷をつけていないオレにここまで攻撃できるということは例の制約もなくなったと見ていいだろう。そういう意味でも危険度は跳ね上がっている。

 黒く、大きく、獰猛で、誰にも負けない怪物。道すがら唯から考察を聞いた。彼女が言うにはあの姿は切花暦という人物の願望なのだと。

 男たちに辱められていた間、彼女はある空想に縋っていた。怪物になって自分を苦しめる人間たちに復習をするという幼稚で切実な夢に。日記に書き殴られたあの絵はそういう意味なのだと、唯が苦しそうに語っていたのを覚えている。

 切花のことは正直よく分からない。会って数日しか経っていないし、唯と違って心を読む力もない。日記を読んでも彼女のことを完全に理解できたとは思っていない。

 だけど、唯と話している時の彼女はとても楽しそうだった。それこそ見ているだけで頬が緩んでしまうほどに。

 結局は演技だったのかもしれない。だとしても、こうして狂気に墜ちてしまうよりは何倍もよかったように思える。

『「逃げ回ってばかり!!わざわざ追いかけてきたのはそっちでしょ!?」』

 追想が怒声で打ち切られる。返す言葉もない。指摘通りオレは後退し、時には建物を替えながら逃げ続けている。何も対抗策が浮かばないからだ。

 近づけば髪に囲まれる。離れても投擲は止まない。こちらが投げ返しても撃ち落されるのがオチだ。

 段々と切花の狙いが正確になっているのも感じる。数分前まではオレから十センチほどずれた場所に投げられていたガラクタも今ではもう指一本分までに近づいていた。オレを追い続ける髪の毛も振り切るのが難しくなり始めている。走る方向を急に変えても、跳び上がってもピッタリと付いてくる。まるで蛇の大群に襲われているみたいだ。

『「勝ち目がないっていい加減分かったでしょう?そろそろ諦めて死んでください」』

 切花は高所に陣取り勝ち誇ったように笑う。新しい玩具を与えられた子供のようなはしゃぎようだ。同情すべき背景を持っているのは分かっているがイラついた。

「…さっきオレに怒ってるとかなんとか言ってましたよね」

 病院の屋上で泣きじゃくっていた唯の姿を思い出す。肩が外れて頭も割られて、そんな状態で追いかけられてどれだけ怖かったのだろうか。

「オレも同じです。唯を傷つけたアンタを許さない」

 境遇には同情する。動機も辛うじて理解は出来る。それでも唯を傷つけ、未だに命を狙うこの女のことをオレはどうしても認めることが出来ない。

『「…ハ。許さないからなんだって言うんですか?どうせ私には」』

 口を開いて気が緩んだこの瞬間、足元に置かれている空調機の残骸を顔面目掛けて蹴り上げた。

 直撃することまでは期待していなかった、ただ次打つ手の布石として放っただけだった。

 それが─

『「キャッ!?」』

 蹴り飛ばしたガラクタは切花の顔面を見事に打ち据えた。以前戦った時も思ったが、相手に攻撃することばかりに夢中で防御がお粗末だ。喧嘩慣れしていないからだろう。

 左手で頭を押さえて切花はよろめく。髪の毛も主同様困惑したように蠢いていた。今なら近づいて叩けるかもしれないが堪える。迂闊に飛び出すのは危険だ。計画した通りにやるべきだ。

