第9話 衝撃!からの襲撃!?
「っ……っはぁ」
走って、走って、道筋なんて判らずに無茶苦茶に走り抜けた先、気がつけばあたしはまた先程の公園へとやってきていた。
別に意識していたわけじゃなく、偶然だとは思う。けれど、二度目に見た公園はまるであたしが来るのを待っていたかのように、静かな夜の中高く伸びた草葉を風に揺らしていた。
薄らと見える黒い靄達が、葉の隙間から顔を覗かせている。
あたしはその公園の中にある錆ついた水飲み場に手をつき、切れた息を整える。
喉の奥からは血の味がするし、横腹なんてねじ切れそうだ。
だけど何より、胸の痛みが酷く辛い。
「しょ、しょうたろうさんの……っ馬鹿ぁ……っ!」
水飲み場の石台に縋り付くみたいに、あたしの足がくず折れる。
枯れた水場の排水溝には雑草が繁り、ついた膝を小さく刺した。けれどそれを払う余裕も気力も、今のあたしには残っていなかった。
―――出会いは確かに、ロマンチックなものじゃなかったけれど。
だけど、二十歳過ぎるまで誰とも肌を触れあわせた事の無かったあたしが、この人になら触れて欲しいと思えた。
触って欲しくて、触れたくて。
そう思うほど好きになった。
だけど、祥太郎さんはそうじゃなかった。何でも出来る彼だけど、結婚相手だけは間違ってしまったんだろう。
そうじゃなきゃ、あたしが祥太郎さんの奥さんになんてなれる訳がなかったのに。
カレーうどん事件より前から、祥太郎さんの事は知っていた。
柔らかな物腰で、何でもそつなくこなしてしまう営業部の期待の星。総務の暴れ馬であるあたしからすれば、雲の上だった人。
だけど、時折すれ違う時に見た祥太郎さんの寂しそうな瞳に、あたしはずっと惹かれていた。いつも人に囲まれているのに、目の奥は冷めていて。口元は笑っているのに、綺麗な瞳は笑えて無かった。
まるで掴めない黒い靄のように、他者を寄せ付けず、それでいて誰かを求めているみたいな。
だから。
あの時あたしは。
あの人を笑顔に、幸せにしたいと思ったんだ。
「……もう、もういいやっ! 祥太郎さんなんて知らないっ! よし、忘れよう! そんでもって、もっとちゃんと、言いたいこともちゃんと言える相手を好きになるんだっ!」
いつか観た教師ドラマのテーマソングみたいな台詞を口にしながら、あたしは夜空に向かってガッツポーズをした。
ほんとはそんなすぐに忘れられなんてしないけど。
でも、あたしだって幸せになりたいから。
自分が平凡な女なんてこと言われなくてもわかってる。
だからこそ、平凡な幸せくらい手に入れたっていいじゃないか。たとえ難しくても、手に入れたいと足掻くからこそ人は夢を掴めるのだ。
そう決意新たに、ぐっと顔を正面に向けた時。
ふっと、星の輝く夜空が消えた。
代わりに、ばさりばさりと大きな羽音を響かせながら、その黒い影が空からあたしの方へと降りてくる。
「――――許さないよ、咲良」
しかもそんな台詞まで一緒に降ってきたものだから、驚く他なかった。
「へ?」
見上げれば、頭上には巨大な黒鴉の両羽根を広げた『彼』が、丁度あたしの頭くらいの位置に浮かんで停止していた。
「しょ、祥太郎……さん……?」
星と月の光を背に受け、逆光で顔に影を落とした祥太郎さんが、無表情で夜空からあたしを見下ろしている。
その瞳は普段の色素薄めの茶色ではなく、まるで曼珠沙華の花が如く赤く染まっていた。
今し方、離婚届を叩き付けたばかりの夫。
一応まだ、あたしの配偶者である祥太郎さん。
……その背中のモノは何ですかーっ!
……っていうか、目! 赤いよ!
充血するにも程があるよ!
