第3話

 雪雲は綺麗さっぱり消え失せ、快晴となった本日、十二月二十 日、午前七時。

 唯はまだ起きていない。オレの学校がある日は眠たそうに眼をこすりながら見送りをしてくれるのだが休日の起床はいつも遅かった。どうにも朝に弱いらしい。平日は 無理して起きているのだろう。別にそんなことはしなくてもいいのに。

「ごちそうさま」

 起こそうか迷ったが勝手に部屋に入るのもアレなので一人で軽い朝食を作り食べ終えた。ふと窓から空を見上げる。

 水色に染められた空に綿雲がまばらに漂っている。皆既日食やら金環日食やら、特別なことは何も起こっていないが、だからこそ平和を感じた。

「…ふぁ」

 こんなにいい天気なら外に出なければ損と思う人間もいるかもしれないが、生憎そういうアグレッシブな思考はしない主義だ。今日はゆっくりのんびり家の中にこもっていようか。

 そんな怠惰な思考を巡らせていた時、ヒタヒタと静かな足音が近づいてきた。

「……おはよう」

「あ、おはよう唯」

 ほとんと眼を閉じながらフラフラとこちらに歩いてくる。

 カーテンの隙間から差し込む陽の光が金色の髪を照らす…とでも言えばなんだか詩的に聞こえるが彼女の髪の毛には見事なほどの寝癖がついていた。ちゃんとドライヤーで乾かさなかったのだろうか。野良猫でももう少しまともな毛並みをしていると思う。

「…む?今何か失礼なこと考えてた?」

 不機嫌そうな声を出してこちらを睨みつける、がほとんど線になっているような目で睨みつけられたってちっとも怖くない。

 触れた相手の心を自分と繋げる。それが彼女の力だが、触れずとも大雑把な思考なら読み取れる。そのことを忘れていた。

「うん。野良猫の方がまともな毛並みしてるなって」

「…そういうのは心の中だけに留めといて…」

 聞かれたから答えたというのに…難儀な子だな。彼女は跳ねた髪を押さえて足早に洗面所に駆け込んでいった。すぐにドライヤーの音が聞こえてくる。髪を整えているみたいだ。

「いや、やっぱりオレが悪かったかな…」

 女の子の容姿にケチをつけるようなことはやはりよくなかった。嘘でもとりあえず褒めておく方がよかったのだろう。

 自分の性格の悪さに苦笑しながらテレビをつける。特に何かを期待しているわけではない。なんとなくだ。

 『今日未明。……にあるマンションの一室で殺人事件が起きました。死体は酷く損壊されており身元を現在調査しているとのことです。何十にも分割され……この事件について警察は…』

 昨日のサークルの事件といい最近は物騒な知らせをよく耳にする。

 被害者は女性だが現時点ではそれ以上のことは分からないとのことだ。どれだけ酷い損傷だったのだろう。考えるだけで怖気がする。

『参考人として居住者の男性が現在事情聴取を…』

 住んでいたというその男が犯人なのだろうか、死体をバラバラにするにはかなりの時間がかかるはずだ。家主以外にそこまで長居できる人間はそうそういないだろうし…

「…なんて考えても意味ないよな」

 テレビの電源を落とす。惨い事件だがやはりオレには関わりのないことだ。どうやって冬の課題に片をつけるか考えた方が建設的だろう。

 まだ冬期休暇は始まっていないが既に教科担当から課題は配られている。どれから手をつけようか。

 優先順位を頭の中で決めていたところ、呼び鈴が鳴った。玄関からだ。

「ん?」

 時計を見る。まだ七時を過ぎたばかりで配達が来るには早すぎる。そもそも何かを頼んだ覚えがないし。

 一応念のため返事をする前に扉の覗き穴から来訪者の顔を窺う。物騒な世の中なのだから警戒はしておかなければ。

 そしてそこには―

「げっ」

 肩甲骨辺りまで伸びている黒い髪。凛とした目つき。よく知っている顔だ。そして、今会うのは大変よろしくない。

「まずいぞ…」

 今この家に入ってこられるのはまずい。特に唯が見つかってしまうのは。

 居留守を使おうか、しかしわざわざ県を跨いでまで来た相手を追い返すのは流石に…

『ポーン!ポーン!ポポポーン!』

 呼び鈴が再度鳴らされる。一回だけではなく何度も立て続けに。ドアの向こうで舌打ちしながらボタンを連打している姿が目に浮かぶ。

「まずい…かなりまずいぞ」

 不意に音が止んで静かになった。実際にはドライヤーが空気を吐き出す音が薄っすらと聞こえてくるので完全ではないが、少なくともあの子供の地団駄のような、やっている人間の苛立ちを表現するかのようないやな音は消え去った。

