第14話

 翼が逃走して二時間後、なんとか事態は収束した。彼とジャンパーの警官が追いかけっこをしている間に刑事の記憶を読み取り、数分間の記憶を消して、『自分は誰とも会わず座って休憩時間を過ごしていた』というものに差し替えた後、起こした。

 ジャンパー男が帰ってきたときにはもうすでに刑事は現場に戻っている。仮に担がれて誘拐されそうになっていたなんて話を周りにしたとしても信じる者はいなかっただろう。

 その後は翼をマンションまで呼び戻し、服を着替えさせて、気絶させた二人の記憶を少しだけ弄ってから目覚めさせた。作業員のお兄さんには服を返して、管理人のおじさんには私たちが映っている監視カメラの映像を消すように命じておいたから証拠も残っていない。

 そうして私たちは公園のベンチに座っている。昨日と同じで人通りが少なくてまるで二人だけで占有しているような気分になった。

 全てが思った通りに進んだわけではないが概ね上手く行った。

 「いやーもう檻の中で青春を過ごすのかと諦めかけたよ。助かった、ありがとう唯」

 「…ん。パートナーのフォローをするのは当然だから。感謝は不要…」

 「それにしても偉く機転を利かせたね。本当に感心したよ」

 「ムフフ…褒めて褒めて」

 礼は不要だと殊勝なことを言ったが、やはり賛辞の言葉は心地いい。定期的に彼をピンチに遭わせてそれを助ければこの快感をいつでも味わえるのではなかろうか、などという邪悪な思考まで過るほどだ。

 しかし甘美な感覚は長く続かなかった。突然視界が明滅し鋭い頭痛が頭の中を電流のように駆け巡る。

 「うっ…」

 こんなにいい気分だというのに一体何なのだろうか。私の体ももう少し空気を読んでくれればいいものを。

 「…大丈夫?」

 「…うん。平気。少し、疲れただけだから」

 少しの間目を閉じていると、眩暈はだいぶ和らいできた。なんてことはない。こんなのはいつものことじゃないか。

 平気だと言っても彼の心配そうな表情は変わらなかった。だが今は話を進めなければ。早ければ今夜もまた被害者が増えるかもしれない。

 「…結果から話すね。あの刑事の記憶を読んで色々なことが分かったの。被害者の共通点に、犯人かもしれないヤツの名前も」

 言葉を連ねるほどにのぼせ上っていた思考がウソみたいに冷たくなっていく。頭痛のせいもあるが、それだけじゃない。これから話す内容はあまり気分がいいものではないからだ。もちろん首切り殺人なんておぞましい事件の話なんだから気分がよくなるわけないが、この話は違う意味で性質が悪い。

 しかし事件の説明をするためには避けて通れない。胸の中に溜まった躊躇いと一緒に息を吐き出して口火を切る。

 「私たちが最初の事件だと思っていた路地裏の殺人、あれは本当は二番目だったの」


 二番目、彼女はそう口にした。しかしそんなことが有り得るのだろうか。覚えている限りあれより前に首切り殺人なんてものは起こっていなかった。ネットで検索したときも路地裏で起こったあの事件より前のものはなかった。少なくとも報道されている中では。ということは…

 「警察が報道しなかった事件があったってこと…?」

 「…ううん。報道はされてたの。翼も見たんじゃないかな」

 報道されていた。その言葉を聞いてますます混乱する。直近でそんなことが起きていたのに覚えていないなんて

 「…思い出せないのは当たり前なんだよ。だってバラバラ殺人って言われてたんだから」

 バラバラ殺人、その物騒な響きでようやく思い出した。確か美月が帰ってくる二、三日前に起こった事件だ。被害者が首切り殺人と同じように若い女性だったのも覚えている。

 「…殺人事件が起こったら当然どんな凶器で殺されたか調べるよね。それで被害者が同じ刃物で殺されてたことが分かったの」

 当たり前と言えば当たり前のことだが少し驚かされた。超能力で起こした犯罪に科学捜査なんて役に立つはずがないと思い込んでいたから。

「…それと、もう一つ、殺された人たちの手の甲には薄い傷がついていた…バラバラになった最初の人は、ぐちゃぐちゃになっていたせいで分からなかったらしいんだけど」

 唯はまるでその光景を見たかのように顔を歪める。いや、刑事から記憶を読み取ったというのだから本当にその惨状を知っているのかもしれない。

「…警察はあまり重要視していなかったみたいだけど、私はそれが凄く引っかかった。全員が日常生活であんな傷をつけるとは考えにくいもの。指の腹とか膝とかじゃなくて手の甲なんだよ」

