第11話 楽しい思い出の価値を求めよ
夜会の翌日。
赤銅塔の根本、重厚な木の扉の前で立ち止まり、深呼吸する。
時刻は既に昼。中天の日差しが、赤銅塔の赤っぽい煉瓦の色を鮮やかに照らしている。
「こんな時間に出仕するのは久しぶりね」
独り言を呟く。わかりきった言葉をわざわざ口に出すのは、いわば時間稼ぎだ。
午前いっぱいかけて、昨夜の夜会の酒は抜けた。だが、少し浮ついた気分が落ち着いていないのだ。これでは計算を間違えてしまう、と思っても、ヒールの足音が軽いのを落ち着かせられない。
顔見知りの守衛に会釈し、塔の内部に入る。
ごまかしようもなく、昨夜は楽しかった。
レオシュ殿下をはじめ、夜会の参加者は皆尊敬すべき人々だった。思慮深く、穏やかで、機知に富む。互いに尊重しあっているからこそ、本質的な礼儀と歴史は外さずに、堅苦しくはないやりとりを好むような。
私にとっても、数字から世界を読み取ることについてあれほどに真剣に受け止めてもらったのは初めての経験だった。
コンラート様のエスコートが的確であったことが、楽しく過ごせた大きな理由であることも、もはや間違いない。
「……」
コンラート様のことを思うと、頬が少し熱い。
昨夜、別れ際のアレは……互いに酒に酔った故の距離感だ。彼の優しさを勘違いしてはならない。そう言い聞かせても、鼓動はどうしても早くなる。
「おはようございます」
「おはようございます、マルケータさん」
「あら。マルケータ様が私より遅いなんて、今日は雨でも降るのかしら」
「……何か良いことでもありましたか? なんだか楽しそう」
「そ、そうですか? ゆっくり休んだからかもしれません」
同僚たちと挨拶を交わし、席に着く。ペンを握り、今日も積まれた書類を相手に計算を始める。
……そんなにか? と思い頬を触るが、自分ではよくわからない。
「おはようございます、皆さん」
計算を始めてしばらくすると、ひときわ明るい青年の声が響いた。
ペンを止めずに計算を続ける。隣に座る気配。
「おはようございます、マルケータ先輩」
「……はい。おはようございます」
「遅くなって申し訳ありません。昨夜、夜会で話したことをまとめていたらこんな時間に。覚えている間に形にしないと忘れてしまうんですよね」
ペンを置き、コンラート様の無邪気な笑顔に向かい合う。思い出される庭園の景色と馬車の中――いえ、後者は忘れないと。
答える言葉は、今日はあまり悩まなかった。
「あれだけ多くの話題を話せば、そうなるでしょう。……その。お招き、ありがとうございました。とても良い時間を過ごせました」
「こちらこそ。俺も、もちろん男爵閣下も、マルケータ先輩が来てくださって楽しかったです」
真っ直ぐに笑ってそんなことを言われると、良かったと思ってしまう。
笑顔が溢れてしまいそうな唇を引き結び、淑女らしい微笑みになんとか留めた。
男爵を強調するのは、あくまで下級貴族の友人の集まりであったという意図だろう。
「そう言ってくださると。男爵にはお礼のお手紙を書きましたが、改めて、とても喜んでいたとお伝えくださいますか?」
「承りました……が、そのまま伝える保証はありませんよ。彼ばかり喜ばせるのも癪ですからね」
「……ふふ。本当に仲が良いのですね」
そのまま、昨夜の感想などを少し語る。
挨拶を交わした人々、華やかで美しい庭園、そして美味しいお菓子のこと。
赤銅塔の中で計算と関係のない話をこんなにするのは初めてだな、と思考の片隅で苦笑した。
▼
「では頼むよ」
「はい、伯爵」
数日後の夜、私は伯爵の執務室で『雑務』を引き受けていた。
書類を整理する中でふと手を止める。
「これは青玉塔から、他国の貴族への贈り物の申請……」
青玉塔は外交を司る塔だ。今までならば塔ごとに書類をまとめていたが、例えば輸入と輸出のように、他国への財物の出入りという観点でまとめてみたらどうだろう?
あるいはどの商人が儲かるかの視点でまとめることで、最終的にどの領地の利益になるかを考察できないだろうか?
「……困りました」
困るくらい、楽しい。
ここ数日は、ずっとこのような感覚が続いていた。
先日の夜会で立場を異にする人たちと語らったからだろうか。色々な知恵を持つ人々と話したことで、数字の繋がりが広がって見える。そのせいで、普段の何倍も整理に時間がかかってしまう。
ああでもないこうでもないと書類と数字をいじくりまわしている内に、普段より随分時間が経ってしまった。ランプの中の蝋燭が短くなって揺れる動きで気付く。
「ん……そろそろ帰りましょうか」
あまり遅くなると、使用人たちが心配する。心配するくらいならいいのだが、今の状況で余計な情報が父に伝わるのは避けたい。
(そういえば、ドシェク公爵家との話はどうなったのかしら)
婚約破棄は既に正式な書状で通告された、決定事項だ。一方で、神に誓約する婚姻とは異なりあくまで両家の間のみのことだから、新たに婚約を結びなおす可能性もゼロとは言い切れない。父が奔走しているのは確かだが、最初の手紙以降新たな指示はなかった。
(――……いまさら、もう一度、と言われても困るけれど)
ユリウス様の性格を考えると、ありえないだろう。傍らに可愛らしいご令嬢もいたことだし。真実の愛だそうだし。
ありえないことを気に病んでも仕方がない。
手早く書類を整えると、ランプを持って廊下に出る。廊下はすっかり暗く、頼りない短さになった蝋燭を保つためゆっくりと歩いていくと、行く先から声が聞こえた。
青年と、女性の声。……コンラート様の声に聞こえて、咄嗟にランプの窓を閉じて光を隠す。
「……か、隠れる必要はないのですが」
耳を澄ませると、どうやら傍の部屋から聞こえてくるようだ。こんな時間まで赤銅塔に残っているとはどういう状況だろうか、と、自分のことを棚に上げてじりじりと声に近付いていく。
「……すから……、は……」
「どう……ですの、……ートさま……どうか……」
はしたないと思いながらも、扉のない戸口からちらりと部屋の中を覗く。
大柄な青年の背中。少し癖のある金の髪。やはりコンラート様だ。向かい合っている女性は赤銅塔の同僚で、コンラート様と同じ爵位である侯爵家のご令嬢だった。
ご令嬢がコンラート様に縋りつくように身を寄せ、彼の腕がゆっくりとその背中に触れる。背伸びしたご令嬢の顔が、コンラート様の顔に近付いて――。
私は隠れていた戸口から数歩下がる。石造りの床にできるだけ足音を響かせぬよう、その場を立ち去った。
胸を締め付ける感情に名前を付けないまま。
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