第10話 絶対スリープだあ!
オリバーが応接間でギャン泣きしながら飛び跳ねるから、とりあえず適当なジュースだけ飲ませて泣き止ませ、今は一緒に廊下を歩いている。手を繋いでないと、どこ行っちゃうかわかんないから、手も目も離せないよ。ここの廊下、弟と手を繋いで歩くの久しぶりだなぁ。
柔らかい髪の毛に、寝癖がもさもさに付いていて、おしゃれな子供服を着せてもらっているのにシャツの裾もポケットの中身も飛び出ていて、まだまだ危なっかしくて本当に幼い、僕の弟。この屋敷の秘密を一緒に守ってくれる相棒になるには、まだ遠いなぁ。適当に相手して、早く帰ってもらわなきゃ。
「ねえ、あにうえ、みにろーずひめもね、ネズミかってるんですよ」
「ネズミ!? この国でネズミって、あんまり見かけないらしいけど、居る所には居るんだね~」
「あ、ちがうのちがうの、だいどころでフルーツをかじっちゃうネズミじゃなくて、しろくてふわふわで~、おしりがまるくって~、しっぽがないんですよ。ハムスケっていうんです」
「えっと……もしかして、ハムスターのこと?」
「うん、ハムスタ!」
ハムスケって……二文字しか合ってないよね。
「みにろーずひめの、おともだちなんですよ。ボクもごはんをあげました」
ネズミの毛なら大丈夫かな。父上の体調が悪化することはないかも。でも、油断は禁物だ。やっぱり用心するに越したことはないね。
その後もオリバーは、動物に触れたのが嬉しかったのか、ハムスケとミニ・ローズ姫の話ばっかりだった。オリバーがやけに彼女に懐いているのが、少々気がかりだな。そりゃあハムスターは飼ってるし、彼女自身も見た目だけはとても可愛いから、お人形さんとお話してる感覚で、仲良くなっちゃったのかもしれないけれど、僕はなんだかオリバーの純粋さが利用されてるみたいで、心配になってきたよ。
「ねえオリバー、あのお姫様と、ずいぶん仲良しなんだね。どんなことを話すの?」
「いっぱい! いろんなこといーっぱいです!」
「そうなんだ。お友達ができてよかったね」
「うん!」
彼女はオリバーに取り入ろうとしているのかも。オリバーはまだ小さいから、些細な約束事や、しゃべっちゃいけない大事な話や、国家機密さえも区別がつかないだろう。だからなるべく何も教えないように、僕ら一家で普通の子供と同じようなことだけを教えて教育してきたから、万が一にもオリバーの口から大変な情報が漏れる事は、ないと思ってたんだけど……まさかスリープの情報を引き出されるとは。
「あー! いたー!」
オリバーの突然の大声に、僕は肩が頭よりも高く飛び上がりそうなほど驚いた。そしてオリバーが指差す先を見て、目が飛び出んばかりになった。
「フニャ……」
具合悪そうに、のったりのったりと歩いている、あの黒い後ろ姿は! お腹に巻いている包帯は!
スリープじゃないか! しまった、僕の部屋ってめったに鍵かけてないんだよね。いつも忙しいから、もう人の出入りがあること前提で暮らしているんだ。
それが今じゃ
「スリープだー! あにうえ、スリープです! スリープだスリープだー!」
「何言ってるんだよ。あれはきっと、窓から入り込んできた別の猫だよ。怪我してるみたいだから、そっとしておこうね」
「ちがうもん、ぜったいスリープだもん! だってスリープだけ、ボクがこえかけてもにげないんですよ。ほかのネコちゃんはすぐにげちゃうのに」
「それは、スリープの足の関節が弱いから――」
あ
…………僕とオリバーは、時が止まったように見つめ合った。
「あにうえ……?」
「ち、違うってば! あれはスリープと同じふうに、関節が痛いよその猫ちゃんだよ」
「やっぱりあれスリープじゃないですかー! どうしてっ、どうしてウソついてたの!? あにうえのバカー!! ウワアアア〜ン!!」
顔真っ赤にして、スリープにダッシュするオリバー。足の関節が痛いスリープは走れないから、あっけなく抱きしめられてしまった。うわぁ、オリバーも力持ちになったなぁ、スリープを持ち上げようと必死になっている……って、そんなに胴体を強く抱きしめたら、苦しいだろ! 背中だって怪我してるのに、大変だ、止めないと!
「オリバーやめて! 怪我してるから――」
ふと後ろから気配がして、僕は言葉半分まで出かかっていたけど、びっくりして振り向いていた。
「ああ、ベルジェイ、それにミニ・ローズ姫も」
「わたくしもスリープちゃん探し、ご一緒しますわ」
「だからスリープはもう逃げちゃってて、ここにいないんだってば」
「ウソだもん! ここにほんもののスリープいるもん!」
「あわわわ、オリバー、そんなに強くスリープを抱きしめちゃだめだよ!」
どうしよう、朝から大修羅場だ。
「まあ! その子がスリープちゃんですのね。はじめまして、わたくしはミニ・ローズ・ティントラールと申します」
何をお花みたいな笑顔で手を振ってるんだよ。君のせいだよ、こんなことになってるのは。
「そしてこちらは、わたくしの未来の旦那様である、クリストファー・ファンデル様です」
は?