「手の甲ね…小さなころならあったかもしれないけど、最近はないかな」

「偶然についたものじゃないとすれば誰かが意図的にやったってこと。それでようやく本題に入るんだけど、この傷はなにがつけたんだと思う?」

 突然の質問に戸惑った。そんなの決まってるじゃないか。

「犯人じゃないのか。他にそんなことをするやつがいるとは思えないし」

「どうやって?」

「あの黒いヤツを使ったんじゃないのかな。でっかい鋏で」

 アレは突然現れて突然消えることが出来るのだ。造作もないだろう。

「何のために?」

 「えっと…」

 返答に窮した。被害者全員についていたというのだから間違いなく犯人の仕業であると考えた。しかしその理由が思いつかない。

 なんとかそれらしい答えを思い付いた。それを口にしてみる。

「連続殺人鬼って目立ちたがり屋だろ。自己アピールのためにやってるんじゃ」

「それはないよ。首切殺人ってだけでもう十分目立ってるし、本当に小さな傷なんだよ。傷を負わされた本人も気づいていないくらいの」

「聞けば聞くほど分からなくなってくるな。そんな無駄なことしないでいっそのこと最初から首を切ればいいのに」

 訳が分からなさ過ぎて少々不謹慎ともとれる言葉を口にしてしまった。唯がその言葉に大きな反応を示した。

「あ、ごめん。流石に不謹慎」

「そう、そこなんだよ!」

「へ?」

 注意されると思ったのだがむしろ唯は喜んでいると言っていいような表情をしている。興奮からか息が荒くなっていた。

「あの黒い怪物を使ってやる意味が全くないの。脅かすためかと思ったんだけど皆気づいていないんだからその可能性も薄いし。でね。これは本当に私の勘なんだけど」

 勘と言ってはいるがその顔には自信が満ち満ちていた。本人の中ではもう確定した事実になっているのだろう。

「…この薄い傷はあの黒いのを呼ぶための儀式みたいなものでやったのは本人なんじゃないのかな?」

 彼女の披露した推理を噛み砕いて説明すると…

 「つまり犯人が直接刃物かなにかで傷をつけたってこと?そうしないとあれを出せないから?」

 「そう。どうやって気づかれずにやったかは分からないけど…そうなんじゃないかと思う」

 彼女は自説に自信を持っているようだがオレはいまいち呑み込めなかった。少し飛躍しすぎている気がする。そう指摘すると

「…うう、そこは突かれると痛いんだけど…一応私なりの根拠はまだある」

 そう言って落ち着かない様子で何度も指を組み直していた。緊張させてしまったみたいだ。

「…翼は二度もアイツの邪魔をしたのに狙われてない。自分のことを追っていることはもう分かっているんだから普通なら殺そうとするはず…私だったらやる」

「怖いこと言うなあ!」

 彼女を敵に回してはいけないと改めて強く思った。記憶を消される前にも大変な目に遭わされたのを思い出す。ブレーキが壊れた時の唯は本当に恐ろしい。

「…それとね…私自身、基本的には相手に触らないと人の心を操ることは出来ない。でもそういう安全装置みたいなものがあるから多分制御出来てるんだと思う。もし犯人が念じるだけで他人を殺してしまえたら何かの弾みで一杯人が死んじゃう。そうだったら普通の生活なんて出来ないんじゃないか…そう感じたの」

「…」

 超能力者らしい、彼女らしい理屈だった。オレみたいに身体能力が高いだけの男ではたどり着けないような考え方。多少乱暴ではあるが説得力はある。

 この推理の正否はともかく警察から手に入れた情報は大いに価値のあるものだった、と思う。特に手の甲の傷なんかはオレ達では調べようがなかったのだし。何人も気絶させた甲斐があったというものだ。

 満足しかけた瞬間、彼女が最初に言った言葉を思い出した。

「あれ、そういえば犯人かもしれない奴の名前が分かったって言ってなかったっけ?」

「…うん。そうなの。さっきまでの話は前置きでここからが本題」

 唯の表情にまた陰りが差した。一体どんなことを話すのだろうか、固唾を飲んで耳を澄ます。

 「…インカレサークルが起こした強姦事件、聞いた覚えはない?」

 今にも胃の中身を吐き出しそうな酷い表情。オレ自身もその単語を聞いて不快な気持ちで胸が一杯になった。

  そこそこ名のある私立大学での話だ。何十人もの女性を色々な方法で騙し、人気のない場所に連れ込んで、強姦したという胸糞悪い事件。一昔前の似たような事件よりは規模が小さかったらしいが、それでも性質が悪いことには変わりがない。