「諦めて帰ってくれたのか…」

 たまには用心もしておくものだ。もし馬鹿正直にドアを開けていたら大変なことになっていただろう。具体的に言うとオレの社会的地位が底値までに大暴落する。

 居留守を使ってしまったことは申し訳ないが後で平身低頭して詫びを入れればなんとかなるだろう。なんにせよひとまず危機は去った。

「ふう。よかった…」

「なにもよくねーよ」

 いつの間にか扉が開いていて赤のコートを羽織った目つきの悪い女が家の中に侵入していた。オレの姉、黒羽美月だ。歳は二つ離れていて腰に届くほど長い髪が目を引く。

「…えっと、鍵をかけてたはずなんだけど…どうやって中に入られたんですか?」

「なんでもなにも私も昔住んでたんだから鍵くらい持ってるっつーの」

 キーホルダーの輪っかに人差し指を入れ、オレに見せつけるようにクルクルと回してみせた。

「…そうだった。そういや一緒に住んでたんだっけ」

 この家はオレが一人で来た時に借りたものではない。美月が産まれた時に父と母が買ったものだ。それから八年間ここで暮らしていたが、とある理由で離れなくてはいけなくなった。唯と連絡がつかなくなる少し前のことだ。

 それをそのまま使っているわけなのだから当然鍵も変わっていない。こういう時の為に変えておくべきだったか。

「…一人暮らしで寂しい思いしてないかお姉さまがわざわざ様子見に来てやったのに…閉め出すとか何考えてるのかなー?」

 口の端は吊り上がっているが表情も声もどこか強張っていた。間違いなく怒っている。冬の真っただ中に閉め出されれば無理はないが。

「いや、今起きたばかりと申しますか…決して無視していた訳では」

「はあ?アンタもう着替えてるじゃん。それにこの時間はいつも起きてたでしょ」

「アハハ…」

 美月は靴を脱いで家の中に上がり込んだ。唯の靴が出たままになっているが幸い気づかれなかったらしい。

「なに?見られたくないものでもあるの?余程えぐいアレな本とか?男ならそれくらいあるだろうし私別に引いたりしないよ。…ネタにはするかもしれないけど」

「余計性質が悪いじゃないか…というかそこまで分かってるなら出直してくれないか。こっちも準備というものが…」

 ズイと押し通ろうとする姉を通せんぼする。今中に入られたら唯が家の中にいることがバレてしまう。別にやましいことなんてしていないが異性を家の中に連れ込んでいるなんて美月や母に知られたら…考えたくない。唯も美月に会ったら気が動転してしまうだろう。

「ホント、ちょっと待ってくれ」

「えー?私早朝から歩き詰めで疲れてるんですけど。ソファで休ませてくれませんかねー」

「あ。トイレの中ならいいぞ」

「しばくぞお前」

「ぐえっ」

 威力の高いジャブが鳩尾をついた。しかし今の状況、完全にオレが悪いから文句も言えない。

「分かった。じゃあ三分だけ待ってくれないか。その…おっしゃる通り見られたくないものとかあるんだよ」

 嘘は言っていない。実際見られたくないものはある。ものというかヒト科ヒト属の生き物だが。

「どうしても見られたくない?」

「ああ。見られたら大泣きする自信がある。アンタに人の心がまだあるならほんの少しだけ待ってくれ」

「なにしれっと人のことを怪物扱いしてんだコラ」

「うげっ」

 今度は肘鉄が飛んできた。今朝食べたパンが胃の中からまろび出そうになったがなんとか堪える。

「もう…はいはい分かりました。三分待てばいいんでしょ、待てば」

 打撃を与えたことで美月の怒りもひと段落ついたみたいだ。長い髪をクシャりとかき混ぜて息をつく。

 心の中で胸を撫で下ろす。二度もぶたれたが猶予は与えられた。とりあえず唯には少しの間外に出てもらおう。

 美月がどれくらいこの部屋に居座るつもりかは知らないが泊まる予定は多分ないだろう。その証拠にキャリーバッグを持っていない。どれだけ長くても夕方までには帰るはずだ。

 とりあえず唯にそれなりのお金を渡した後、彼女を抱えてベランダから飛び降り、その後何食わぬ顔で美月を家に入れる。三分以内に実行するにはちと厳しいがオレならいける。必ずやれる。根拠なんてないがそうでも思わなければこの状況やってられない。 

