第4話
「というわけで来ました。美容院」
「…ワーイ」
昼下がり。オレ、唯、美月の三人で出かけることにした。
半ば強制的にオレ達は美月に連れ去られ、今『ブリリアンス』という美容院の前に立っている。ここに来る前に予約していたらしい。準備のいいことだ。
「…にしてもなんでオレまで連れてくるかな。用があるのは二人だろ。」
「はーうちの弟はノリ悪いなあ。小一時間くらいため息が出そうだわ」
「やれるもんならやってみせろっての」
ノリが悪い。というのは昔から、それこそ耳にタコが出来るほど言われてきた。正直なところ自分でもそう思う時がある。特に悲観はしていないが。
「遠路はるばる弟の顔を見に来たってのに、別行動とったら意味ないでしょう」
「………そりゃ、どうも」
「我ながら弟思いの姉だなー」
「…今ので台無しだよ」
「じゃあ入りましょう」
「はいはい」
店の中に入るとシャンプーやら整髪剤やらのいい香りがしてくる。普段自分が通っている散髪屋のものより二回りは高そうだ。
「い、いらっしゃいませー!」
二十代前半か十代後半か、学生に見えるほど若々しい女性がやけくそ気味に声を張り上げる。接客に慣れていないのだろうか。女性は自分が素っ頓狂な声を出したことに気づいたらしく貌を真っ赤にして顔を俯かせた。なんだか見ているこっちまで恥ずかしくなってくる。
「…あの、大丈夫ですか?」
「は、はい!大丈夫…です!どんなご用件でしょうか?」
美月の呼びかけに背筋をピンとさせて答える。教師に叱られた生徒みたいだ。
「予約した黒羽です。この子の髪を切って欲しいんですけど」
オレに対しては絶対使わないような澄んだ声と営業スマイル。外面はいいのがこの姉の厄介なところだ。姉への不満を誰かに言っても信じてもらえたためしがない。
にしてもこの予約というやつは本来美月が自分の為にとっていたものだ。それをわざわざ他人に譲るとは…気前がいいというかなんというか。
「あ、はい。付き添いの方はそちらに座っていただけると…ご案内させていただきますね。こちらへ」
大人しく席に座って、二人で待つことにした。椅子の左横に雑誌などが詰まった本棚が置いてある。暇つぶしぐらいにはなるだろうか。そんなことを思っていたら美月はポケットから英単語帳を取り出していた。
「勉強?」
「それ以外に見える?」
にべもない返答。しかしそれも無理はない。美月は高校三年生、受験勉強の真っ最中、表には出さないが焦りもあるのだろう。つまらない質問はよすべきだった。
邪魔をしないためにも黙っていようと口を閉じかけたが、ふと聞きたかったことを思い出した。
「…母さんは元気?」
「翼がいなくて寂しそうだけど、まあそれなりには元気かな」
視線を単語帳から離さないまま美月は答えた。
父さんが死んだ後、母さんは心を病んで、美月も長い間塞ぎ込んでいた。今は二人とも気丈に振る舞っているけれど、心の傷はしっかりと残っている。
それなのにオレは二人を置いて、一人家を離れた。唯にもう一度会うために。後悔はしていないけれど、気がかりではあった。
「…ごめん」
「いきなり何?」
「…なんでもない」
それだけ言ってお互いしばらく黙り込んだ。ページをめくる音がたまに聞こえるだけで静かなものだった。
「…ねえ、それよりさ」
束の間の沈黙の後、美月が重々しく口を開いた。
「…なに?」
「唯ちゃんのこと今でも好きなの?」
真面目な話だと思って緊張したこっちが馬鹿だった。美月は野次馬根性丸出しの顔で眼を爛々と輝かせている。なぜ女というのはこう人の色恋沙汰に首を突っ込むのが好きなのだろうか。
「…あのなあ」
「だって今の唯ちゃんと昔の唯ちゃんは違う人でしょ?」
とてつもなく残酷なことを何気ないように口にした。
「…美月、冗談でも言っていいことと悪いことが…」
そう声を荒立てようとしたが、二の句は継げなかった。美月の目が真剣そのものだったからだ。
「話してて分かるでしょ。昔と今じゃあ唯ちゃんは全然違う人になったって。記憶だけじゃない。性格だって似ても似つかない…同じ人間だと思われるのは唯ちゃんだって望んでないんじゃないかな?」