 サークルはもう解散されて、何人か逮捕されたと聞いている。かかわった人間の十パーセントにも満たない数だろうが。

 「…覚えているけど」

 「…最初に起きたバラバラ殺人は他の事件と違うところがあるの。死体の損傷が酷いだけじゃなくて、容疑者として一時的に拘留された人間もいた」

 話が見えてこない。集団レイプと連続殺人に一体何の関係があるのか。口を挟みそうになったがぐっと堪えた。きっと関係があるから話しているのだ。無駄な質問で話のペースを乱してはいけない。

 「…そいつの名前が藤田稔、そのサークルの代表」


 藤田稔、その名前を口にしたとき爬虫類のようないやらしい顔を思い出した。もちろん私は直接顔を合わせたことはないが、刑事の記憶の中で目にしたのだ。

 二十一歳、大学二年生。学業の不振により一度留年。明るい性格で周囲からの評判はよかったそうだ。表向きには飲み会サークルとして、『ジョイ』というサークルを作った。実態はニュースで報道された通りだが。

 長い付き合いのある人間からは疎まれる、というより恐れられていたらしい。女性に対して乱暴をすることに何の罪悪感も抱かないうえ、自慢話のように語ったり、同性に対しても気に食わない言動を少しでもすれば、殴る、蹴る、輪から締め出すなどの行為を行っていた。

 総括すると、承認欲求、性的欲求などの動物的な欲求が異常なまでに高い人間というところだろう。

「最初の殺人で藤田が逮捕された理由は、事件が起こった場所が藤田の部屋だったからなの。室内は締め切っていて、犯行が可能な人間は彼しかいなかった。それに被害者の神田美音は…藤田のサークルが企画したイベントに参加したことがあったから」

 言葉を濁したがレイプされていたかもしれない、ということだ。

「じゃあなんで釈放されたんだ?」

「まず第一に藤田の家にはサイズが一致する刃物がなかった。それに人をバラバラにするなんてとてもじゃないけど、一人でできることじゃない」

 もちろん時間をかければ一人でも可能だろうが、死亡してから警官が駆け付けるまでには二時間も経っていなかったらしい。ちなみに通報したのは異臭に気づいた隣人で藤田は現場から二駅ほど離れた場所で拘束された。

「なにより、勾留されている最中に同じ凶器が使われた事件が起きたから」

「それが、オレ達が最初の事件だと思ってた路地裏の殺人…」

「そう。あの事件が起きてから、捜査の風向きが変わったみたい。警察は最後まで藤田のことを疑っていたけど、拘留している最中に事件が起きたんじゃ、もうどうしようもなかった」

 藤田の家で死んだ被害者と、路地裏で殺された相川さんの死体の傷口はよく似たものだった。死体の様相こそ違えど、同じ刃物で切断されたことは間違いがなかったらしい。

 そしてその刃物は一般で流通しているようなものではなく、その情報が世間に公開されていないことから模倣犯である可能性は限りなく低かった。

 「…第二、第三の事件が起きて藤田は完全に容疑者からは外されたみたい」

 これが警察から得た情報の全てだ。人生で一番長い間喋っていた気がする。少し顎が疲れた。

 「それで結局犯人かもしれない奴っていうのは藤田のことなのか?」

 「…うん。私はそう、思っている」

 どこか引っかかるような感触を覚えながらも私は頷いた。

 「…私が藤田を犯人だと思っている理由は」

「首切り殺人がそいつにとって都合がよすぎるから」

 続きは翼に言われてしまった。私は口下手だからちゃんと伝わっているか不安だったけれど、話の流れは分かってもらえているみたいだ。

「一度捕まった藤田が釈放されたのは、警察の監視下にあるときに殺人が起きたから。自分から疑いの目を逸らすためにやったのかもしれない」

 殺人の疑いを晴らすために更に人を殺すなんて正気とは思えないが、伝え聞いた性格からするとやってもおかしくはない、と思う。しかし私としてはどうにも…

「被害者に共通点がないのは最初の事件を埋もれさせるのが目的だから。誰でもいいからなのかな?」

 思考を彼の言葉が遮った。いずれにしろ口に出しても混乱させるだけだろうし今は黙っておこう。

「今話したことはほとんど可能性の話。でも、連続殺人が藤田の家で起きた事件から始まったことは確かな事実。犯人が藤田じゃないにしても鋏の怪人が初めて現れたのがあの事件なのは確かなの」

