第8話 脱兎!逃げるが勝ち!

「咲良、何してるんですか?」


 広く、シンとした夜の駐車場。

 辺りを照らすのは、星の淡い輝きと幾つかの街頭のみ。


 そんな中、足下に細く長い影を伸ばした祥太郎さんが、ベンチに座るあたし達の前で静かに佇んでいた。


「祥太郎、さん……?」


 朝出るときにも見た、そしてあのホテルの前でも見た同じスーツ姿の祥太郎さん。

 だけど、つい疑問系で名前を呼んでしまったのは、彼が纏う空気感が常とは違う気がしたからだ。


 祥太郎さん……だよね?


「咲良、何してるんですか?」


「へ? いや、あの」


 再び同じ問いを投げられて、あたしはふと我に返り、そして慌てた。

 今あたしの手は高倉君に握られていて、ぱっと見る限り普通に話していただけのようには見えない。


 えええっ。何で今、こんな状況の時に祥太郎さんと会うのおおおおっ。


 ついさっき高倉君と再会した時にも考えた事が、頭に回る。


 ってそれどころじゃない、と慌てて高倉君の手から自分の手を抜き取ったけれど、祥太郎さんは無言でそれを眺めていて、なぜだかあたしは妙な焦りを感じていた。


 い、今の今まで離婚だって思ってたのにっ……!

 何であたしが悪いことしてたみたいになってんのーっ!?


「それで……貴方は、どちら様ですか」


「え、あ、俺っ?」


 少々慌てるあたしを余所に、なぜか祥太郎さんは視線を高倉君の方にすっと向け、静かな声音で訪ねていた。なんだかその声が、普段より何十倍も重く聞こえた気がするのは気のせいだろうか。


 と、いうか……なんか祥太郎さん、めっちゃ恐いんですけど……!


 さながら不貞の現場を押さえられたような心地に、いや押さえたのはあたしだよ、と脳内が混乱を起こす。


 隣の高倉君が「い、今どこから……」とか何とか言っている気がするが、その声も耳には入ってこない。


「どちら様、ですか」


 念を押すように、まるで「答えろ」と命令しているかのように、祥太郎さんが同じ質問を繰り返す。

 その恐ろしい響きに気圧されたのか、高倉君はびしりと身体を硬直させ、動きを止めていた。


「お、俺は咲良の、中学時代の同級生でっ……そのっ」


「そうですか。僕の咲良がお世話になりました。今後もうお会いする事は無いと思いますがどうぞお元気で」


 高倉君の返事に、祥太郎さんは営業マンさながらの全開スマイルで畳みかけ、それからベンチに座っていたあたしの元に一瞬で移動した。


 え? とあたしがその素早さを疑問に思う暇も無く、祥太郎さんは流れるような華麗な仕草であたしを立たせ、腰を抱いて歩くよう促す。


「ちょっ……祥太郎さんっ!?」


 それが、全然力が入っていないように見えるのに、全く抗えなくて、あたしは大いに焦った。


 いや、何で……!?

 何で祥太郎さんあたしの事連れて行こうとしてんの……!?

 

 っていうかどうして、あたしの足は勝手に動いて、身体もほいほい連れてかれてんの……!? 逃げられないんだけど……!


「さ、咲良……っ! っう、あ、何でっ……!?」


 去り際、高倉君の驚いた声が聞こえたけれど、祥太郎さんにエスコートという名の連行をされているあたしには、それを確かめる術は無かった。


 しょ、祥太郎さん、何でこんなことしてるの……っ!?


 それに、なんだかいつもとちょっと違うのは、どうして―――?


***


「祥太郎さん……っ! あの、ちょっと……っ」


 暫くの間、祥太郎さんにされるがままに連れて行かれていたあたしは、ある程度区役所から離れた場所で彼に声をかけた。


 というより、足を無理矢理踏ん張らせて、苦し紛れみたいに声出しただけなんだけど。


 だって何度止まろうとしても、今の今まで出来なかったんだもの。

 どうしてかはわからないけど。


「どうして」


「……?」


『どうしてあたしを連れてきたの』って聞く前に、祥太郎さんの方からどうしてって言われました。先越された……。


 ちなみに、今の祥太郎さんは右腕をあたしの腰に回していて、あたしは横に立っている状態です。左側が祥太郎さんとくっついてて、あのホテル前での光景を見た今となっては少し複雑な気分だったり。


「祥太郎さん?」


 どうしてと言ったきり黙り込み俯いてしまった祥太郎さんの顔をそっと覗き込めば、横目にすうと視線を向けられました。あれ、なんだか目線が恐ろしい。


 しかも……ちょっとだけ、赤い?


「僕にっ……! 咲良は僕に会いに来てくれたんじゃなかったんですかっ……!? アイツに会うために、ここまで来たんですか……っ!?」


 急にあたしに向き直った祥太郎さんが、両手で肩をがしりと掴み問い詰めてくる。その表情は怒っているのか、悲しんでいるのか、判断が付かない。


 だけど。

 

 それを聞かされたあたしの気持ちは。


「何、それ……」


 ただ沸々と、お腹の底から熱い怒りが沸き上がってくるばかりだった。


 祥太郎さんの身勝手な言い分に、拳を握り締め、唇を噛む。


 咲良は僕に会いに来てくれたんじゃって、何……?

 ホテルの前で、綺麗なお姉さんと一緒にいたじゃない……!


 アイツに会うためにここまで来たって何……!?

 自分は出張って嘘吐いてたじゃない……!


 ずっとずっと、不安で、心細くて、寂しかった気持ちが、まるでマグマみたいに一瞬で沸騰して、あたしの頭を赤く染めていく。


 最初の夜以降触れて貰えなくて。

 寂しくて哀しくて、どうにかなりそうだったのに。

 

祥太郎さんだって、あたしの知らない綺麗な人と、一緒に居た癖にっ……!


「勝手な事言わないで! 祥太郎さんだってあたしの事言えないじゃない……! 勢いで結婚しちゃったんならそう言えば良かったのにっ! 後悔して浮気されるくらいならっ、さっさと別れちゃえばっ、良かったのよっ!!!」


「浮気? 後悔?」


 祥太郎さんの顔を見返しながら、堪った鬱憤を全て吐き出す。


 強い言葉を彼にぶつけるのは初めてで、途中つまってしまったけれど、それでも全部言い切った。


「咲良、一体何のこと……」


 祥太郎さんの声を無視して、怒りにまかせあたしはバッグに手を突っ込みその紙を引っ張り出した。


そして、それをバシッと祥太郎さんに投げつける。


「っ書いてくれたら、すぐに出していいからっ! でも次はちゃんと、本当に好きな人にして! じゃないと、あたしが浮かばれないっ!」


 溢れ出た涙のせいで、祥太郎さんがどんな顔をしているのか全然見えない。


 だけどあたしの気持ちはもう一杯一杯で、これ以上彼の顔を見ていられなかった。


 ……だから。


「っさよなら!!」


 フィギュアスケート選手も吃驚なターンで、ぐるりと方向転換し走り出す。


 まさしく脱兎の如く。とにかくがむしゃらに。

 少しでも早く大好きな人から離れたくて。あたしは無我夢中で駆け出した。


「咲良っ!」


 後ろから祥太郎さんのあたしを呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、それに振り返る気力はもう、残っていなかった。

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