第21話

「…寒い。寒いよ」

 頭とお腹から熱が零れ出ていく。体がだんだんと冷たくなっていく。あれほど胸を苛んでいた痛みもなくなり始めていた。ああ、死ぬんだ、と。ぼやけていく思考の中でそれだけが強く頭に響いた。

 私はもうとっくにダメになっていたんだ。あの注射を打ってから身体の痛みは消えてしまっていたから気づかなかった。

 穢れなんて知らないように無垢で小さな手が目の前に差し出されていた。それが自分を救ってくれるような気がして縋るような思いで掴んだ。

 とても温かくて優しかった。あんなに酷いことをしたのにこの子は私のことを嫌っていなかった。

 それに引き換え私はなんてことをしでかしてしまったのだろう。こんな風に落ちぶれてしまったのだろうか。

 最初はほんの出来心だった。神田を殺した次の日、客の髪を切っている最中、この人の肌を切ればどうなるのだろうという興味が湧いたのだ。

 アイツに鋏を突き立てた次の日、アイツは死んだ。バラバラになって。

 初めはそれが自分のせいだとは思えなかった。鋏で刺しただけで死ぬなんて、呪いかなにかみたいじゃないか。

 それにいくら憎い相手だからといって人を殺したという事実を私は受け入れられなかった。私は悪くない。悪いのはアイツらで私はただの被害者だ。そうでないといけなかった。

 やるのは簡単だった。施術中に眠ってしまう人は少なくないし、私の店では無料で飲み物を提供する。睡眠薬を混ぜれば眠る確率を上げられる。効きが悪くても次を待てばいい。

 眠らせた後は体に傷をつけるだけだ。痛覚が鈍い手の甲に鋏でほんの少し切り込みを入れる。ほんの一瞬で終わるしクロスに隠されているから他の人間に見られることもない。

 しかしいくら簡単とはいえ躊躇った。何度も自問自答してその度に止めようと思った。自分を信頼して体を預けてくれた人に傷をつけるなんて。

 けれど眼前で無防備に横たわる客の姿を見て、最後は好奇心に負けてしまった。自分の無罪を証明するためにまた罪を犯した。

 仕事が終わって、眠りについた後、またあの夢を見た。怪物になって人を切る、不快な夢を。

 夢の中で私はその日相手をした客の首を落とした。髪の毛が崩れないように気をつけないと、なんて場違いなことを考えていたことを朧気ながら覚えている。

 起きた後、急いでニュースを確認した。ただの夢でありますように、と願って。

 本当に死んでいた。名前も顔も自分が傷をつけた相手と同じだった。

 とてつもない恐怖を感じた。見えないなにかがこちらをジッと見つめて私を咎めている気がしてなにも手がつかなかった。

 目が回るような混乱の中、彼が最後に残した言葉を思い出した。『キミはいい人だから一緒にいられない』、言い換えれば悪い人なら一緒にいられる、悪いことをしてもいいんだと。

 胸が躍って重荷が消えてなくなった、ような気がした。自分の殺人を正当化できると思った。彼の言葉に従っているだけなのだから自分は悪くない。

 全部彼のせいにしていたのだと、今になって、いや最初から気づいていた。私は自分の一番大切だった、彼との思い出まで踏み躙ってしまっていたのだ。

 人を殺すことにどこか快楽を感じていたことも事実だった。奪われる側から奪う側に回ってみたいと心の片隅で思っていたのだ。

 本当に悪い夢でも見ていたようだった。怪物になって一杯人を殺して、気持ち悪いのに気持ちよくて、止めたいのに止められなかった。

 そして醒めた頃にはこの有様。過ちを正す時間ももう残っていなかった。

「手を離して!早く血を止めないと…!」

 離れようとする腕が逃げないように力を籠める。いやだ。この子にまで置いて行かれたくない。もう助からないのだからせめて私を見ていてほしい。

「…幸せだったの。あの人と一緒にいた時だけは幸せだった。私にも隣にいてくれる人がいたんだよ」

 自分の人生は不幸なだけじゃなかったってこの子に知って欲しかった。幸せな時があったって覚えてほしかった。そうでないとその事実すら消えてしまいそうな気がして。

「信じて…くれる?」

「…最初から、疑ってなんかない。そういうの分かるから」

 そう言ってゆーちゃんは笑ったような気がした。だけど、それすらもよく見えない。だんだんと世界が白くぼやけていく。雪嵐の中にいるみたい。

「……ねえ?あの人は来てくれるよね。ちゃんと…言うとおりに…したんだから」

「…うん。きっと来てくれるよ」

 優しい嘘だった。彼が来るはずはない。来ても、もう間に合わないだろう。でもそう言ってくれて嬉しかった。本当はウソを言わせたことを謝りたかったけれど、そんなことをしてこの子の優しさを踏み躙っては元も子もない。

「…………よかった…私…言いたいこと…沢山…あるから」

 友達が出来たって言いたかった。酷い過ちを犯してしまったと泣きじゃくりたかった。なんで置いていったのかと文句を叩きつけてやりたかった。

 でもやっぱり一番言いたいことはただ一つだった。

 「あ…い…し……て……る……………」

 劇場が終わる時のように頭の中で帳が落ちて、全てが黒く塗りつぶされた。


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