そんなことは分かっている。一か月以上顔を合わせてきたんだ。美月に言われるまでもない。
「翼は今いるあの唯ちゃんのことが好きなの?それとも昔好きだった女の子の面影をあの子に重ねてるだけ?」
眼差しは真っすぐとオレに突き刺さっている。いい加減な返答は許さないと言外に告げているようだった。
息を大きく吐いて美月の目を負けないくらい強く見つめる。答えはもう自分の中で決まっていた。
「…昔のことを思い出して、それを唯に重ねてるところはあると思う」
よくないことだと頭では理解していて自制するようには努めている。それでも日常のふとした瞬間、今の唯に過去の彼女を見てしまうことが何度もあった。
「…でも、それだけじゃないよ。昔のことがなくても、多分好きになったと思う」
悲しそうな雰囲気をいつも纏っている彼女が時折見せる心の底から幸福そうな笑み。それが本当に好きだった。
「…そっか。じゃあいい」
美月は爽やかに、けれどほんの少し残念そうに短い言葉を口にした。
「…恋人でもなんでもないって言われてたけどちゃんと脈あるの?」
「ほっとけ」
「切花暦です。よろしくお願いします」
自己紹介ついでにペコリと頭を下げた。礼儀正しいと言うよりは臆病な印象を受ける。
「…音羽唯です」
「喉乾いたりしていませんか?ウチはサービスでお飲み物を提供しているんですよ」
「…はあ」
美容院で飲み物が出されることがあるとは。こういうところにはあまり来たことがないから断定は出来ないけれど珍しいんじゃないだろうか。
ホットティー、ホットコーヒー、オレンジジュースから選ぶらしい。飲食店ではないから流石にそこまで選択肢は多くなかった。苦いのが苦手なのでジュースを選ぶ。
手渡されたものを飲んでみる。うん、どこにでもあるような普通のジュースだ。若干得体の知れない苦みを感じたが文句を言いたくなるほどではなかった
グラスを返したとき、暦は不思議そうな目で私の手元を見た。原因は言うまでもない。室内で手袋をつけているから奇異に見えたのだろう。慣れっこだ。
「…その、手袋は取らないんですか?」
「…取りません」
手袋は絶対に外さない。人が見ているならたとえ砂漠のど真ん中でも脱ぐつもりはない。
「暑いですよ?」
「…冷え性なんです」
「え、でも、ここ暖房効いてますし…」
「……関係ないじゃないですか」
イライラする。そんなに他人の手が見たいのだろうか。こんなところ来るんじゃなかった。
「ご、ごめんなさ~い!」
暦は泣きそうな顔をして深々と頭を下げた。ソプラノボイスの謝罪を聞いていると、なんだか力が抜けて罪悪感が沸々と沸き上がってくる。私は一体何様のつもりなんだろう。心配してくれているだけじゃないか。
「…私こそごめんなさい。偉そうでした。…でも本当にいいから」
気まずい沈黙が流れた後再び暦が喋りだす。私の無礼についてはまるで気にしていないみたいで、その寛大さに安堵と僅かな劣等感を覚える。
「えっと今日はどんな風にカットしますか?」
「…髪伸ばしてるから、長さは変えないで整えて欲しい、です」
美月からこう言えと言われた通りに話しているだけで正直なところ特に髪型に拘りはない。
「…分かりました。それにしても綺麗な髪の色ですね。染めてないのに」
私の頭をじっと見つめて切花が感心したように息を吐く。私の髪を見るなり染めていると決めつける人間ばかりなので褒めてもらえたのは素直に嬉しい。
「…見て分かるんですか?」
「これでもプロですから」
フンと息を荒げながら胸を張る彼女の姿からは大人の威厳は全く感じられない。この人もお酒とか飲んだりするんだろうか。ワインの瓶を丸一本開ける暦を想像してみる。けどすぐに噴き出してしまった。きっと似合わない。
無駄話を終わらせて、早速頭にシャンプーをかけることになった。暖かいタオルが顔に被せられて気持ちが良かった。
ラベンダーの柔らかい匂いが鼻の中一杯に広がる。私ももうすぐ十六だし香水か何か使ってみた方がいいのだろうか。
頭皮をほぐされるうちにだんだんとまぶたが重くなってきた。受付でモタモタしていたから不器用だと思っていたが、いざ仕事になったら手つきに迷いがない。タオルとお湯の暖かさ、そして優しい指遣いで一分も経たず眠ってしまいそうだ。