「じゃあ、三分な。三分間は絶対入ってくるなよ」  

「念押されなくたって分かったって……ったくそんなに焦るほど見られたくないものって一体何なの…よ…?」

 さっそく計画を実行しようとしたその瞬間、美月の表情が固まった。ギイと扉が開く音がする。

「…翼。歯磨き粉が出てこないんだけど、これもう中身スカスカ…」

 背後から間延びした声が聞こえてきた。ドライヤーの音のせいでオレと美月が言い争っていたこと、というより誰かが家に入ってきたことにすら気づかなかったらしい。人見知りだから誰かが家に来れば息を潜めると踏んでいたのだが、そうかそもそも聞こえてなかったのか。この黒羽翼、一生の不覚。最早笑うしかない。

「ハハハ…」

 振り返ると唯は警戒心を滲ませた顔をしていた。そして正面にいる美月は口をわなわなと震わせ耳を赤くしている。前門の虎後門の狼というやつだ。

「二人とも色々言いたいことはあると思うんだけど…まずはオレの話を」

 二の句を継ぐ前に完璧なフォームから放たれたストレートが顔面を打ち据える。頭蓋に響く強烈な衝撃で脳を揺らされ、あっけなく膝を着いてしまった。

「なに女連れ込んでんだ!!この〇〇〇ンクソ野郎!!」

「なんなのこの人!?」

 聞くに堪えない美月の罵倒、唯の悲鳴が穏やかな朝を騒がせる。近隣の住民にはとても申し訳ないと思っているがもうオレに止める術はない。

「…ちょ、ちょっといきなりなに!?警察呼びますよ!?」

「ああん!?呼べるもんなら呼んでみなさいよ!?」

 倒れ伏すオレを他所に罵り合いが始まってしまった。このままこっそり逃げれば責任追及から逃れられそうだがそうすると流血沙汰になりかねない気がするのでなんとか収めなければいけない。

 久方ぶりにゆっくり出来ると思っていたのだが、どうやら今日もまた忙しい日になりそうだ。


「よ、よろしくね。唯ちゃん」

「…ど、どうも」

 家に上がり込んできた闖入者の名前は黒羽美月というらしい。翼の姉だそうだ。兄弟がいるなんて聞いてなかったしいきなり翼を殴ったものだからてっきり強盗かなにかと思った。

 顔を伏せながらそっと女性の顔を覗き込む。なにやら落ち着いた年上であることをアピールしようと澄ました顔をしているが先ほどの暴れようとあの汚い言葉遣いは今更なにをやっても忘れられない。

 テーブルを囲んで三人で話している。家族会議みたいでなんだか居心地が悪い。経験したことはないけれど。

「…唯ちゃんのことを見つけたっていう話は聞いてたんだけど、記憶喪失だっていうこともここに住んでるって言うこともなんにも聞かされてなかったんだ」

 そう言って美月は翼に目配せする。彼は気まずそうに顔を逸らした。二人の上下関係はなんとなく理解した。

「記憶喪失っていうことは…私のことも覚えていない感じ?」

「…酷いですよね、ごめんなさい」

 過去の私は翼と仲が良かったみたいだから、当然その姉であるこの女性、美月とも面識があったのだろう。やっぱり面と向かって相手のことを「覚えていない」というのは気が重い。

「そんなことは気にしなくていいよ。アナタのせいじゃないんだから。それに私達…」

 美月は顔を俯かせた。けれどすぐに顔を上げて笑みを見せる。

「ううん。なんでもない」 

 何か隠していることは気づいたがあえて追及はしなかった。触れられたくないことの一つや二つ誰にでもある。私に関して言えば十や二十では済まないくらいに沢山。

「で、でも流石に一緒に住むって言うのはどうかな?お母さんはこのこと知ってるの?」

 お母さん、母、母親、やっぱりその単語が出てきた。そのことは聞かれると覚悟していたつもりだけど、実際にその言葉の響きを聞くと胸がどうしようもなくざわつく。

「美月…それは…」

「…家出したんです。母とは今連絡をとってません」

 私を気遣う彼の言葉を遮る。厚意は嬉しいが庇われるのは。

「家出って…そんな大袈裟な…ちょっと喧嘩しただけでしょ。私も経験あるけど日付が変わるまでには」

「…そういうのじゃないんです。言葉通りの家出。一ヶ月以上帰ってません」

「え?…そんな…」

 なにかを言おうとしたみたいだがすぐに黙り込んだ。心から動揺していることが直感的に分かった。人がいいのだろう。あの翼の姉なのだから当然か。

「他に頼れる人もいなくて街中をうろついてた時、翼…君に助けてもらったんです。」

 かなり端折った説明だが仕方ない。全部説明するのにはあまりにも時間がかかるし、話したくもなかった。

「だからさっきアナタが言ったように、その…翼君になにかされたりとかはしてないですし、恋人でもなんでもないんです。ただ面倒を見てもらっているだけ。…迷惑でしたら…すぐに出ていきますから…」