『「このォ!!」』

 顔を上げた瞬間、間髪入れず砂を固めて作った球を投げる。切花が投げた花瓶から零れ落ちたものだ。本当はさっきのガラクタを弾かれた時の保険として使うつもりだった。

『「っ!?見え…!?なにっ…これ!?」』

 今度は鋏でしっかりと対応されたが投げたのは砂の球だ。握力で球状の形に留めていたが衝撃を受ければすぐ元に戻る。十数秒は周りがよく見えないだろう。

 投げ終わったと同時に事前に目をつけていたあの場所まで駆け出す。向こうが混乱したままその場に留まってくれれば楽だが───

『「お前ェ!!」』

 臓腑にまで響くような叫び声を上げて切花が追いかけてくる。完全に怒らせたみたいだ。

 後先を考えない、ロケットのような全力疾走、それに加え髪を利用してこちらの走りを妨害してくる。

 追いつかれる。火を見るよりも明らかだ。避けようはない。だが、それで構わなかった。

 目的地、いや正しくは目的物にたどり着いた。三メートル手前で跳び、それに張り付く。

 振り向いたと同時に切花も足を止める。影に覆われた顔から覗き出るその目は砂と怒りで真っ赤に染まっていた。

『「よくもあんなに汚いものを…私の顔に…気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」』

 呪いのように何度も同じ言葉を呟き続けるその姿はあの日の唯とどこか重なって見えた。胸の中に小さな穴が空いたような気持ちになる。

 周囲はすでに髪の毛で作られた黒い檻に覆われていた。どれほどの力があるかは分からないが容易には引きちぎられないだろう。

『「痛めつけるつもりはなかったんですけれど、気が変わりました。一杯嬲ってから殺します。それでも私がされたよりはずっとマシでしょうけどね」』

 瞳も言葉も全てオレに向けられている筈なのになぜだろうか、目の前の女が自分に話しかけているようには思えなかった。

 背にしている金属の壁を軽く小突く。中で液体が揺れる感触がした。量も十分あることが反響音で分かった。

「…切花さん」

『「命乞いですか?チャンスはあげましたよね?」』

「オレが今何を背にしてるか見えてます?」

『「え?」』

 拳を振りかぶって鉄の殻をぶちぬく。出口を与えられた液体は勢いよくオレ達の体を巻き込んだ。

『「また…小細工を…!!」』

 怒りの言葉を吐き捨てて髪の毛を動かした。しかし、その動きは以前より遥かに緩慢で範囲も狭くなっている。

『「あれ?なんで…?」』

 身を逸らして回避し、そのまま膝前蹴りを胸部に打ち込む。放心状態の切花はもろにそれを食らった。

 さっき穴を開けたのは貯水タンクで中に入っていたのはただの水だ。別段大したものではない。

 追いかけられている最中ふと思ったのだ。髪の毛ならば水で重くなるんじゃないのかと。美月もロングヘアだがいつも『手入れ面倒だし、頭が重い』と愚痴を零していた。シャワーを浴びるときはもっと重たくなるとも。

 髪の量が増えれば水を吸う量もそれに比例して増える。あの毛量にあの長さだ。相当な負荷がかかっているとみて間違いない。実際以前のような機敏さは失われた。

 そしてこれもまた当然だが、水を浴びれば髪は束になりやすい。動かし辛くなるだろうと予想していたし、幸運なことにこれも当たった。

 こんな発想が産まれたのは怪物が、特にその髪の毛が以前のように幻のように曖昧にではなく、はっきりとした質感をもったものに見えたからだ。もしあのぼやけた見た目のままなら水をかけようなどとは思いつかなかっただろう。