 もしかすると犯人はその事件で初めて自分の力に気づいたのかもしれない。傷をつけた相手を呪い殺す力なんて普通に生活していても気づくことはないだろうから。

 いずれにせよ藤田の事件は犯人に近づくための大きな足掛かりになるだろう。その点については自信を持って言える。

「…それで、その藤田っていう奴はどこにいるんだ?」

「ミッドアイランドっていうホテルの703号室。あの刑事が個人的に居場所を把握していたみたい」

 翼は思いつめたような表情で下を向いていた。唇を動かしているのは見て分かったけれど、何を言っているのかは聞き取れなかった。

「…よし。じゃあ藤田のところに行くのは夜か、それか明日にしよう。少し疲れた」

「…え?」

 驚いた。私はともかく翼が疲れたなんて言葉を使うなんて思わなかったから。それに彼は藤田に対して憤りの感情を見せていた。すぐにアイツのところに向かうと言い出すと思ったのに。

「冷蔵庫も空になってるし、オレは買い物行ってくるよ。唯は先に帰って」

 翼は伸びをしながら立ち上がった。何気ない言葉なのに突き放されているような気がして、心がどうしようもなく揺れる。

「…あ、でも」

「もしかして帰り方分からない?」

 その言葉がカチンと心の導火線に火をつけた。翼は確かに優しいけれど、子ども扱いがすぎる。一体私を何歳だと思っているのか。

「一人で帰れるし!」

「それならよかった。鍵持ってる?」

「持ってる!」

『それじゃ』と一言だけ残して翼は行ってしまった。少し遠くに離れた後、一度だけ振り返ったが、それで終わり。ベンチで一人ぼっちになってしまった。

「…」

 寂しい。朝、翼が学校に行ってしまう時と似たような感覚だ。一人ポツンと取り残されてしまうあの感覚。今は冬休みだから大丈夫だけど、また学校が始まったら家で待たなければいけなくなってしまう。

 気分が落ち込んだせいか頭痛が激しくなってきた。電話で彼を呼び戻したくなる。

「…だめ。私だって少しは頑張るんだから」

 両手で頬を叩いて立ち上がる。この程度でへこんでいては駄目だ。少しは精神強度を高めないと。

「…ううう」

 けれど、涙が滲んで前がよく見えない。寂しいのは寂しい。数歩しか前に進んでいないのに、もう挫けそうになる。こんな時は…

「………わーーーー!!!!」

 叫びながら走るしかない。心の中のモヤモヤを解消するには叫ぶのが一番だ。実際にやってみて気づいたのだが、思いっきり叫ぶのって結構気持ちいい。

「アハハハハ!」

 体に血が巡る。体温が上がって寒さが和らぐ。運動もたまにはいいかもしれない。そんな思考が過ったとき、何かにぶつかった。

「ッ!」

「うわっ!」

 恐怖で反射的に目を閉じる。前のめりに倒れたがそれほど痛みはない。地面が柔らかかったからだ。おまけになぜか生暖かい。

「…あの、そろそろ降りてもらえるかな?」

 そのままじっとしていると突然地面が喋った。訳ではないことにすぐ気づいた。目を開けると青白い端正な顔がのぞいているのが分かる。

 男なのか、女なのか判別し難い人物だった。どちらかといえば女性よりの顔つきだが、髪型は男性より。透き通った高い声も余計に判別を難しくさせる。

 けれど体の感触は間違いなく男性のものだった。服の下で盛り上がっている筋肉の硬い感触。翼みたいにこの人も鍛えているのだろうか。

 ということは…私は男の人の、それも初対面の、上に乗っかっているというわけで。

「あの、聞こえてる?地面が冷たいし、ここゴツゴツしてるんだよ。早く起き上がりたいんだけど…」

「ご、ごめんなさい!ごめんなさい!」

「グフッ!!」

「あ、ごめんなさい!」

 慌てて体の上から降りたせいで膝をお腹にめり込ませてしまった。羞恥と申し訳なさで顔が真っ赤になってしまう。

 どうすればいいのだろう。これって暴行罪、とかになるんだろうか。捕まっちゃったらどうしよう。怪我しても弁償するお金なんてないしこんなことなら保険に入っておくべき

「立てる?」

 混乱する私の前に手が差し伸ばされた。細長い指をしている。血色はよくないのにどこか暖かさを感じさせる。多分優しい声音のせいだろう。

 「…あ、はい!」

 少年の手を握って立ち上がった。改めて彼を観察すると歳はそう離れていないように見えた。それにどこかで見た覚えがあるような――

 「笑い声が聞こえたと思ったらいきなりこっちに突っ込んできて、びっくりしたよ。なにかいいことでもあったの?」

 「…ご、ごめんなさい」

 あんな醜態を他人に見られるなんて。いっそのことこの人の記憶を消してしまいたいくらいだが、さすがにそれは駄目だ。前、翼にやったので懲りた。必要がないのに人の記憶を覗いたり弄ったりはもうしない。