口をぽかーんと開けて固まっているあたしに、祥太郎さんは右手の指先でついと夜空をなぞり、何も無かった空間から何か白い物を引き出した。
何だろう、あの空間ポケットみたいなのは。ドラ○もんか。異次元○ケットみたいでめちゃめちゃ便利そうなんですけど。
間抜けな顔のまま、若干逃避しつつそんな感想を抱いていたあたしに、祥太郎さんは取り出したその白い物をふわりと指先で操るようにあたしの胸元へと飛ばしてみせた。
なんだろ、と思って目の前にきた白くて薄い紙みたいなそれをまじまじ見てみれば、やっぱりまんま紙だった。
って、これ、さっきあたしが祥太郎さんに叩き付けた離婚届じゃないか。
緑色の線で縁取られた欄が幾つもある堅苦しい用紙は、あたしが彼に押しつけた時のまま、全てが空欄の状態だった。
そういえば、貰ったばっかだったから、あたしの欄もまだ埋めて無かったんだっけ。
と、飛んできた用紙を見ながら思う。
普通こういうのは、自分の欄は先に記入してから相手に渡すものだろうに、怒りで抜けていたんだなと、我ながら抜けてるぅーと呆れてしまった。
ん? てことは。
もしかして祥太郎さん、これをあたしに書いて欲しくて追いかけてきたのかな。まさに飛んでやってこられて吃驚したけど。
問題はそこかと脳内の第三者が呟いた気がしたけれど、とりあえずスルーして、あたしは祥太郎さんの顔を見ながら首を傾げて見せた。
「あたしの欄埋めればいいんだよね?」
言えば、祥太郎さんが一瞬赤い瞳を見開いた。
そして薄く綺麗な形をした唇の端をゆっくりと押し上げながら、指先を再びついと動かし、あたしの前にあった離婚届を触れもせずに真ん中からピィィと切り裂いた。
裂かれた紙が、ゆらりと空間に溶けていく。
「……そんなわけ、無いでしょ。俺の話聞いてた? 咲良」
えーっと……ちょっと初めてみる笑顔なんですけど……お腹の底にドライアイス置かれてるような気がするよ? いや違うよね? 何だか祥太郎さん凄く恐くないですか。ズゴゴゴゴ、とかいう効果音が聞こえるんですが幻聴でしょうか。
笑顔なのに超恐い。あと背中に付いてるの何かな綺麗だけど。
にこーーーっと笑顔(めっちゃ恐い)な祥太郎さんに、あたしはわけもわからずにへら、と笑ってみる。
話聞いてたとか言われたような。ああそういえば、祥太郎さん堕天するとき(降りてくる時)許さないとか何とか言ってたような。
はて? 許さないとは何だろう?
祥太郎さんにはあの綺麗なお姉さんがいて、あたしと結婚してるのを後悔してて、だから浮気してて……ってあれ?
普通この場合「許さないわよっ!」とか言うのってあたしじゃない?
浮気サレ子の方じゃない?
シタ男の祥太郎さんが言うっておかしいでしょ。違うでしょ。
「ええっと、それはあたしの台詞じゃないの? ……でも許す許さないも別に、嫌なら別れたらいいと思うし、あたしも出来ればちゃんとけじめつけて次の人とか探したいし、」
「咲良ストップ」
「ん?」
頭の中を整理しつつ、やっぱり夜空で浮いてる祥太郎さんに逐一説明していたら、なぜか途中で遮られてしまった。
しかも、黒い両羽根をぶわりと翻して、あたしの顔正面……というか鼻先が触れる距離に綺麗なお顔を持ってこられてというおまけ付きだ。
まるで口付ける寸前みたいな距離に、一回どきんと心臓が跳ねる。が、薄い唇を見てあたしの人じゃないんだよなぁ、と思い出したら悲しくなった。
にしても、祥太郎さんやっぱり顔綺麗だなぁ。あのお姉さんとすこぶるお似合いだったもの。これじゃあたしじゃ駄目だよな、なんて、目の前にある美顔を眺めつつふと思う。
……ん? ってあれ、俺?
何か今、祥太郎さんから俺って聞こえたような……?
いやいや、祥太郎さん一人称「僕」ですからね。色素薄めの髪と今赤くなってるけど茶色い瞳と、繊細な造詣した正真正銘僕男子な筈ですよ。
あたしの元旦那様は。いやまだ旦那様か。
「さーくら、聞いてる? あと話遮ってごめんね。でもそれ以上言われると自分でもナニするかわからないから、ちょっと黙っててくれるかな?」
ぱちくり、と祥太郎さんの言わんとする事の意味がわからず目を瞬く。と同時に、祥太郎さんの黒い羽根から何やら黒くて長い物がするするっと伸びていたように見えたけれど、気のせいだったのか瞬きした次の瞬間には消えていた。
と、いうかナニって何だろう? とりあえず黙っててと言われたし黙ってればいいのかな。あれか、浮気の言い訳? いや祥太郎さん言い訳とかするタイプじゃないと思うんだよね。
だったら一応ちゃんと説明してくれるのかな。
あたしもできれば、さっきみたいなあんな別れ方じゃなくて円満離婚したいし、ならば聞こうではありませんか。
そう腹を括ったあたしは、笑顔の祥太郎さんにこくりと小さく頷いた。
「有り難う咲良。それじゃあ、少し話をしよう。ちゃんと君に話すから。今まで言えなかった事、すべてを」
「……うん」
ふんわりと、祥太郎さんの黒い羽根があたしの身体を包み込む。
どこか捕らわれるみたいな感覚に、束の間倒錯した喜びが沸き上がりそうになったけれど、今から聞かされるのが決して嬉しいものでは無いことを知っているあたしは、相反する気持ちを押し込め唇を噛み締めた。
けれど。
その瞬間。
「祥太郎さんっ!」
迫り来た気配にあたしは、彼を両手で思い切り突き飛ばした。
ザシュウ、と。
金色に光る矢が祥太郎さんの居た空間―――の下、雑草生い茂る地面に深々と、突き立っていた。
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