第30話 エレンの追憶①

 濃い橙色から、淡い藍色に変わる空。

 砂糖のように細やかな星が散りばめ始めたそこに、黒い竜が流星のような速さで飛翔する。

 風を切り、肌に冷たい空気が刺さろうと、エレンは手綱を持つ手を緩めない。


(マナ、どこにいるのですか……!)


 今回の主犯であろうライオルの根城であるサルベール伯爵領に向かう中、エレンの脳裏に今日までの記憶が泡のように浮かんできた。



 当代天恵姫マナの伴侶にして、最年少で最高位ランクの【黄金】を賜った王宮魔術師――それが、現国王の実弟エレン・リナウス・ヴィリアンのもう一つの姿だ。

 前王妃もとい実母の予言によって、天恵姫の伴侶と決められたエレンはその時点で王位継承権を失っている。

 その理由は天恵姫を政治的に利用せず、精霊と王国の親交と繁栄の証としてあるべきという初代国王と精霊王によって交わされた誓約によって、伴侶となった者の身分問わず継承権を強制的に剥奪される決まりだ。


 それにより、自分が王族の一員であることは変わらないが、継承権を剥奪されたことでどれだけ貴族連中が取り入ってもエレンが国王として君臨することは一生ない。

 それ故なのか、天恵姫の伴侶となる者の身分は貴族や騎士、平民など様々だったが、国王が伴侶として選ばれることはなかった。


 エレンの実父である前国王ハインリヒ・ドルス・ヴィリアンは、圧制者に相応しい厳格な面立ちの裏には黒く渦巻いた欲望を抱いた男であり、誰よりも天恵姫を欲した。

 幼少の頃は天恵姫の伴侶になることを将来の夢として語った無邪気な王子だったが、王宮の習わしと誓約によってそれが一生叶わない夢だと痛感し、絶望を味わった。


 だが、その一生叶わない夢が、二番目の子供に与えられると予言を告げられた。

 その結果、エレンに対するハインリヒの態度は一変した。


 最初は無視。何度も「父上」と呼んでも、反応を示さなくなった。

 次は目付き。エレンが顔を見せるだけで、憎悪を滲ませた目で睨むようになった。

 その次は罵声。会うたびに謂れのない暴言を吐くようになった。


 それから次第に暴力と暗殺になったのは、時間の問題だった。

 姿を見せるだけで殴られるのは当たり前で、泣きそうに顔を歪めただけで「泣くな」と怒鳴られさらに暴力を振るわれた。

 毎日の食事に毒を盛られ、歩いているだけで階段の上から落とされかける。


 心身共に衰弱していったエレンは、自然と部屋を出ることすら恐れた。

 自室に引きこもり、自分で用意した食事を食べながら書物に耽る日々。

 たまに母や兄が外に連れ出そうと奮闘するも、頑なに自分から部屋に出ることはなかった。


 だが、それがいけなかった。

 自主軟禁生活を始めてから一年後、痺れを切らした父がついに直接手を下してきた。

 施錠した自室の扉を、魔法で作った鍵で開けて、ベッドの上で眠るエレンの首を絞めてきたのだ。


 首への突然の圧迫感に驚き、目を覚ましてすぐハインリヒの姿を見た時、エレンは悟った。


 ああ、ようやくこの時がきたのだ、と。


 ひ弱な子供の力では、大人の拘束から逃れるなんて不可能。首を強く締められ、意識が朦朧としていき、ついに全身の力が抜けてきた時だった。


 背後で蠢く巨大な影。

 肉を切り裂く音。

 そして、父の口から吐き出され、顔に降り注いだ生暖かい血。


 それらがエレンの味覚以外の五感を支配した途端、血塗れの父の体はベッドの上から転げ落ちた。

 呆然と虫の息になった父を横目に、エレンは真の〝前王殺し〟を見つめる。


 父を、前王を殺したのは、皮肉にも契約していた精霊だった。

 ハインリヒの契約した精霊は、白い狼の姿をした美しい【氷】の精霊。

 彼の片前肢は赤く染まり、荒い息を吐いてエレンを見下ろしていた。


 きっと契約者である父の蛮行を止めたい一心だったのだろう。長年連れ添い、共に絆を結んだからこそ、ハインリヒが過ちを犯す前に自ら手を下した。

 だが、精霊界にとって、自身の契約者に手をかけるのは最大の禁忌。


 罰として下されるのは、禁忌を犯した精霊の消滅だ。

 儚い氷の粒となって消えていく精霊を見て、エレンは泣きながら抱きしめた。


『逝かないで。ごめんなさい。僕が悪かった。お願いだから、消えないで』


 何度も何度も謝罪を告げるも消滅は止まらず、滂沱の涙を流す自分を見て、精霊は優しく微笑むとぺろっとエレンの頬を舐めた。

 それが、最期の挨拶となった。

 精霊だった氷の粒が腕の中で跡形もなく消えていく光景と、冷たくなった父の亡骸。


 予言によって決められた運命によって狂った一人の男と精霊の結末に、幼い子供には耐えられないショックとなり、次にエレンが目を覚ましたのは父の死から一週間後だった。

 前国王の死は、表向きでは暗殺者によって殺されたと発表され、国民に真実を明かさない方針で決まった。

 しかし心に深い傷を負ったエレンは、しばらく王宮にいることができない体になり、一〇歳になるまでの間、貴族街にあるジャクソンの家で居候することとなった。


 居候の間、エレンは言葉を発することを忘れ、ただ人形のような虚ろな顔をする子供になっていた。

 食事や身の回りはメイド達がしてくれたが、それ以外はずっと窓の外を眺めるだけ。

 父の葬儀が大々的に行われていた間も、エレンは部屋から出ることはなく、ただ己の運命を狂わせた予言を呪った。


 そんな生活を始めてから半年が経った頃、ふとエレンは天恵姫のことを思い出した。

 父が心の底から欲し、実の子すら手にかけるほど執着した存在。

 世界にとっては尊く、エレンにとっては元凶である少女のことが気になり始めた。


 本来、天恵姫と伴侶はどちらかが一八歳になるまで接触することは許されない。

 でも、魔法なら接触せずとも天恵姫に選ばれた少女を見ることはできる。

 そんなエレンの願いを、ジャクソンは最初渋ったが結果的に叶えてくれた。


 エレンの提案によって魔法で天恵姫のいる屋敷の様子を見た瞬間、心の奥底に抱いていた憎しみが一瞬で消え失せた。


 城下町の娘よりみすぼらしい服を着せられた姿。

 使用人が寝泊まりする棟の端の狭い部屋で、薄い布団の中に包まりながら眠る姿。

 義理の母と妹に虐げられ、実の父に見放され、一人涙を流す姿。


 本来なら尊ばれるべき存在である天恵姫――マナが正反対の扱いを受けていたと知り、エレンはジャクソンと一緒に言葉を失ったことは、一生忘れない記憶として刻まれた。

 それと同時に、この出来事がエレンがマナを知ろうと思ったきっかけとなった。

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