 「アハハ。顔真っ赤じゃないか。いちご大福みたいだ」

 少年はケラケラと愉快そうに笑う。意地悪な笑い方だ。やっぱりあんまり優しい人じゃないのかもしれない。

「う、うるさいです。なんですかその比喩表現は!?」

「梅干しの方がよかったかな?」

「こ、この……!!」

 ほとんど飛び掛かりそうになるのをなんとか堪えながら歯ぎしりする。よくもまあこんなに人をからかう言葉がポンポン出てくるものだ。

 睨みつけていると不意に柔和な笑みが途切れた。そして注意しなければ聞き取れないほどか細い声で一言呟いた。

 「…なんだ。聞いていたより元気そうじゃないか」

 よく分からなかった。言葉の意味もそうだが、それに込められている感情も。喜んでいるのか悲しんでいるのか。

 「…?」

 私が呆けて顔を見つめていると彼は少し驚いたような顔をして、また誤魔化すように笑った。自分が声を出していたことにようやく気付いたという感じだ。

 「気にしないで独り言だから、それじゃあ縁があったらまた」

「…あっ待って。怪我は大丈夫なんですか?」

 そう言って去ってしまいそうになるのを寸でのところで制止した。

 後頭部を思い切り地面にぶつけたのだ。怪我くらいしてもおかしくはない。…全部私のせいだが。

 「多分、大丈夫…じゃないかな?」

 「…なんで自分のことなのに分からないの?」

 「自分のことだからね~」

 煙に巻いたような話し方。掴みどころがない人だ。なんにせよ怪我はなさそうで安心した。

 「キミの方は大丈夫?」

 「…大丈夫です」

 「ならよかった」

 その言葉を最後に少年は私の横を通り過ぎた。迷惑をかけられたのに少しも嫌な顔をしないなんて。

 今思い返してみるとぶつかったときに私じゃなくて彼の方が倒れたのは少し変だ。自慢じゃないが私の体重は同性の中でも低い。それに対してさっきの少年は背丈が大きく、筋肉質だった。いくら私に勢いがついていたとは言えあんな一方的に倒れるとは考えにくい。

 ということは、あの少年は私が怪我しないよう自分から倒れたのか。私の考えすぎかもしれないが、どちらにせよ親切な人だったことには変わりない。

「…お礼言っておくべきだったかな」

 まあ仕方ない。今更追いかけて礼を言うというのも変だろう。これからは今回のことを教訓に走るときは周りに気を付けよう。それが一番の誠意の示し方だ。

 しかし…

「…どうしよう」

 さっきは家まで一人で帰れると言ったが、駅がどこにあるかすら分らないし、バスの乗り方もよく分からない。翼の言うとおりになりかけている。

 昔からどうしようもないくらい方向音痴なのだ。家から少し離れるだけで帰り道が分からなって陽が真上にある時間帯から落ちてしまうまでずっと周りをうろついていたことがある。駅も苦手だ。人混みは嫌いだし、右回りだとか左回りだとか〇〇線だとかとにかく混乱させられる。

 絶望しかけたその瞬間上着のポケットに入れてあった例の機械のことを思い出した。

「…そうか。携帯使えばいいだけか」

 簡単な解決方法があった。正直なところ私はこの煩わしい機械があまり好きではないのだが便利であることは認めざるをえない。

 取り出そうとした瞬間、頭が割れるような痛みが生じた。異変は体全体に伝わって膝が地面についてしまう。

「…ッ!」

 前兆はあった。元々頭痛持ちで、おまけに翼と話していた最中も眩暈が何度もしていたから。

 何故なのか考える余裕がないくらい痛みが酷い。それに考えられたとしてもこの状況は変わらない。

 頭の中で何かが脈を打っていて、その度に激しい痛みが走る。こんな季節だというのに汗まで流れ始めてきた。自分の荒い吐息の音以外何も聞こえない。

 助けを呼ぼうにも声が出ないし、体も動かない。電話で救急車を呼ぶことすら出来そうになかった

 死ぬ。そんな言葉が脳裏を過るくらい痛みが酷い。恐怖で心臓が早鐘を打つ。

 瞼が段々と重くなってきたとき、誰かがこっちに駆け寄ってくるのがうすぼんやりと見えた。

「─────!?」

 必死そうな声音だった。何を言っているかは分からないけど、助けに来てくれたみたいだ。ぼやけた視界に映る白い服からしてさっきの少年だろう。

「…あ…が」

 意識が消えていく。ありがとう、と言いたかったのに。それすらも出来ずに私の視界は真っ黒になった。

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