第25話 口づけと悪事のはじまり

 質問を終えたエレンは、二杯目の花茶をカップに注ぐ。

 やはり喋っていると喉が渇くのか、それとも気分を紛らわせているのか。

 どちらにせよ、質問はまだ残り二つある。しかも、彼にとっても自分にとっても特大なものが。


「………………次の質問なのですが…………エレン様は、これまでちゃんとどんな質問もお答えしてくれました。だからこそ…………この質問にも、しっかりとお答えして欲しいのです」


 ドレスのスカートを強く握りながら、マナはエレンを見つめる。

 突然真正面から見つめられ、エレンは思わず体を硬直させた。

 その間にも、改めて目の前にいる伴侶の姿を見る。


 本当に、綺麗な人だ。

 絹糸のように滑らかな黒髪、エメラルドのような緑色の瞳、肌は女である自分ですら羨んでしまうほど透き通っていて、雪花石膏アラバスターを彷彿とさせる白さ。

 過去に屋敷で行われたパーティーで、何度かアイリーンを囲む令息達を見たことはあるが、エレンのような美しさをした人はいなかった。


 それに比べて、自分はどうだろうか?

 王宮の手厚い生活改善によって、食事量が増えていって、痩せこけていた両手足は人並みに肉がついてきた。

 痛んだ髪は艶やかになり、血色がよくなって、がさがさだった肌は年相応の潤いとハリを取り戻した。


 ティリスとローゼは「マナ様は日に日にお美しくなっていますね」「天恵姫に相応しいお姿になっています」と言ってくれるが、マナ自身はそう思えなかった。

 いくら見た目が美しく変わろうと、中身は全然変わらない。

 他者からの愛を求めながらも、その愛を疑ってしまう。


 どれほど綺麗な言葉で想いを告げられても、完全に信じることができない。

 家族にすら愛されなかった時間が長すぎた影響によって生まれた、拭い切れない猜疑心。

 信じたくても信じられない、マナ・パルネスはそんな酷い娘なのだ。


「…………………エレン様は、本当に私のことが……好きなのですか…………?」


 唇を震わせながら、問いかけた直後。

 エレンの両目が、大きく見開かれた。

 まるで、その質問をされるとは思わなかったと言わんばかりに。


「…………何故、そのような質問を?」

「分からないのです。エレン様のような御方が、なぜ私を好きになってくれたのか……。エレン様もご存知でしょう? 私がパルネス家でどんな扱いを受けていたか」


 最愛の母を失って、誰もがマナを見捨てた。

 血の繋がった父は継母とその娘だけを愛し、存在を消すようにこちらに見向きもしなくなった。

 優しくしてくれた使用人達は不当な理由や個人の都合でいなくなり、身も心も擦り減っていく中で先の未来に生きる希望も気力も失っていた。


「エレン様は私のためにたくさんのものを与えてくれました。このお部屋も、食事も、綺麗なドレスも……全部エレン様の純粋なお心遣いだと分かっているのです。ですが…………優しくしてくれるたびに、どうしても疑ってしまうのです……これまでの行動も言葉も、全てあなたの本心なのかと」


 ずっとずっと必要ない娘だった。

 無能だと、死んでもいいと言われ続けた。

 冷たくされるのが当然で、暴力と罵声を浴びせられるのが普通で。


 だからこそ、彼に愛されるたびに、いつ態度を変えて捨てられるかと思い何度も恐怖した。

 信じたい、でも信じられない。

 それほどまでに、マナの心は真っ直ぐなエレンの想いを疑うほど深く傷ついている。

 

