第15話 三十歳と二十二歳の適切な距離を求めよ

 ……どのくらい、そうしていただろうか。

 扉が叩かれる音で我に返った。こんこんと控えめなノックが響く。夕陽の色が窓から差し込んで、いつの間にか部屋は薄暗くなっていた。

 涙を拭い、立ち上がる。

 控えめなノックがもう一度。


「……どうぞ」


 声は震えていなかっただろうか。

 扉が静かに開き、予想もしていなかった人が入ってきた。


「マルケータ先輩……、大丈夫ですか?」

「コンラート様……」


 名を呼び、だが何と続ければ良いかわからない。立ち尽くしたまま、しばし見つめ合う。

 彼の、少し癖のある金髪が、夕陽の色と相まって美しい。


「先ほど、ドシェク公爵家のユリウス殿を見かけました。……貴女に用だったんですか?」


 コンラート様の表情は固い。普段人懐っこい笑顔でいることが多いから、なおさら真剣味を感じてしまう。問いかけの口調ではあるが、その声には確信が込められていた。

 こくりと頷いて見せる。

 また、しばしの沈黙。

 いたたまれない感情に突き動かされて、歩く。会釈して、彼の隣をすり抜けようとした時……腕を掴まれた。


「は……、離し、て、ください」

「……申し訳ありません、離せません。何があったんですか……先輩」

「離して……!」


 乱暴に腕を振り解こうとするが、彼の手は力強く、離してくれない。むしろぐいと引き寄せられて、コンラート様の瞳が私を覗き込むように見つめる。

 力を入れた反動か、身体から力が抜けていく。為すすべもなく、視線を合わせる。

 ふと気付く。


(ユリウス様は、こんなふうに……真っ直ぐ見てくれなかった、な)


 ふ、と吐息がこぼれる。

 ……コンラート様が本気で心配してくれていることくらい、わかっていた。

 でも、だからこそ。巻き込んではならないと、告げた。


「……コンラート様には……関係の、ない、ことです……」

「いいえ。関係はあります」


 返ってきたのは力強い否定の言葉。

 腕から手を離し、改めて私の正面にコンラート様が移動する。自然と見上げる姿勢で、真剣な視線から目を離せない。


「どうして……?」

「貴女のことを愛しているからです……マルケータ先輩」


 ……はい?


「……はい?」


 勘違いであったはずの好意――よりもなお明確で、潔い言葉が突き刺さった。

 ……いくら私でも、今の反応が流石に失礼だと理解はしている。しているが、三十年の人生経験の中に適切な答えがなかった。

 コンラート様の顔が少々赤く見えるのは、夕陽の当たり具合によるものだろうか。


「ご……、ご冗談を、仰らないでください」

「冗談ではありません。本気です」

「……嘘です」


 乏しい経験からは、コンラート様の言葉と表情に、本気を感じてしまっている。

 けれど、それは有り得ないことだった。


「知り合ったのは……最近ですし……」

「以前から慕っていました。最初は……円卓会議で見た赤銅塔からの資料が、美しくて。次に、貴女自身の美しさと真摯さに惹かれて。最後に……計算している時の真剣な横顔に、見惚れて。……実は一度踊ったこともあるのですが、覚えていらっしゃいますか?」


 ひゅっと喉が鳴る。

 全然覚えていない。


「う……美しくなどありません。真摯でも……ないです」

「いいえ。先輩はお美しいですよ」

「計算しか取り柄のない、つまらない女です」

「知性は最高の美徳のひとつだと思いますが」

「……わたし……三十歳、ですよ……?」

「関係ありません」


 悩みも羞恥も切り捨てるような、小気味良い彼の即断。

 じわりと、視界が滲む。……先ほどとは別の涙が溢れそうになっていた。


「あ、……俺が幼すぎるということなら……その。頑張りますので」

「そ、そのようなことは、決して……!」


 これ以上頑張られてもこちらが困ってしまう。


「……ですが……あの。先日……見てしまって……ご令嬢と……」

「ご令嬢と? ……ああ、もしかして……あの夜の」


 少し、言葉を選ぶ気配。


「彼女からは……確かに、お付き合いをとお話を頂きました。けど、その場でお断りしました」

「で、ですが、その……くちづ……せ、接吻を……」

「していませんよ。失礼のないようにお断りしないとと考えていて……きちんと俺には心に決めた人がいるとお話して、わかってもらいました。だから……」


 再び彼の手がこちらへと伸びてくる。腕ではなく腰に触れる手は、夜会の時よりも少し強引な力で私を抱き寄せた。

 抵抗などできるはずもないし、抵抗したとしても無駄だっただろう。そのくらい、力と感情が籠もった仕草で、腕の中に抱き納められてしまった。


 お顔が、近い。


「愛しています。マルケータ先輩」


 真っ直ぐに、私へと向けられた視線。真っ直ぐな言葉、表現。

 胸の奥に深い確信が訪れる――彼は、私を、見てくれている。

 計算も証明もできないその確信を、愛おしく抱き締めて、頷いた。


「……はい、コンラート様。……私で、よければ……」

「貴女が良いのです。……良ければ、呼び捨てにしていただけませんか」

「では、私も……先輩ではなく」


 何となくおかしくて、ふふ、とこぼれるように微笑み合う。

 彼の腕は私の背に。逆の手が私の手を取る。ペンだこのある手を咄嗟に丸めるが、彼の指に丁寧に開かされてしまう。固い部分をくすぐるように撫でてから、五指を絡めとられる。


「マルケータ」

「コンラート」


 彼は背を丸め、私は背伸びして。

 互いの名を呼ぶ声と、唇が、そっと重なった。

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