『「こんなことで…!」』

 しかし切花の戦意は未だに萎えていない。髪の毛が使えなくなったとしても彼女にはまだ鋏とあの怪物じみた膂力が残っている。これでようやくイーブンといったところか。

 風に煽られて体がドッと冷える。濡れたせいで寒さが余計に身に沁みた。。

 距離は六メートル。互いに詰めようと思えば一息で詰められる距離。だからこそ迂闊には動けなかった。

 西部劇のガンマンのような睨み合いが続く。

 先に動いたのは切花だった。ほとんど悲鳴に近い叫び声を上げながらこちらに踏み込み、両手に持った凶器を水平に薙ぐ。単調だがその速さは驚異的だ。

 紙一重で上体を後ろに反らし回避する。そのまま両手をバネにして切花の顎を蹴り上げた。 

『「…」』

 普通の人間ならこれだけで昏倒するはず。そんな甘い考えがまだ頭の隅に残っていた。自分が今相対しているのは怪物だというのに。

 切花は顎の衝撃を意にも介さずオレの足首を掴んだ。まるで効いていないみたいだ。

『「アァ!!」』

 視界が揺れ動く。コンクリートのタイルが間近に迫る。全身に鈍い痛みが走った。

 地面に体を叩きつけられたのだ。柔道のような技巧によるものではなく力任せの荒業だがそれゆえに凄まじい威力だった。頭がグラグラと揺れて思考がまとまらない。

 身を捩じらして上を向くと切花は既に鋏を振り上げていた。頭の位置をずらしてどうにかこれも回避した。

 だがそれで終わりではない。腹にのしかかられ、すぐさま拳が振り下ろされる。

 顔面に一撃入れられ鼻から血が垂れ流しになる。鉄臭い匂いが鼻の中に広がった、

『「死ね!死ね!死ねっ!!」』

 隙間のない打撃が雨のように降り注ぐ。両手で頭を庇ってはいるがすさまじい衝撃だ。一発ごとに骨が軋む。

 殴っている切花にも痛みはある筈なのに威力も速度もまるで衰えない。むしろ増している気さえする。

 さっき蹴りを入れた時もそうだった。痛みを我慢しているなんてものじゃなかった。あれはもう…

「うっ…!」

 考えている暇はない。このままでは殺される。

 腕のガードを解き、切花の左手首を自分の左手で掴む。そのまま二の腕に右手を絡みつけ上体を左に捻った。

『「!」』

 切花が転がってようやく解放される。美月が格闘技好きで助かった。マウントポジションからの抜け出し方なんて物騒な話を聞いていなかったらあのまま死んでいただろう。

 立ち上がって再び距離を詰める。遠間から致命打を入れるような能力がオレにはない。どれだけ危険でも近寄るしかなかった。

 数歩踏み出したところで突然動きが止まった。右手に何か重しがつけられたみたいだ。切花が倒れたまま嘲るような笑い声をあげる。

『「水をかけられたからって完全に使えなくなったわけじゃないんですよ。間抜けですね」』

 右手にはどす黒い髪の束が幾重にも巻き付けられていた。オレに気づかれないよう地面にゆっくりと這わせていたらしい。

 髪の毛は蛇のように這い上って、首に絡みついた。万力を込めて気道を締めあげ始める。

「………!」

 息が出来ない。視界が白く霞む、それだけじゃない。五感全てが鈍くなっている。現実が遠のいていくみたいだ。海の底に沈むあの感覚によく似ている。

『「安心してください。ちゃんと唯ちゃんもすぐに殺してあげます。だって好きな人がいなくなっちゃったら生きていても辛いだけでしょ。そんな目には遭わせたくありませんから」』

 酸素不足で鈍った頭でも今の言葉だけははっきりと聞き取れた。唯を殺す?辛い目には遭わせたくない?

 身勝手な言い分にどうしようもなく怒りがこみ上げてくる。そのおかげで切れかけた意識の線が繋がった。

 喉が壊れるほどに声を張り上げて、奥歯が潰れそうなほど歯を食いしばった。首を絞めつける髪を引き千切る。

『「何をやったって逃がさない!」』

 怪物が叫ぶ。千切れた髪の損失を補うようにすぐさま髪の毛が這い上る。

 逃げる、それは見当違いだ。そんなつもりは欠片もない。

 右手に絡みついた髪をしっかりと掴む。そして左足を軸にして独楽のように回りながら怪物の体を力任せに振り回した。

『「キャッ!?」』

 怪物が悲鳴をあげる。遠心力で脳も臓腑も滅茶苦茶に揺らされているのだ。痛みがなくても恐怖は感じるだろう。

 だが手を緩めるわけにはいかない。こっちだって体力が限界に近いんだ。ここで決めれなければもう後がない。

 手を離した。何度目の回転かは自分でも分からない。するりと髪の毛が右手から離れていく。

 怪物のシルエットは流れ星のようなスピードで遠のいていった。倉庫なのか工場なのかはここからでは分からないが、大きな建造物の屋根を突き破って建物に入ったところまでは見て取れた。

 膝をついて荒く呼吸する。汗もどっと流れてきた。右腕も自分の体じゃないみたいに重い、筋を痛めたか。危機的状況を脱して体が不調をうるさいほどに訴え始めた。

「…まだ終わりじゃない」

 しばらく這いつくばっていたかったが、今は出来ない。あの速度、あの高さから地面に叩きつけられたのだから無事ではないと信じたいが、確認しなければ。逃げられたら終わりなのだ。

 疲弊しきった体に鞭を打ち、もう一度立ち上がる。その場で軽く跳んでみたところもう動けそうだった。十分とは言えないが息を整えられた。

 ビルの屋上を伝って怪物が落ちた建物の屋根に飛び移る。それだけで息が切れた。疲れを再び実感する。

 怪物が作った穴から中に入る。着地時に衝撃と痛みが走ったが無視する。辺りを見渡すと段ボールや鉄パイプなどがあちこちに散乱していた。見通しも悪い。この荒れ様から見て、もう使われていない廃倉庫のようだ。

『ァ ァ』

 弱弱しい呻き声をあげて怪物は地べたを這っていた。瀕死の虫のようにのろくて、ぎこちない動きだ。心なしかその大きさも縮んでいるように見える。

 その姿と駅のホームで途方に暮れていた少女のそれが重なって見えた。

「…切花さん」

 これだけ弱っているのなら縊り殺すのも踏み殺すのも容易い。そして自分たちのためにも、犠牲者のためにもそうするべきだ。

 けれど、覚悟がどうしても定まらなかった。頭ではその必要性を理解しているのに心がそれに従ってくれない。

 行動に移すまではいかずとも、誰だって他人に敵意や殺意を抱くことはあるはずだ。切花の置かれていたような境遇なら猶更だ。

 そんな時に容易く人を殺せる力を持たされたら、その誘惑に耐えられるだろうか。オレだって父親が死んだ時、誰かが寄り添ってくれなかったらきっととんでもない過ちを犯していた。唯もそうだ。オレが止めなかったらもっと恐ろしいことに手を染めていただろう。

