第13話 赤銅塔の計算役の価値を求めよ

 翌日も、コンラート様の様子は変わらなかった。

 もちろん、私の方も全く完全に何一つ変わらずいつも通りに接した。


「マルケータ先輩、計算を見てもらえますか?」

「検算は誰か別の人に見てもらってください。私は忙しいので」

「先輩、この書類の読み方を教えてほしいんですが」

「誰か別の人に教えてもらってください。私は大変忙しいので」

「先輩――」

「私はとても忙しいので」


 いつも通りのはずなのに、計算が手につかない。

 筆算を進めるペン先は止まりがちで、単純な足し算にすら時間がかかる。まるで書くそばからインクが固まってしまうかのようだった。

 コンラート様から呼びかけられるたびに、鼓動が強く打つ。胸を締め付けるような感覚を伴う鼓動だ。

 コンラート様からいつも通りの笑顔を向けられるたびに、視線を逸らしてしまう。どこか可愛らしい印象すらある無邪気な笑みを、しかし、今日の私はまっすぐ見ることができない。


 神殿が正午の鐘を鳴らす。

 いつの間にか詰めていた呼吸を思い出して、ゆっくりと吐息した。

 周囲の同僚たちもペンを置き、立ち上がったりお喋りに興じたりしている。この休憩時間に軽食やお菓子を少しとり、晩餐に備えるのが淑女の嗜みだ。


 その頃にはコンラート様も諦めたのか、声をかけてこなくなっていた。

 良かったと思うべきか、申し訳ないと思うべきかもわからないまま立ち上がる。買い物などを済ませてこちらに向かっているはずの侍女と落ち合い、昼食にしよう。そう思った私の行く手を阻む人がいた。


「少々お時間いただけますか? お渡ししたいものがあって」

「……コンラート様」


 『めげない人だな』、と他人事のような感想を思い浮かべてしまい、口に出す前に打ち消す。軽く会釈して方向を変えようとすると、その前に回り込んでくる。


「…………」

「…………マルケータ先輩、甘いものが好きだと言ってましたよね」


 無言ですり抜ける隙を探す私を通してくれず、どこか愉快がるような声で彼が言う。手にした木箱を開いて見せる……中には宝石のように美しい飴玉がいくつも。

 ご令嬢の方々の視線が集まる中での贈り物が……たとえ菓子だったとしても……どんな意味を持つか、この人はわかっていないのだろうか。


(――それとも)


 わかった上で言っているのか。

 脳裏に浮かぶ、あの夜の光景。誰もいない赤銅塔の中、寄り添い合っていたご令嬢とコンラート様。ゆっくりと近付く二人の距離。


(ああ……、そうか)


 不意に納得が訪れた。計算が合わず悩んでいたらそもそも最初の数字を書き間違えていたと気付いたような、気恥ずかしさと落胆と安堵が混じり合った感覚が胸を満たす。

 彼は最初から言っていたではないか。


(――先輩、と)


 私はコンラート様にとって、計算を教える先輩でしかない。なのにその真摯な態度を、浅ましくも好意だと勘違いしてしまった。ずっと目を背けていたくせに、女性に寄り添う彼の姿にショックを受けるなどとは、はしたない思い上がりだ。

 私はただの――赤銅塔の計算役でしかないというのに。彼にとっても、誰にとっても。


「……ふふ」

「先輩?」

「いえ、失礼しました。仰る通り、甘いものには目がなくて。ひとつ頂いてもよろしいですか?」


 そう言って、指を伸ばす。薄青の色がついた飴玉を摘まんで、そっと唇へ運んだ。

 溶ける前の飴のほのかな甘さに目を細める。

 少々はしたないが、舌で転がすように楽しんで、微笑む。


「美味しいものをご馳走様です。後は皆さんで。では、用事がありますので失礼いたします」

「え……ま、待ってください」


 静止に耳を貸さず部屋を出る私と入れ違うように、同僚の娘たちがコンラート様のもとに集まる。


「コンラート様、私にも飴をくださいませんか?」

「お菓子の事もよくご存じですのね」

「領地には美味しい焼き菓子がありまして――」


 さえずる令嬢たちに取り囲まれるコンラート様の様子を見ることなく、部屋を出て、塔を出る。

 ちょうど迎えに来た侍女と合流し、足早に塔から離れる頃には、飴はすっかり溶けてなくなっていた。


 舌の上に残るわずかな甘みは、ただの計算役の女には、もったいないくらいの美味だった。

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