第14話 騎士の行軍に必要な糧食その他の費用を求めよ
ドシェク公爵家からの使者が赤銅塔まで押しかけて来たのは、その数日後だった。
使者は騎士や従者ではなく、三男ユリウス様その人だ。
「ど……、どのようなご用件、でしょうか……?」
仕事中だった私は、慌てふためいたズミノー伯爵に呼び出された。応接室に入った途端ズミノー伯爵は出ていき、ユリウス様と二人きりにさせられてしまったというわけだ。
立ち尽くしたまま、向かい合う。美しい金の髪の下、険のある緑色の瞳が睨みつけてくる。
「久しいな、マルケータ。息災にしていたか」
だが、問いかけに返ってきたのは用件ではなく、挨拶の言葉だった。
ますます混乱してしまう。婚約者としての距離感が遠いなりにあったはずだが、既に思い出せない。辛うじて、身に刻み込まれたマナーが私を動作させた。仕事用のドレスではしづらい
「……はい、おかげさまで……」
思考に満ちる疑問符をそのまま表現してしまったような、迷いながらの答え。言ってから気付くが、これだと婚約破棄のおかげで息災だ、と繋がってしまわないか。
ユリウス様の表情は冷たく、少なくとも、こちらの健康や混乱を気遣ってくれている気配はなかった。
「お前にしてもらいたいことがある」
言い放つと、そばの机に封筒を一通置いた。見ろ、ということだろう。態度は以前と変わっておらず、何故か少し安心してしまう。
失礼しますと声をかけ、封筒を手に取る。紐を解いて、中の書類を丁寧に取り出した。数枚の書類で、紙は塔の上部で正式な書類に使われるような真っ白で分厚い紙だ。
「これは……予算の、案?」
「そうだ。森の国に我がドシェク家を中心とする騎士団を遣わすためのな」
先日の夜会でも話題に挙がった話だ。森の国の援軍要請を受けて、その戦争に介入するのかどうか。
噂に聞くところでは、御前会議ではひとまず様子見との判断が下されたはずだが。
いぶかしみながらも、目は自然と書類に記された数字の列を追う。
「……、これは……」
唇から、意味をなさない言葉が漏れた。数枚の書類を、もう一度最初から読み直す。
結論は三度読んでも変わらなかった。
桁が足りない。
「……あり得ません。ドシェク公爵家の騎士団を動かすのに、こんなに少ない金額では絶対に足りません」
羊は草を喰い、騎馬は金貨を喰う、という。騎士という存在はとにかくお金がかかるのだ。騎士団としてまとまって行軍するとなればなおさらで、書類に記された金額では少なすぎることは明白だった。
王の名のもとに、国のために騎士を動かす場合、その費用は国が三割・家が七割。この金額では一割にも満たないだろう。
「多少は数字が読めるようだな、確かに」
「ユリウス様、この数字は……」
「それがお前への依頼だ、マルケータ。お前の名で、正しい数値として報告しろ」
「え……?」
何を言われているのかわからず、ただ首をかしげる。
私の『わからなさ』こそが理解できなかったのだろう。怪訝な……というより不機嫌な……表情をしたユリウス様がもう一度言う。
「この書類の数値が正しいと報告を上げろ。次の御前会議は二週後だから、今週中に」
ゆっくりと咀嚼するようにその言葉を飲み込み、理解する。
恐らく、名目としては使者や偵察とするのだろう。小規模な動きを装って、実際には不足の分をドシェク公爵家で持ち出すことで騎士団を派遣するのだ。塔の国は、否応なく戦争に巻き込まれることになる。
そのために――
「誤った数値を……見逃せ、と仰るのですか」
「そうだ。お前はどうやら、円卓会議の連中に名が売れているそうじゃないか。そのお前が通したなら、塔の上層部の説得もしやすくなる」
ユリウス様は言葉を区切り、初めて笑った。
嘲りをたっぷりと込めた笑みだった。
「計算が得意な、赤銅塔の
――それは。
数日前に、自ら理解してしまった役割で。
私が縋り付いていた役割を、ユリウス様は嗤う。……喉が詰まる。胸が苦しい。何も言えないまま、ただユリウス様の言葉を聞くしか出来ない。
許されるなら、うずくまりたかった。頼りないヒールにまで震えが伝わってしまいそうだった。
「無論、報酬はくれてやる。親戚筋の有望な騎士を結婚相手として紹介しよう。公爵家とはいかないが血筋は確かだぞ。もう赤銅塔に出仕する必要もない。父上……ドシェク公爵の名においての約定だ」
ユリウス様は続ける。
私の答えなど聞くまでもなく決まっていると言わんばかりに。
「お前の父もまだ手紙を寄越すそうだからな。親孝行にもなる。……どうした、不満か? 俺には真実の愛を誓った女がいるから、婚約の復活はできんぞ。どうしてもというなら立場上は愛人にでも――」
「……おやめください!」
制止の言葉が、勝手に溢れた。胸は苦しいばかりで、走ってもいないのに息が上がる感覚。は、と短く息を必死に吸い込んで、震える声を何とか絞り出す。
「……考える時間を……いただけますか」
「いいだろう。だが先程も言った通り、余裕はないぞ……明日の夜には使者を送る。ま、考えるまでもないと思うがな」
書類を握りしめた私を残し、ユリウス様は部屋を出ていく。
扉が強く閉まった瞬間に身体から力が抜け、その場に膝をついてしまった。
溢れた涙の熱で瞳が燃えそうだった。書類に涙がかからぬよう、ドレスの袖に顔をうずめる。
「う、うう……ううううう……」
インクで汚れた袖に、涙と嗚咽を吸わせた。
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