第五話 運命の日
「……明日香。お前少し離れてろ」
少し歩いて回っている時、ちょうど二階の展示ブースに上がろうとしたところで、墨が言った。
彼の黒い瞳は博物館の二階へと上がる階段の上、踊り場の所に向けられている。
経費削減なのか、照明少なめのこの場には、あたし達以外の生徒の姿は無くて。
薄暗くひんやりとした空気に、あたしは咄嗟に墨の腕にぎゅっとしがみついた。
「墨? もしかして……また何かいるの?」
「ああ。だからお前は近寄るな。俺が祓ってくる」
墨がやんわりあたしの手を自分の腕から離す。
あたしはそれを心細く思いながら、だけどぐっと我慢して笑顔を作った。
「うん。気をつけてね」
「……ああ」
墨が安心しろ、と言うようにあたしの頭を掌で撫でる。
それから表情をきっと引き締め、背を向けた。
墨はなぜか幼い頃から、人では無いもの……つまり『この世ならざる者』を見ることができた。
しかも、それらを『祓う』ことも出来てしまう。
本人曰く、物心ついた時には本能的に出来ていたらしい。
あまり詳しく教えてくれないから、あたしも深くは知らないけど。
でも時々こうして見つけては祓ったりしている。
放っておくと、人に悪い影響を与えてしまうかららしい。
あたしはと言えば、何となく感じ取る位は出来るけど、墨みたいにはっきりとは認識出来ないし、勿論祓ったりもできない。ただ何となく、嫌な感じがするなあ程度の感度だ。
まあ……墨のおかげで、あたしは日常ではこれといって不自由無いんだけど。
かなりはっきりと見えるらしい墨は、中々大変なんだろうなと思う。
あたしも、たまに強く嫌だと感じるところで、そういうモノに無意識に触れてしまって、気分が悪くなったりすることもあるが、こうして墨が祓ってくれるので実害は無い。
腐れ縁の幼馴染みではあるが、根は良い奴なのだ。
朝は迎えに来て起こしてくれるし、守ってもくれるし。
だからあたしも憎まれ口を叩きながらもこうして一緒に過ごしている。
二階の階段の踊り場で、墨が上着の内ポケットから短い樹で出来た刀を取り出した。
そして目を閉じ、しゅんっとその場の空気を掻き切る。
彼があたしの方に向いた時には、そこにあった嫌な感じは消えて無くなっていた。
墨の表情から厳しさは消えていて、いつもの無愛想な顔に戻っている。
階段を下りてくる墨を見上げていたら、彼の黒い瞳と目が合った。
あ、れ―――?
すると突然、その墨の瞳が、顔が、ふと何かの映像と重なる。
それは今朝方にも見たばかりの、あの―――
「明日香?」
「え、あ、墨……」
ぼんやりしていたら、墨があたしの所まで歩いてきていて、はっと我に返った。
今あたし、何を考えていたんだろう?
何か、頭がぼうっとしているような……
「……髪留め」
「へ?」
「髪、解けてるぞ」
「あ……」
霞がかった思考の名残を辿ろうとしたら、墨に指摘されて再びあれ? と意識が戻る。
髪? と墨の顔を見上げたら、ふっと息を吐いた彼があたしに手を伸ばし、首の右側の……知らぬ間に落ちていた髪を掬い上げていた。
あ、れ―――?
「髪留めが取れかけてる。直してやるから、そっち向け」
「え、あ……うん」
促されるまま、あたしは墨に背を向け素直に彼に従った。
なんだろう。墨に髪を直してもらうなんて、これまでにもあった筈なのに。
なのにどうしてこんな、酷く懐かしいなんて……。
不思議と強い既視感をあたしは感じていた。
「相変わらず、お前の髪って綺麗な色してるよな。染めてないのに」
「な、何よ今更。どうせ茶色いって言いたいんでしょ。おかげで入学当時は女の先輩に目つけられて、大変だったんだから」
「知ってるさ。ちゃんと、助けてやっただろ?」
「それはそうだけど……」
墨の「何言ってるんだ」みたいな態度が少し気に入らなくて、つい顔がむくれてしまう。
だって墨が助けてくれたのはいいものの、そのおかげでまた別の弊害だって発生したのだ。
何しろこやつは顔が良い。普段は無愛想な癖に、あたしにだけは良く喋るから。
そう。
墨はあたし以外とは男子とも女子とも殆ど喋らない。
勝巳先生には悪態をついてはいるが。
男子とはまだ必要最低限の会話はしているみたいだけど、女子に至ってはそこにいないかのような態度だから呆れてしまう。
だけどそのせいで、墨に目を付けた子達に毎回嫌味を言われてしまうのである。
なんともまあ、理不尽な話だ。
……気持ちはわかるけどね。
墨が優しい手つきであたしの髪を梳いてくれている。
憎まれ口も叩くけど、なんだかんだ面倒見が良いのだ。
この墨という男は。
だから多分、腐れ縁とはいえあたしは恵まれているんだろう。
そんな墨を、独り占めできているんだから。
けどまあ、齢十六ともなれば、弊害も出てくるわけで。
こちとら一応、年頃の乙女ですし。
恐らくあたし達は近過ぎたのだ。
墨の態度からして、もしかしたら手のかかる妹くらいにしか思われていないかもしれないけど、ぎりぎり親愛の情くらいはあると思う。
だけど、それ止まりの可能性が高い。
だからあたしは……未だに、墨に思いを伝えられないでいる。
なんていうか、人生ってやっぱり無常である。
に、しても。
なんか墨、あたしの髪触るの長くない……?
つらつらと結構な時間考え事をしていたというのに、墨からは一向に「出来たぞ」の声がしなかった。
不思議に思っていると、後ろ髪がするりと束で持ち上げられる感覚がした。
「墨?」
「なあ明日香。お前、先月で十六になったよな」
「え? あ、うん。っていうか、墨だってうちでケーキ食べたじゃない。プレゼントもくれた癖に何言ってんの」
「ああ……そうだな」
墨が低い声で言う。
あたしの髪に、彼の声が響いた気がした。
見えないのに、まるで髪が彼の口元に引き寄せられているような感じがした。
まさか、ね?
ていうか、何してんの。
墨ってば……。
通路と階段のある、静かな場所で。
二人きりであるのが、なんだか妙に緊張した。
墨の息遣いが聞こえて、どうしてか胸がどきどきしてくる。
早くなった心拍が、余計に感覚を研ぎ澄ませて、墨の長い指先に、あたしの髪が纏わり付いているのが伝わる気がした。まるで髪が彼の手を繋いでいるように感じて、背筋にぞくりとした痺れが走る。
髪に感覚なんて無い筈なのに、墨の体温がわかるような。
「本当に……変わらず、綺麗だな」
「え、な、何、がっ?」
突然の賛美の言葉に、鼓動がばくんと跳ねた。
だけどその瞬間、墨が突然さっと手を動かして、パチンと髪留めを鳴らした。
振り向くと、髪は綺麗に纏められていて、一本の束となってあたしの動きに合わせて揺れた。
「……やはり今日か」
「墨―――っ!?」
墨が、急に低い声で呟きぐっとあたしの肩を抱き寄せた。
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