「眠ってもいいんですよ。安心して」
大人びた優しく穏やかな声に誘われて意識が落ちていく。美容院というのも悪くないかもしれない。美月にも感謝しないと。そんなことを考えながら目を閉じた。
「わー。かっわいい!!」
美月が部屋の中だというのに大声を出した。隣にいるのが少々恥ずかしく思えるが、言いたくなる気持ちは痛い程分かった。
「…恥ずかしい」
今までの唯ももちろん可愛かったけれど、施術後は一段と綺麗さに磨きがかかった要に見える。
所々あった枝毛や浮き毛が綺麗になくなって、伸びすぎた前髪も眉までに短くなり清潔感が増した。ブロンドもいつもより数段輝きが増している気がする。
「おーい。こういうときぐらい可愛いって言ってあげないと女の子を喜ばせられないぞー」
「うるさいよ」
にやけ面でからかってくる美月を軽く流す。冷やかしがいなければオレだってもう少し気の利いたことくらい言っていた。
「まあ、結局は一時的なものですから。音羽さんはもう少し髪に気を遣った方がいいと思いますよ。折角綺麗な髪を持っているんですし」
「…気をつけます」
唯がペコリと頭を下げたあと、皆で店を出た。切花さんは細長い腕をブンブンと回して、見送ってくれた。ハイソな美容室には似合わない仕草だけれど、心が温かくなった。
正直最初はあの人に任せて大丈夫なのだろうかと心配していたのだがいざ髪に触れる段階になると別人のような手際のよさで仕事を進ませていた。表情も真剣ながらどこか楽しそうだった。美容師という自分の職業をきっと気に入っているのだろう。そんな風に思わされた。
代金は七、八千円ぐらい。唯が払おうとしたところを美月が止めて代わりに払った。
「…自分で払えたのに…」
「私が連れてきたのに、アナタに払わせたんじゃあ筋が通らないでしょ。私の自己満足なんで気にしない気にしない」
美月は指先でクルクルと輪を描きながら諭すように語った。けれど唯はどこか納得できないらしく下唇を噛んで、眉を顰めている。
「うーん、じゃあ私の我が儘に付き合ってくれる?」
美月の目がキラリと輝く。面倒臭いことになることは経験から容易に予測できた。
「…いいですよ。…何をすればいいんですか?」
安請負はよくないぞと思いながらも口は挟まない。唯がいいと言っているんだからオレに止める権利はないだろう。
「それはね―」
「ねーねー。唯ちゃん次はこれ着てみて!これ!」
「…少し、休ませて」
着せ替え人形のごとく次々とあれこれ着せられる唯。体力は一瞬で尽きたようで、膝をつきながらゼエゼエと息を荒く吐いていた。
美月の提案に乗ってしまった唯はデパートの試着室に閉じ込められ、服を脱いでは着て、脱いでは着てを繰り返させられていた。
唯にピッタリだと思うようなものが多くを占めていたが、中にはヒョウ柄のジャケットや、「常在戦場!」、「もやしっ子」とか書いてある文字Tなど明らかにふざけた代物も混じっていた。
「かわいいな~唯ちゃん。素肌を見せて頂戴よ~ぐへへへへ」
変質者のようなというか変質者そのものになってしまった我が愛しの姉上は涎を垂らしながら唯に近寄る。
唯は高い悲鳴を上げて、爆ぜるような速度でオレの後ろに回り込んだ。両手を後ろから回してしがみついてくる。
「もう一時だし、そろそろ終わりでいいだろ?ファッションショーはまた今度にしてくれ」
姉を牽制しながら唯と一緒に距離をとった。あまりひっつかれると背中に押し付けられる柔らかい感触をどうしても意識してしまう。
「えー。まだ遊び足りな~い。というか私はこれだけアプローチしても指一本触れられないのに、なんでアンタは何もしないでべったりくっつけんのさ」
「何もしてないからだよ」
なおも唯に抱きつこうとする姉を制圧、そのまま三人でご飯を食べに行った。デパートの四階の味噌カツが美味しいお店で、昔家族で一緒に行った覚えがある。
「いやー。故郷の味だねー」
美月は自分の丼に唐辛子をシャカシャカ振りかけて、豪快にバクついている。一方唯は隣でフーフーと小さな口を使ってカツを冷やしていた。一口一口が小さくて稚児のような愛らしさがある。