「いや全然!そんなことないよ!!好きなだけいてくれていいから!きっとウチの母さんも反対しないだろうし!!」

 いい人だから、同情を誘うようなことを言えば断れないって分かっていた。そして想像通り彼女は首を縦に振った。こんな小賢しい計算をしているなんてきっと考えてもいないんだろう。やっぱり私はどうしようもない人間だ。

「あ、家事全般はコイツにやらせとけばいいから、どうせ趣味もない悲しい男なんだから遠慮する必要はないわ」

「前半は分かるけど、後半何言ってんだアンタ」

 私に対しては使わない乱暴な言葉遣い、呆れたような顔。けれどそれが長い時間の中で培われた信頼によるものであることは私にも分かる。互いに遠慮のいらない仲なのだろう。私にも記憶があったら彼はこういう風に接してくれたのだろうか。

「しっかし可愛くなったね。昔から綺麗だったけれどここまでとは…」

「ふぇ!?かわ…」

 フムフムと頷きながら私の顔をじっと覗き込む。あまり熱心なものだから恥ずかしくなってしまう。

 同性に容姿を褒められたことは何度かあったが、いつも後ろに嫌な言葉がついていた。『可愛い“けど”暗い』、『綺麗“だけど”何考えてるのか分からない』。けれど、この人の言葉にはそんな但し書きがなかった。素直に嬉しい。

「……どうも…」

「うーん、でも髪がちょっとね。枝毛いっぱいあるし目にかかってるし、パッツンになってるところもあるし」

「…うっ」

 褒められて内心調子づいていたところを一気に叩き落とされた。初対面なのに割とズバズバ切り込んでくる。

「唯ちゃんどこで髪切ってるの?千円カットでもそんなに酷くならないと思うんだけど…」

「アンタ少しは遠慮ってものをな…」

「…自分で切ってます」

「え?デジマ?」

「そのネタ古すぎないか…?」

 あんぐりと翼姉は口を開ける。そんなに驚くことなのだろうか。

「…だって美容院とか床屋って怖くないですか。刃物持った知らない人間に無防備な姿晒すんですよ」

 正直あんなところに行く人間の気が知れない。高い金を払ってなぜ危険な目に遭いたがるのだろうか。

「ユニークな発想だね…」

「そんなこと思い付く唯ちゃんの方が怖いかな」

 兄妹は二人そろって苦笑いした。その表情はやはりどことなく似ていて二人の血がつながっていることを意識させられる。

「…よし!じゃあせっかくだし美容院行こうか!」

 美月は弾けるような笑顔とともに思いがけない提案をした。美容院、美容院ナンデ

「…え?」

「は!?」

「唯ちゃん今のままでも綺麗だけど少し磨けばもっと上を目指せる逸材だと私は睨んでるわ」

「アンタはモデルのスカウトか?」

「もちろんその後のこともちゃんと考えてます。お昼食べて、動物園行って…」

 翼の突っ込みを無視し、目を瞑りながら愉快そうに早口でまくし立てる。薄々分かってはいたがこの人押しが強い。

「また唐突な…」

「唯ちゃんとはこれが初対面になるんだし、互いを知るためにも一緒に出掛けるのは悪くない選択肢だと思わない?」

「…本当は遊びたいだけだろ?」

「はいはい、口答え禁止!三十秒で支度して」

 美月はハリーハリーと叫びながら私たちを急かす。やれやれとため息をつきながら翼が席を立ち、服を取りに部屋に戻っていったが、よく見ると口許を緩ませているのが分かる。なんだかんだ言いながらも姉のことが好きなのだろう。

 私とて慌ただしい朝は好きではないが、私も美月のことを知りたいというのは同じだ。煩わしさよりも好奇心の方が大きかった。

 それに遊びに誘われることなんて滅多になかったから嬉しかった。


 

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