第31話 なぞ多き妹①
食器洗いは手慣れると、数人分のお茶程度ならば数分で終わります。
……クリストファー様と、ミニ・ローズ姫が話している姿が、廊下の遥か先に見えました。盗み聞くつもりはありませんでしたが、どうしても気になってしまう心に嘘がつけず、気づいたら、色々と耳に入れてしまいました。
人から羨ましがられることもある、この能力ですが、意図せず他人の秘密や弱みを握ってしまい、他人のプライベートも私生活も脅かしてしまう……そんな日々に嫌気が差すこともあります。清廉潔白に生きる事が、私には生まれつきできないのです。
……え、えっと、お二人の会話内容をまとめると、ミニ・ローズ姫もギルバート様と同じく、私とクリストファー様が結ばれることを望んでいるようですね。私は性別も姫である身分も捨てているつもりでしたが、クリストファー様と釣り合う身分に戻るならば、再びティントラール国の姫君として身持ちを立て直さなくてはなりません。
一国の第一子として、姫君として、またその跡継ぎとして、ティントラール国に戻るのならば、恐ろしいほど数多の覚悟を決めなければなりません。
けっきょく私は何一つ捨てる事は許されない身分でした。ここで全てを捨て去り、いずれどなたかと結ばれる未来のクリストファー様の後ろ姿を、お仕えしながら見守るだけで、それで充分に幸せだった……そんな過去の私には、もう戻れないのです。
すべての私情を捨て去ったはずの私に、クリストファー様と結婚できるかもしれないチャンスが巡ってきて、そしてそれを、叶えたいと願ってしまってからは、凝り固まっていた心が動き出すかのように、覚悟が固まっていったのです。
クリストファー様は、一緒に来てくださるとおっしゃいました。ならば、こんな私でも祖国で、やっていけるのではないでしょうか。根拠のない自信ですが、そんな予感がして、ならないのです。私の幸せは、きっと、あの国で作り上げてゆくのでしょう。同時に苦難も押し寄せてきます。その全てをクリストファー様と分かち合えるのならば、こんなに幸せな人生はありません。
気がかりなのは、クリストファー様の本心です。私が嫌でないのならば、自分も構わない、そんなふうな言い方をされて、いささか不安に感じております。私が照れ隠しに、嫌ですと言ってしまったら、じゃあ僕も嫌だ、と即答されていたのでしょうか。それはあまりにも悲しいことのように感じるのは、きっと私のわがままなんでしょうね……。
従者の枠を超え、一人の女性としてもう一度生きてみたいと願う私の目の前に、自らの野望を叶えるために、従者に変装してまでクリストファー様のそばへ潜り込んできた、小さなメイドの後ろ姿が。
届いた絵画を扉越しに見上げて観覧する彼女は、クリストファー様が去られた後も、その場にたたずんでおりました。
「ミニ・ローズ姫」
「この姿では、どうぞ呼び捨てで結構ですわ。使用人を姫呼ばわりするのは、おかしな話でしてよ」
彼女は口角を釣り上げて振り向きました。
「お姉様なりに気配を消して近づいてきたようですけれど、お姉様の容姿は嫌でもよく目立つのですから、あまり効果はありませんわよ? 堂々と近づいて行けば、それだけで威圧感があるのですから、変な小細工は無用ですわ」
それは初耳です。
「ねえお姉様、どうしてクリストファー様をお選びになったの? 狭いお屋敷に閉じ込められて、頭がおかしくなりましたの?」
「主人を愚弄することは許しません。ミニ・ローズ姫、この屋敷で使用人の制服を身にまとうという事は、あなたもクリストファー様のもとにお仕えする自覚を、持たなければなりません」
「ふふ、怖いお顔。本当にあの御方がお好きなのね」
からかわれるのは慣れています。人は他人の恋愛事情に、敏感な生き物ですから。