「おいしい?」
「…うん」
「…よかった」
眩しそうに目を閉じて笑う唯はとても可憐だった。ここ数日は笑顔を見せてくれることも多くなっている。
ちなみに美月はちゃっかり自分用の服を数着買っていた。いつ品定めをしていたのだろうか。ずっと遊ぶのに夢中だったのに。
「動物園行こう!動物園!ケ〇ジ君が熱いのよ!」
店を出た後、唯に少し分けて欲しいぐらい元気よくモールの中を行進する美月。もうとっくにブーム終わってるだろ。
首を捻っていたら、隣に唯がいないことに気づいた。振り返ると、十歩遅れた場所でじっと何かを見つめている。相当集中しているようで美月の声も聞こえていないみたいだ。
「……」
「何見てんの?」
ショーケースにずらりと並んでいる音楽プレーヤーの列を見れば、わざわざ問うまでもないことだった。
昔引っ越したときにあげたあのウォークマンは、つい最近壊れてしまった。ずっと使っていたみたいで壊れる前はよくイヤホンをつけていた。それなりに愛着はあったのだろう。
本人はオレから貰ったものだということは未だに知らないみたいだ。オレも今更言うつもりはない。贈り物を壊してしまったなんて知ったら気に病ませてしまうだろう。
気づいたら唯の視線は再びショーケースに戻っていた。とても悲しそうな顔をしている。
「大切だったの?あのウォークマン?」
そう聞くと首をフルフルと振った。結構ショック。顔に一瞬出てしまったかもしれない。そこは嘘でもいいからイエスと言って欲しかった。元々オレのものと知らないから仕方ないのだけど。
「…ただ……買い替えるのが面倒なだけ」
言葉とは裏腹に唯の表情は沈んでいた。透き通るような青い瞳には涙すら浮かんでいる。
それだけで彼女があれを大切に扱っていたことが分かった。十分すぎるぐらいだ。
嬉しくて不意に目頭がジンと熱くなる。見られないように顔を逸らした。
「…何で上見てるの?」
おかしなものを見たような、いや実際おかしな光景だったとは思うが、そんな声を出した。話し相手が急に顎を見せつけてきたのだから。
「いや、天井の染みを数えてて…」
「…翼って変わってるね」
顔を下げると唯が小さく笑っていることに気づく。口を押えるその仕草に少し胸が高鳴った。
顔を見つめるのが照れくさくて視線を落とした時、首筋に小さな赤い点がついていることに気づいた。糸くずかなにかかと一瞬思ったが、すぐに血液だと分かった。目を凝らすと皮が薄くほんの少しだけ裂けている。
「唯、首どうしたの?」
指で傷口を指すと彼女は目を丸くして首筋を指で撫でた。そうして付着した血液をまじまじと見つめている。
「え?…血だ。今朝はなかったのに」
となると、美月が強引に引っ張った時に怪我したのかもしれない。そろそろあの過激なスキンシップを注意した方がいいとは思うが、自分が唯に怪我させたなんて知ったら十中八九取り乱す。ああ見えてかなり繊細なのだ。
幸い痛みすら感じないほどの小さな怪我だし、姉には黙っておこう。忙しいのにわざわざ様子を見に来てくれたのだ。いい気分のまま帰ってもらいたい。
「ちょっと何してんのー?早く行こーう!」
「ハイハイ。分かったよ!ところで唯、動物園行ったことある?」
「…ない」
「……そっか」
本当は一度だけ唯の母と三人で行ったことがあるのだ。唯の母親は今の唯とよく似ていて、口数が少なく表情が乏しい人だった。無口ではあっても視線はいつも自分の娘に向けていた。表には見せないだけでこの人はこの人なりに唯を心配しているのだろうと思ったことは記憶に残っている。
だけど、それは別にいいんだ。共有できなくとも構わない。少し悲しいけれど、それは耐えられる。
「初めてなら色々驚くと思うよ。獣臭さがプンプンするし」
大切なのは今いる彼女だ。オレの感傷に付き合わせて彼女を傷付けたくはない。
だから少し無理をして声のトーンを上げた。ふざけた冗談も言ってみた。それが功を奏したのか彼女はフッと笑ってくれた
「…そんな驚きいらないんだけど…」
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