「今、あなたを抱っこしている男の子は、オリバー・ファンデル様ですわ。以後お見知りおきを」
なに言ってるんだよ、ほんとにもう。恋文も他人に書かせてるくせにさー。
「さあオリバー王子、やっぱり自己紹介は自分自身でするのが一番ですわ。スリープちゃんに、ご挨拶しましょう」
「えー? なんでですか? スリープはボクのこと、しってるのに」
「ですが、クリス様がその猫は違うとおっしゃっておりますよ?」
「あにうえ、ウソつきなんです」
「あらまあ、そうなんですの? クリス様、嘘はいけませんわよ。照れ隠しもごまかしも、お子様がする事ですわ」
「君、よく僕の目を見て言えるよね」
なんだよ、そのきょとんとした顔は。目ぇ大っきいな~。
「ねえクリス様、どうしてあなた方は猫の毛が付着するのを、過剰に嫌がりますの? 嫌がるわりには、お庭にも室内にも猫がいっぱいいますわよね。勝手に入り込んできて、勝手に出て行っていますもの。台所も凄いことになっているのではありません? 少し不衛生ですわ」
「この国じゃあ、これが当たり前だよ」
「そうなんですの? 異文化を理解するのは大変ですわねぇ。お城には何の動物もいらっしゃいませんのに。窓辺に留まる小鳥にすら、皆様が手を叩いて追い払ってしまうのです。どなたか、動物を、心の底から憎んでいる御仁がお住まいなのですか?」
ギクッ
まずいぞ。外部の人間に隠し通したい秘密が、お城とこの屋敷にあることを、絶対に彼女に気づかれないようにしないと。
父上はこの国の出身者なのに、重度の動物アレルギーなんだ。動物の毛がふわふわと宙を舞うと、その匂いや成分が鼻につくだけで、呼吸困難に陥るほど炎症を起こすんだ。猫まみれの国の最高権力者に、そんな致命的なアレルギーがあるだなんて知られたら、そして誰もが簡単に父上の命を脅かせる立場にあるんだって知られたら、周りから何をされるか、父上に何かあったときにどんな言いがかりをつけられるか、もうわかったもんじゃないよ。
奇跡的に、父上の体質は今日まで隠されてきた。誰にも気づかれないように、あえてこの屋敷を猫だらけにして、さも動物アレルギーなんてこの国に存在しないかのように、振る舞ってきたんだ。僕が国の税金を屋敷の維持費に回してまで、ここを猫屋敷に仕立てているのは、この国の為でもあるんだよ!
表向きの顔は、猫大好きの仲良し一家。本当は、アレルギー症状が年々重篤化している父上を看病しながら人目に怯え続けている、大ピンチファミリーなんだよ。
どうして父上のアレルギーは治まらないんだろう。信頼ある医師から抗アレルギー剤を打ってもらってるんだけど、全然効果がなくて。もう歳だし、あんまり強い薬は使いたくないんだよね。兄上はフラフラしてるし、遅くに生まれた弟は動物大好きっ子で、時たま猫を城に持ちこんでは、父上を卒倒させちゃう腕白ぶりだし。家族なのに、あまりに頼りない。
絶対に、彼女に知られないようにしないと……。
「あら? オリバー王子の姿がありませんわ?」
「え?」
しまった、彼女としゃべっている間は、ぜんぜんオリバーに意識を向けていなかった……スリープまでいなーい! 連れ去られとるー! どこ行ったんだ。重たい猫だから、そんなに遠くへ運べないとは思うけど。
「どこへ行ってしまわれたのかしら、困りましたわ。わたくしはギルバート様から、弟王子のお世話を賜っておりますのに」
「そうなの? でも君に屋敷内を歩き廻られるのは、困るんだよね。君も貴族ならわかるだろ? 他国の貴族に、建物の構造を把握されたくないっていう僕らの気持ちが」
「あらまあ! クリス様はわたくしをお疑いでしたのね。うふふふ、おかしな人。いずれわたくしはこのお屋敷の一人として、輿入れ致しますのに」
左右対称のニコニコ笑顔は、ほんとに綺麗だったけれど、演技なのか、それとも本気でこの屋敷を狙っているのか、よくわからなかった。
「君がそう言っていられるのも、今のうちだよ」
この屋敷はたくさんの秘密を抱え持ってるから、それをしっかり守って、管理して、表向きではそれらを悟られないように、演技し続ける生活が待っているだなんて、彼女は思いもしてないだろうな。命を狙われている人も大勢抱えちゃってるから、かなり危ない場所だしさ。
このお屋敷が、お城と切り離されてるのは、猫の毛だけが理由じゃないんだよ。
……なーんて、君には言えないけどね。
「どうしても、わたくしを信じてくださらないのならば、今ここでファンデル家のお役に立てる女であることを、証明してみせましょう」
「え?」
「スリープちゃんは、背中を怪我しているようでしたわね。のそのそとした足取りからして、かなり弱っておりますわ。一刻も早く獣医さんに診せねばならない、そんな状態の猫ちゃんを、オリバー王子は、それはそれは力強く抱きしめておいででしたわよね? 早く見つけて差し上げないと、スリープちゃんが永眠してしまいますわ」
その言葉は、僕の心臓を凍りつかせた。
それと反比例するかのように、彼女の笑顔が温かく見えた。
「わたくしに、お任せくださいませ!」
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