「ですので……どうか、お答えください。どうして私を好きになったのかを」


 故に、知りたかった。

 彼の本心が。自分ですら知らない、彼の恋のはじまりが。

 答えてくれれば、きっと今のマナが伝えられる言葉を言えるはずだから。


「―――……」


 だけど、エレンは黙ったままだった。

 さっきまで饒舌に質問に答えてくれていたというのに。

 視線を彷徨わせ、深く息を吐いて、おもむろにソファから立ち上がる。


 つかつかと歩いてきたかと思ったらマナの隣に座ってきて、思わず距離を取る。

 しかしそうなる前に、エレンはマナの左手首を掴むと、そのまま自分の方へ引き寄せた。

 細身にしては強い力によって、マナの体はそのままエレンの腕の中に収まった。


「……そうですよね。あなたにしてみれば、僕の言葉なんて信じることができないでしょう」


 自虐めいた声色が、マナの耳朶を打つ。

 作り顔をしていた時の声とも、ガイルと話す時の声とも違う。

 その声が、マナには寂しがり屋の子供のような声に聞こえた。


「ですが……これだけは約束します。もしあなたに数多の悪意や危機が襲いかかっても、僕が必ず守ります。そのためなら、この体がどれほど血を流そうとも構いません」


 そっとエレンの体がマナから離れる。

 至近距離で見た彼の顔は、涙を流すのを必死に堪えているように歪んでいたけれど、その緑色の双眸には目眩がするほどの熱量が籠められていた。

 優しくマナの頬を撫でた瞬間。


 マナの唇と、エレンの唇が重なった。


 何が起きたのか分からず、マナはただその柔らかさを受け入れることしかできなかった。

 まるで永遠とも一瞬とも言える時間の間に、そっと唇が離れる。

 あの感触が離れるのを名残惜しく感じながら、エレンは囁くように言葉を紡ぐ。


「――好きです、マナ。他には何もいらないくらいに、僕はあなたを愛しています」



【闇】の精霊が快活に動き回り、【光】の精霊が寝静まる夜。

 貴族からも平民からも白い目を向けられているパルネス邸には、ある客人が訪れていた。

 ライオル・サルベール伯爵。

【銀】の王宮魔術師で、パルネス前男爵――ガルムの父とも親交のあったサルベール前伯爵の息子だ。


 年はガルムとそう変わらないが、正直なところそこまでの交友関係はない。

 父親同士の親交があったことなど初耳だし、ライオルとはそもそも階級が違うため接点など皆無だった。

 それが何故か、夜遅くに突然現れたせいで屋敷の中は大慌てになり、ようやく落ち着きを取り戻したのだ。


「突然の訪問、大変申し訳ないことをした。パルネス男爵」

「いえ、滅相もございません……こちらこそ、サルベール伯爵を満足におもてなすことができずも……」

「構わない。くだんの噂のせいで、そなたらが大変な目に遭っていることは知っている」


 ならば言うな、と内心毒づきながら、ガルムはグラスに注がれた葡萄酒を口にする。

 王都暮らしの貴族の中では安い方に入る葡萄酒だが、今のパルネス家ではこれを出すだけでも精いっぱいの状況だ。

 本当なら、この家には年中遊んでも残るほどの大金や名誉があったはずなのに。


(それもこれも全てマナのせいだ! あいつさえ天恵姫でなければ、こんなことには……!)


 脳裏に浮かぶのは、醜く育った無能の娘。

 前妻と同じ容姿をしながらも、アイリーンと違い酷く醜く痩せっぽちで、嫁ぎ先すら用意する価値すらなかった。

 それなのに、今では天恵姫という雲の上の存在になり、国の保護を受けながら自分達よりも贅沢な暮らしをしている。


 そんなこと、許せるはずがない。

 今すぐにでも接触して、家のために尽くすよう言いたかった。

 しかしアイリーンが勝手に接触を図ったことにより、マナの周囲の監視の目が厳しくなり、職場でもその目が向けられる始末。


 自分より高位の貴人がいるにもかかわらず、苛立ちを隠さないままグラスをローテーブルに叩きつけるように置く。

 それを見て、ライオルは面白そうに口元を緩める。


「随分と苛立っておるな」

「当然です! マナが天恵姫だったこともそうだが、あのいけ好かないクソガキのせいで、我が家は没落の一途を辿っています! 親戚共はすでに我々を見放して……クソッ!」

「なるほど……」


 荒い口調で喋りながら、ドバドバとグラスに新しい葡萄酒を注ぐガルム。

 大して美味くもなければ不味くもない葡萄酒を飲み終えたライオルは、コトリとグラスをローテーブルに置いた。


「では……返り咲こうではないか」

「は……?」


 突然の提案にガルムは目を丸くする。

 年を取った中年には似合わないその表情を見ながら、伯爵として相応しい気品を見せながら言った。


「我らの手で、天恵姫を奪い、その伴侶を殺す。予言をあるべき姿に戻すのです。そうすれば、パルネス家はこの国一の貴族として返り咲くことでしょう」

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