第3話 先輩と後輩の適切な距離を求めよ
基本的に、貴族の子弟の教育は家庭教師が行う。
各家系にそれぞれの歴史と必要な知識があるからだ。大貴族ならばなおさらである。
シャレク侯爵家といえば、五つの塔を支配する五大貴族に並ぶ、気鋭の大貴族。その子息を相手に、吹けば飛ぶような弱小子爵の娘が何かを教えるなどというのは無礼ですらあった。
だというのに。
「マルケータ先輩、この書類はなんですか?」
「その先輩というのをやめてください。そちらは緑鉄塔からの予算報告書で、これから計算に回されます。順番を変えないように」
「ですが実際に先輩ですし。計算した後はどうなるんですか?」
「先輩というのをやめてくださいませんか、シャレク閣下。私たちが下層階で計算した結果は上の階に送られて、統合され、御前会議に出るような方々の資料になるんです」
「尊敬すべき先輩ですから。それにシャレクの家督は兄が継ぎます。俺は独立する予定なので、どうか気軽にコンラートと呼び捨ててください、マルケータ先輩」
「ですから……!」
思わず声を荒らげてしまう。こちらを興味津々で伺っているご令嬢たちが身をすくめるが、当の本人はにこにこと笑っているだけだ。
その笑顔を見ていると、何を言おうとしていたかがわからなくなってしまう。熱を持った言葉になるはずだった息は、そのまま吐息としてこぼれた。
「はぁ……。……それでは、コンラート様、とお呼びさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「呼び捨てでいいんですけど……いえ、ありがとうございます」
「では私の事は――」
「もちろん先輩と。先輩のように綺麗な資料を作るにはどうしたらいいんでしょうか?」
手元に置いた紙を覗くように、コンラート様が身を乗り出す。少し癖のある金の髪と、整った顔立ちが……近い!
どこからか、『きゃー!』とか、『お美しい……』とか、淑女の黄色い声が聞こえてくる。助けてはくれないし、何やら怨みのこもった視線すら感じる。理不尽である。
「数字自体の大きさを揃えること、縦を合わせることです。そのためにはひたすら筆記、計算、慣れるしかありません」
「なるほど……経験が重要、なのですね」
視線を逸らし、さりげなく身を離しつつ答える。感心したような言い方に身をつまされてしまうのは、明らかに私の被害妄想だ。
「あらゆる数字がこの赤銅塔に集められ、そして塔の国のすべてに行き渡ると聞きます。その働きを支えているのが先輩たちなんですね」
「大袈裟ですよ。数字が集まるのは確かですが、国を動かしているのは最上位の貴族の方々です……コンラート様のような」
計算役はたいていの場合、弱小貴族の三男や娘たちの仕事だ。数年で別の仕事に就くか、結婚してしまう。
私の場合、ユリウス様との婚約は六年前。予定通りならば三年前には婚姻を結んでいたはずが、先方の公爵家で他の結婚や凶事が続き、後回しにされていたのだ。
気付けば、赤銅塔の計算役では最年長である。
「塔を建てるのに重要なのは基礎の石といいます」
「……私でなくともできる仕事ですから」
その後も、何くれとなく疑問を発するコンラート様に赤銅塔の成り立ちから計算方式まで説明しているうちに、瞬く間に夕暮れの鐘が鳴った。
ペンを置いた同僚たちが帰宅する中、コンラート様が胸に手を当てて礼を示す。私も慌ててスカートの端をつまみ……夜会用ではないドレスだからやりづらいが、小さな動きで……
「今日はありがとうございました、マルケータ先輩。聡明な方に教えて頂けて良かった。明日からもよろしくお願いします」
「こちらこそ。どう考えても、聡いのはコンラート様の方ですが……お役に立てたのなら」
「勉強になりました。ところで、この後友人たちだけで夜会の予定がありまして。よろしければマルケータ先輩も――」
「お誘い、光栄です。ですが、込み入った状況ですので今は遠慮させてくださいませ」
コンラート様の人懐っこい笑みが、残念そうな苦笑に変わる。頷きながらも『惜しい』と伝えるようなその仕草は、社交辞令とはいえ少々ずるい。
重ねて誘われてしまう前にと、早足で横を抜けた。
「私は雑務がありますので、失礼します」
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