 彼女はボタンを一つ掛け違えてしまっただけだ。オレ達とそう変わらない。それなのに簡単に殺すことを決めてしまっていいのだろうか。

 間違えたら、もう二度とやり直せないのだろうか。本当にそうなら…

「…切花さん。オレも力になるから。そこから出よう」

 きっとこの行為は正しくないのだろう。でも、オレにはどうしても殺すことが出来ない。

 彼女に近づき、ゆっくりと手を伸ばす。手のひらが縋るようにオレに近づいて、触れあいそうになった瞬間



「――とっても優しいんですね、翼クン」

 背後から冷たい声と強い衝撃が伝わった。焼きごてでも当てられているのではないかと勘違いするような熱く激しい痛みが襲いかかる。

「ぁ、え?」

「でも、だめです。私の大切な人はあなたじゃないもの」

 冷たく硬いなにかが皮膚を切り裂き、骨にまで触れている。その不快感と痛みに吐き気すらこみ上げてきた。

 後ろから誰かが、切花がオレを刺した。五感はそうオレに伝えているが、信じられない。だって、彼女は目の前に…

「そんなに不思議ですか?元々この子は私から離れて動いていたんですよ。だから、こんな風にも動かせるんです」

 先ほどまでピクピクと痙攣していた怪人は軽快に立ち上がり小躍りまでし始めた。

「フフ、上手上手」

 我が子をあやす親のような声のまま、切花は刃物にかけた力を強め、さらにオレの体に抉り込ませた。

 苦痛から逃れるために、肘で切花を押しのけ、刃物を抜いた。が、

 眼前の怪人の鋏が左腕に叩き付けられる。衝撃は腕だけじゃなくあばらにまで響いた。骨が砕け、思考が飛ぶ。体は途轍もない力で吹き飛ばされ、乱雑に積まれていた鉄材に叩きつけられた。

 立ち上がることすらままならない。殴り飛ばされた場所から続く血の跡が負傷の程を教えてくれた。

 切花の体も無傷ではなかった。高所からの落下で付いたと思われる頭の傷からは見るのも憚られるほどに血を垂れ流している。やはり痛みを感じていないようで、傷口を抑えるそぶりすら見せない。その血が目に垂れてようやく負傷に気づいたようだった。

「?ああ、頭割れちゃってたんですね。ゆーちゃんとおそろいだ」

 空っぽな笑い声をあげてもう一度オレに視線を向けた

 「…もうすぐ、もうすぐなんです…きっとあの人はもうすぐ…」

 虚ろな声がこだまする。目の焦点も定まっていない。自分が何を言っているのかも分かっていないみたいだった。

 黒い影は切花を食うように取り込む。再び体が肥大化しその威容を取り戻した。

『「殺さないと…殺さないと…また、酷い目に逢わされちゃう」』

 崩れそうな脆い声が消えつつある戦意を更に削いでいく。無理矢理犯された恐怖と恥辱がこの人の心を今も苛んでいるのだろう。もはや現実が見えていないみたいだ。いや最初からそうだったのかもしれない。話している間ずっと違う世界にいるような感覚があった。  

 音を立てて鋏を引きずりながらこちらに近づいてくる。勝てない。殺される。そんな文言しか頭に浮かばなかった。

 左腕はもう使えない。肋骨にも罅が入っている。相手も相当な深手を負っているはずだが痛みを感じないのなら何の足しにもならない。今まで通り苛烈に攻めてくるだろう。

「それでも…」

 転がっている鉄パイプを杖にして立ち上がる。こうでもしないと立つことが出来ない。

 大人しく殺されるわけには、諦めるわけにはいかなかった。オレが死ぬだけならまだいい。けれど唯が殺されることだけは許容できない。オレが甘さを捨てきれなかったからこんなことになったんだ。投げ出すことなんて許されない。

 それに、唯だって諦めなかった。オレを信じて戦い続けた。オレもなにかを信じてやれるとこまでやってみよう。

『「消えて…早く消えてよ!!」』

「…!」

 呪詛とともに迫る黒い怪物を真正面から見据える。数手先の敗北を少しでも先延ばしにするための絶望的な抵抗が始まった。

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