「ああ、別にバカにしているつもりはありませんのよ? ただ、わたくしのお母様にも、なんでこの道を選んだのかな〜と、娘ながらに疑問に思って尋ねたことがありますの。お母様は貴族どころか、親もはっきりしない身の上。王様に見染められて、後宮に入りはしたものの、ほとんど大事にされずに殺されてしまいました。でも、これが母の選んだ生き様ですの。望んで後宮に入ったんですもの、きっとすべてを覚悟していたのでしょう」
その言葉とは裏腹に、ミニ・ローズ姫は呆れ返ったため息でした。
「わたくしはお母様に尋ねました。気苦労の多い後宮に、どうして入り浸っていられるのかを。するとお母様は、満面の笑みでこう言ったのです。『好きな人と同じ屋根の下で暮らせるんだから、幸せだわ。私は贅沢をしに来たんじゃないの、幸せになりに来たのよ』、ですって。後宮に呼ばれた時点で、母はずっと幸せのピークだったのですわ」
そう言って、私を眺めるミニ・ローズ姫の顔は、どこか寂しそうでした。おそらくミニ・ローズ姫自身は、お母様に共感できなかったのでしょう。とても幸せに見えなかったのかもしれません。
「それはそうと、お姉様はクリストファー様のどこがよろしかったんですの? これは主人の愚弄ではなく、率直な疑問ですわ」
「私がここにいるのは、雇われたからですよ。クリストファー様が私の手助けを必要とされないならば、私はギルバート様とオリバー様とともに、城に移住していたでしょう」
「はぐらかしたって、今さら無駄ですわよ? 雇われたのではなく、あなたが押し掛けたのではなくて? クリストファー様の性格をずっと観察していましたけれど、あの方は、あなたの立場の弱みにつけ込んで、あなたを使用人におとしめて支配するような、そんな人ではありませんわ。むしろ、お姉様が自分からお仕えすると言い出して、クリストファー様がそれに押し切られてしまったのではありませんこと?」
その通りです。クリストファー様は、私を使用人にしようなどとは、一度もお考えになりませんでした。
ですが私は、己の宿命にどうしてもけじめをつけたかったのです。それは、まだこの屋敷に来て間がない頃、クリスお兄様と一緒にシャワーを浴びた時に、決めたのです。
「ミニ・ローズ姫、どうか笑わないで聞いてほしいのですが、私の母は、私の体があまり丈夫ではないことを、ずっと心配している人でした。私は肌も弱かったので、熱いシャワーは浴びれず、ぬるま湯でゆっくりと肌を撫で洗いする日々でした。そんなある日、外で遊んでいると、どうしても背中が痒くなり、すぐそこにいた男性の使用人に、服の背中部分をめくってほしいとお願いしたのです。それを母に見られてしまい、ひどく叱られました。私はこの国の長女であり、跡継ぎなのだから、肌の広い面積を見せる相手は、夫と定めた人でなければならないと。母はそういう考え方の人でした。けっきょく、私は背中に入った毛虫を取ることができず、背中が二倍に腫れ上がるほどの重傷を負ってしまいました……」
「あらら……」
「そのような価値観を、私は幼い頃から母に植え付けられて育ちました。私の従者は全て女性になり、男性は母の意向で極力遠ざけられていました。そんな私を、男兄弟の王子様がいるファンデル国に、避難させるとお決めになったとき、当時の母にとって、どんなにか辛い決断だったでしょう。それほどまでに、我が国の情勢は追い詰められていたのです。幼い私を、守りきることができないほどに」
当時の父と、ファンデル国王は友人関係にありましたから、国同士は遠く離れてはおりましたけれど、ファンデル国王とそのご子息の気立てを信じて、父は私を送り出したのです。
今までまともに殿方と話せない環境下にいた私が、移住先を聞いた後で、どんなにか気が塞いだことでしょう。昔の自分に教えてあげたいです、皆様とてもお優しい人であると。
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