異世界


 黒く陰った意識は次の瞬間には白に染まり、かと思えば時を置かずに鮮やかさを取り戻した。


 はじめに感じたのは"音"。


 名前も知らない鳥の囀り。


 草原を駆ける風の足音。


 遠い昔、何度か嗅いだことのあるこの"匂い"は、確か土と青草の匂いだ。


 全身にのし掛かる程よい重力と、背中を押し返す大地の柔らかさの"感触"。


 それと、手に触れた小さい葉っぱと湿り気を帯びた土。


 眼底を刺す光に戸惑いながらもゆっくりと瞼を持ち上げてみれば、"視界"を覆い尽くしたのは一面の青。


 その先に無限の神秘を宿した宇宙を抱える、広大な蒼穹。


 疎らに浮かぶ白い雲がアクセントになり、その澄んだ色を一層引き立たせる。


 ここまできて、ようやくはたと気付く。


 僕はどこにいるのだろう?


 そもそも死んだのではなかったのだろうか?


 身体を起こそうと腹に力を入れて驚愕した。


 立ち上がることが――できる?


 もしやと思い脚に力を込めた。


 問題なく、動いた。


 全身の筋肉は衰えてしまっているはずなのに、驚くほど自然に立ち上がることに成功した。


 脚が動く。


 手も動いた。


 脳からの指令を受けた僕の身体は、何不自由なく動いて見せた。


 自分が死んだとか、そんな疑問はどうだってよくなった。


 ぎこちない動きで足を踏み出す。


 一歩。


 もう一歩。


 脚の回転数を徐々に速めていく。


 いつぶりだろう?


 "走る"という行為がこんなにも心地良いなんて忘れていた。


 地平線の向こうまで続く草原を力一杯駆ける。


 心臓を出発した血液が全身を駆け巡る。


 徐々に熱を帯びる身体。


 次第に脚には疲労が蓄積される。


 息が上がり、心拍が早くなる。


 それでも構うことなく、僕は走り続けた。



 一通り風との追いかけっこを堪能したところで、草のベッドへ仰向けにダイブする。


「はぁ、はぁ……ハハハ」


 何とはなしに笑いが込み上げてくる。


 胸いっぱいに吸い込んだ空気がとても美味しい。


「ハハハハ! アハハハハハ‼︎」


 そうだ、これが"生きる"だ。


 しばらくの間、僕は太陽に向かって笑った。


 命の危機に直面するまで、呑気に笑い続けた。



 ***



 命の危機、と聞けば何を思い浮かべるだろう?


 交通事故?


 マンションから鉢植えの花が落ちてきた時?


 それとも、山を散策していて熊と遭遇した時?


 僕の場合、それは病魔だった。


 辛く、苦しく、その気になれば僕の命の灯火なんて、ヤツに掛かればフッと一息に吹き消すことなんて造作もない。


 この日、病魔に加えてもう一つ、僕の命の危機に新しく追加されたものがある。


「グルルッ」

「――ハハハハ!!! ……は?」


 風のさざめきと鳥の鳴き声に混じって、何かが呻る声が聞こえた。


 慌てて上体を起こすと、草むらからこちらを窺う影が見える。


 鋭い眼光が二つ、僕を射抜くように睨みつめている。


 真っ赤な口から覗くのは、白く鋭い牙。


 全身を覆うのは、少し緑がかったグレーの毛皮。


「……ウルフ?」


 敵の姿を見た瞬間、ソイツの名前がふと、口を衝いて出た。


 間違えるはずがないと断言できる。


 親の顔より見た、と言っても過言ではない。


 色やフォルム、大きさ、入手可能なアイテム、行動パターンまで、事細かに記憶したモンスターだ。


 それと同時に、ここが何処なのかも見当が付いた。



――『レジサイド・オブ・サーガ』


 ファンタジー系オープンワールドVRMMORPG。


 五感の内、視覚、聴覚、触覚の一部を連動させることを可能にした、最先端のフルダイブ型VRゲームだ。


 プレイヤー達はモンスターの討伐や武具の作製を基本として、それ以外にも建築、商売、料理、農業など、幅広いプレイングが可能。


 グラフィックも現実と遜色ないと感じる程リアルで、瞬く間に一世を風靡した。


 そして何より、仮の肉体だとしても動くことが出来るという点は、僕にとってこれ以上ないほど魅力的だった。


 そうだ、ホ-ムページに掲載されていたスクリーンショットの画像に惚れて母さんに強請ねだったんだっけ。


 何かが欲しいと強請ったのは、後にも先にもあの一回だけだった。


 小さい頃から我が儘を言わない子どもだったから、その日の夜には専用ハードを含めて父さんが会社帰りに買ってくれた時は嬉しかったな。


 とすると、この草原はレジサイド・オブ・サーガにある七地点のスタート地点。


 その内の一つである『スタング平原』だろう。


 そしてこのモンスターは、スタング平原に出現ポップする敵MOBの一種である【ウルフ】だ。


 何の因果か、レジサイド・オブ・サーガの世界にやって来たみたいだ。


 "転生"なのだろうか?


 色々とよそ事を考えていたら、ウルフが完全に戦闘態勢に入っていた。


 四肢を軽く曲げ、いつでも攻撃を仕掛けられるように準備を整えている。


 この距離まで接近を許した時点で、逃走はほぼ不可能。


 二度目の人生初の命の危機が、笑い声でモンスターを呼び寄せたなんてお笑い種だ。


 それでも僕は、心のどこかでこの状況を楽しんでいる。


 下手をすれば、死ぬかもしれない。


 あの牙には僕の肉を食い破り、致命傷を与えるだけの"攻撃力"が確かに備わっている。


 だけど、不思議と恐怖はなかった。


 リスポーンなんて都合のいいことがあるなんて考えてない。


 それでも、この絶対絶命的な現状を乗り切れる自信が僕にはあった。


 起き上がった僕に、ウルフは牙を剥き出して襲い掛かってくる――

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