第3話
「カチェ」
「きゃあっ」
いつの間にか寝室に入ってきていたらしいレオニードが、わたくしのつむじにむかって呼び掛けてきました。
驚きます。ひゅっと身を細くして振り仰ぐと、レオニードはその精悍な頬を緩め、とろけるような笑みを浮かべました。
その、その、ぱっと見たところはベリーのような爽やかな甘い表情なのに、なんとなく、色だけ似たレアステーキの肉汁のような気配がするのは、何故でしょう。
「カチェ、緊張してるね」
「ふ、ふへ」
緊張、というか、これって恐怖に近いのではないかしら。
レオニードがわたくしを呼ぶ時、カとチェの間に、ほんの少し、間があくのです。その呼び方を聞くと、いつも体の力が抜けてしまうのですけれど、今日はむしろ、固くなって震えてますもの、わたくし。
ああ、やっぱり怖い気がします。
未だかつて、レオニードに対して抱いたことのない気持ち。心臓が破れそう。というか、心臓を食いちぎられそう。
でも、おかしなことに、わたくし、逃げる気にはならないのです。
これ、レオニードが穏健派のふりをして、根っこのところは戦闘民族だったということでしょうか。あまり想像はできませんけれど、レオニードは正真正銘戦士でもあるのですから。
でも初陣のころは、わたくしより背が低くて華奢な少年でした。わたくしは心配で心配で、不吉なことにお見送りで泣いてしまったのは、気恥ずかしい思い出です。わたくしの心配など何もいらないとばかり、大勝して帰ってこられました。
今でも、レオニードは歴戦の軍人の男性方に比べると細く見えます。未婚の娘は軍の模擬戦など見学できませんので、とてもお強いという噂は聞くものの、実は半信半疑なのです。
……え、ええ? えええ??
こ、これはレオニードなのですわよね。腕も肩も胸も、筋肉で覆われていて、わたくしの何倍もあるように思うのですけれど。確かにお会いする時は長衣が多かったですけれど。でもおかしいですわ。なぜ、衣を脱いだら体が大きくなりますの?
思わず押し返した肩が、固くて、熱い。
え、中に何か入ってません? 入ってますわよね。肩だけではなくて、腕にも、ほら、胸にも。これはなに? その、わたくしより、より――。
「そのまましばらく、混乱していていいよ。僕も余裕がないからね」
すきだよあいしてる、と夫になった人は言って、わたくしはそのまま、嵐に巻き込まれたのでした。
・
・
・
と言っても、まあ、何のおかしなことでもなく、仲の良い夫婦が一緒に寝ただけのこと。言ってみればそれだけのこと。けれど、ええ、たくさんのことがありましたとも。
夫は朝もわたくしにまとわりつき、朝食を手ずから食べさせ、甲斐甲斐しく起きたり顔を洗ったりの介助をして、最後に何故かもう一度、わたくしを体力の限界まで追いやったあげくに、ご機嫌よろしく執務に出かけたようですわ。
わたくしは、昼もとうに過ぎた時刻に侍女に起こされ、今夜のために、とあまり見たことのない栄養価の高い食物とやらを勧められました。
少し夫が恨めしくなりますけれど、おおむね、幸せ絶頂の新妻という感じではないでしょうか。
ふう……、ご相談したいと申したのはわたくしですのに、昨夜は申し訳ございませんでした。
もう、率直に申します。とても、つらいのですわ。
今体が思うように動かせないことではありません。愛されすぎてつらい、などという勘違い発言でもありませんわよ。
この、順風満帆ライフ。いつ終わりがくるのかと考えてしまうのが、つらいのです。
実は、わたくし、前世があるのです。
まあ驚かれませんのね。そうですわよね、そもそも転生に詳しい方にご相談しているのですもの。
ただ、わたくしの場合、なにひとつ今世に活かされていない前世ですけれどね。
前世のわたしはどこぞの王国の姫だったのですけれど。それはもう、それはもう、波瀾万丈大波小波、何度死んだ詰んだと思ったか分からないほどの荒波をくぐり抜けて、七転び八起き、繰り返すどんでん返しの最後の最後の、そのまた最後に、ようやく幸せを掴み取ったのでした。
そういえば、結婚はしなかったのかしら。男性との巡り合わせが悪かったのかしら。その辺りは一切記憶がございませんわね。
ともかくそんな前世を持っていたばかりに、おぎゃあと泣いて、あら生まれ変わったわね、と悟った十六年前のあの日から、今世はいかなる試練が来るや、と気合を入れていたのです。けれど在ったのは穏やかで幸せでしかない日々。
いつか不幸が、どんでん返しがやってくる。
それに備えて
そう思っていろいろ行動をすればするほど、先見の明がある賢女、と世に評されて、よけいに良い風がびゅうびゅう吹いて、もはや幸せチートでぶっちぎり状態になってしまいましたの。
光が強ければ影も濃い。それが世の真理だと、まさに身に刻み込んで思い知った前世でした。なのにあるべき影が何もない。そんな時に、無邪気に幸運を喜べるならよかったのに。
灯台下暗しと申します。怖い言葉ではありませんこと? 知らぬ間に足元に深い穴が空いているのではないかと、気がつけばいつも恐ろしい妄想ばかりしてしまって。
実家が没落するのではないか、父が悪事に手を染めていて、ある日露見するのではないか。
盗賊や政敵に襲われるのではないか、恐ろしい天変地異が起こるのではないか。
レオニードが心変わりするのではないか、親しい人が皆突然そっぽを向くのではないか、信頼した人に裏切られるのではないか。
病を得るのではないか、罠に嵌められて陥れられるのではないか、事故に遭うのではないか。
戦争が激化して国が衰退するのではないか、周辺国が同盟を組んで一挙に攻めてくるのではないか。
果ては、買った壺が呪われているのではないか、ある日死神が現れて国が死に絶える疫を撒くのではないか。
とまあ、ずっと落ち着くことができず怯えて疑って。だからわたくしの胃は、いつもシクシクと痛んでおりましたの。山羊の乳で保護しなければ、穴が空いていたでしょう。眠れない夜も多うございました。
そんなに疑い続ければ、疲れて当然です。まして疑ったことの多くは現実になることもなく、いらぬ気苦労でわたくしの胃壁が危うくなるだけ。
それに、こんなにマイナス思考に振り回される女は、レオニードに呆れられるかもしれません。暗いですもの。足元の闇ばかり気にして! 薄暗い!!
それで、どうしたらこの前世の人生が負ってしまった疑い癖を、今世の人生から払拭できるか、そうみなさまにお尋ねしたかったのです。
けれど……。
実はわたくしの不安は、レオニードには筒抜けだったようで。
昨夜、仔細は記憶が朧なのですけれど、それはもう、なんだか意地悪をされて、わたくし、ぺろっとしゃべってしまったようですの。
前世のことも、わたくしの不安も。レオニードに知られるのが怖いと思っていたなにもかもを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます