終章    僕とベルジェイ

第33話   ハグには、なんだって?①

「スリープ〜」


「……フニィ」


「獣医さんの予約が取れたから、明日行こうね」


「ブニャ!?」


「気乗りがしないのはわかるけど、やっぱり、行ったほうがいいなって思ったんだ。これからオリバーが毎日君のことを撫でに来るから、背中の怪我は治したほうがいいよね」


 老齢の猫とは思えないくらい大暴れするスリープを抱っこして、窓辺に座って赤ちゃんみたいにあやしていた。今日はオリバーがずっとスリープを独り占めしてたからさぁ、やっと僕の番がやってきたって感じなんだ。


 スリープ、疲れてるかな、でも毎日モフモフしないと、指が寂しいんだよな〜。


 ……やっぱり、疲れてるかな。


「それじゃあ、もう寝ようかスリープ。寝床まで運んであげるね。お風呂上がりのすべすべになった腕で、君を抱っこするのが好きだったんだけど、また明日しようね」


 僕は隣の部屋にいるメイドにスリープのことを託して、また自室に戻ってきた。隣の部屋はスリープを休ませるために使ってるけど、多分オリバーが駄々をこねて入り浸ろうとするから、それだけは阻止しておかないとな。オリバーはすぐに動物を抱っこして、あちこち運ぶんだ。もしも落としたりすると、足の関節が弱いスリープが骨折するかもしれないからね……。


 指に残ったモフモフな感触が名残惜しいけど、明日はもう一度兄上と色々な計画を話さなきゃいけないし、お城に行く準備もしておかないとなぁ。今日はそれが終わったら寝よう。


 うん? 扉からノック音が。この鳴らし方はベルジェイだな。こう何年も付き合いが長いとね、些細なことで気づくようになるよね。


「失礼します。今、お時間大丈夫ですか、クリストファー様」


「うん、入って大丈夫だよ。僕パジャマだけど、気にしないで」


 ついでに、髪の毛も生乾きでーす。屋敷のみんなにあれこれやってもらうこともできるけどさ、なんか夜は、このまま自室でごろごろしながら寝たいんだよね。だから髪の毛も、適当にタオルで拭いただけ。いつものことさ。


「失礼いたします……」


 そう言って扉を開けて入ってきたのは、初めて見る彼女だった。僕は大きくなったベルジェイがどんな格好して寝ているのか、知らなかった。白いネグリジェなんだけど、丈が短くて、下は普通にパジャマのズボン。一緒に寝てた頃は、なんでか僕のパジャマ着てて、夏はかぼちゃパンツ一枚っていう、子供だからできる格好してたな。暑いなら一緒に寝るべきじゃなかったと思うけど、その発想は当時の彼女にはなかったみたいで、パンツ一枚履いて先にベットに入ってるんだよ。ちっちゃい子って、みんなこんな感じなのかなぁって、僕も特に注意することなく受け入れてたな。


 さすがにもうパンツ一枚じゃないけど、そんな薄い布一枚で、ここまで歩いてきたの……? 彼女がそういうことに無頓着なのは、なんとなく察してたけど、これはさすがに言わないと。


「ベルジェイ、さすがにその格好で男の人の部屋に入るのは、まずいと思うんだけど」


「え?」


 改めて自分の格好を見下ろすベルジェイの、鋭い悲鳴が上がったのは言うまでもなかった。彼女は自分自身を抱きしめるようにして体を隠し、真っ赤な顔になって、ひたすら謝罪するもんだから、許してあげるしかなかった。


「そ、それで、僕に何の用事で来たの? そんな格好で来たんだから、よっぽど急いでたんだろ?」


「え……?」


 いや、あの、えってどういうこと? 何しに来たんだろう。


「大丈夫?」


「あ、ああ、私ったら、いてもたってもいられずに……少しでもクリス様のストレスが軽減して、健康管理に貢献できればと、あれこれと書斎で調べていたら、いつの間にか、ここに」


「ええ? 僕のために、寝間着のまま慌てて来たの? ふふ、ありがと。僕は大丈夫だよ」


 とりあえず笑っておいたけれど、つられて笑顔になるベルジェイじゃなかった。自分のしでかした事が自分でも信じられないみたいで、まだ体が痙攣している。いったい何の情報を持ってきたんだろう。そんなに急いで。


「私、今すぐ実践できるのではないかと思って……」


「うん、何をしようとしてくれたの? 教えてくれるかな」


 ゆっくり優しく質問してみた。なんだか、興奮してるみたいだから。


 彼女は二度三度、胸が大きく上下するほど深く深呼吸した。


「この方法は、心を許し合っている相手同士でおこなう方が、効果があると、書いてありまして……」


「そうなんだ」


「……私より、ミニ・ローズ姫とおこなった方が、効果が高いかもしれません」


「え??? やだよ。あのお姫様が、ただで協力してくれるわけないだろ」


「ですが、年齢だってミニ・ローズ姫の方が、親近感をもたれるのではないですか?」


「いや、ミニローズは九歳だよ? 僕は十四で、君は十六でしょ? 歳は君との方が近いよ」


 ベルジェイが腕を前に寄せてもじもじと、ものすごく深い谷間を作りながら何か苦悩している……。真夏の夜にかぼちゃパンツ一枚で、人のベッドで飛び跳ねてたあの子はどこに行っちゃったんだろうね。


「その……私の方が、年上ですし」


「うん、知ってるよ」


「……お嫌では、ないですか?」


「いや、べつに……。もしかして、誰かに何か言われたの?」


 それか、やっぱりオリバーとミニ・ローズ姫との生活は、繊細な彼女にはきつかったのかな。今日は兄上にもいじめられてたし、いろいろ心に溜まっておかしくなってるのかも。


 どうしようかな。しっかり話を聞き出してすっきりさせてから、冷静になるまで待つか、それとも早めに自分の部屋に帰してぐっすり寝てもらうか……どっちが正しいんだろうね。こんな状態になった彼女を見るのは初めてだから、わかんないや。


 僕が一瞬だけこぼしてしまった困り顔に、彼女は色素の薄い赤みがかった両眼を見開いて、我に帰った。


「申し訳ございません! お疲れのところ、長々とまとまりのない話を! あの、あの、本当に申し訳ございません!」


 ペコペコと頭を下げるベルジェイ。よかった、ちょっとだけどいつもの感じに戻ってくれたよ。


「疲れてるのは君もだろ? 今夜はゆっくり休んで」


「今夜は、その……」


 またまた谷間ごと胸部を揺らしながら、もじもじと……。いくら僕のことを子供扱いしてるからって、さすがに目に堪えるよ。今この状況だって、あんまり良くないんだからね、わかってるのかな。どう見ても僕を襲撃しに来てるよ。


 やがて迷いを吹っきったかのように、ベルジェイが僕に向かって両手を広げた。


「ハ、ハグには! ストレスを緩和する効果があるそうです! 一瞬ではなくて、三十秒ほど、ぎゅっとする必要がありますが!」


「へえ、そうなんだ。三十秒だけでいいんだね」


 それはいいことを聞いたなぁ。僕も屋敷の本を読んでないわけじゃないんだけど、全部を読了できてはいないから、いまだにベルジェイが調べてくれた知識に、びっくりすることが多いよ。うちのお屋敷に、そんな便利な本があったんだな〜って。


「ふふ、となりの部屋のスリープがまだ起きてたら、抱っこして一緒に寝ようかなぁ。あ~、でもスリープは怪我はしてるから、だめか」


「た、確かに、アニマルテラピーと言うものもありますが、怪我をしている動物を利用しては、いけませんね……」


 ベルジェイが肩まで赤くして、両腕を下げてしまった。心なしか、がっかりしてるようにも見えるんだけど、ベルジェイもスリープを抱っこしたかったのかな。ごめんね、こればっかりは。


「ク、クリストファー様!」


「はい」


 びっくりして思わず敬語で返事してしまった。ベルジェイが再び両腕を広げて、しかもじりじりと近づいてくる。


「え? ど、どしたの?」


「私と! ハグしましょう!」


 へ?


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