第2話 侯爵令息を教育するコストを求めよ
翌日。
仕事場である赤銅塔で、私はペンを走らせていた。全力疾走の勢いである。
「三百クラウ、五百クラウ、千六百クラウで、合計が――」
赤銅塔は
私の仕事は計算だ。大勢いる計算役の一人として、とにもかくにも数字を足し合わせ、掛け合わせ、結果をまた足したり引いたりする。税、食べ物、道具、建材、武器、そして人――この塔ではあらゆるものが数字で表現される。たくさんの数字が踊る書面から数字を拾い上げては組み合わせ、新たな羊皮紙に書きつけていく。
普段よりも必死に計算する理由は二つ。
一つは昨夜の婚約破棄の衝撃を忘れるため。
もう一つは、ちらちらと注がれる視線や漏れ聞こえてくる噂話から意識をそらすためだ。
「聞いた? マルケータ様が……」
「公爵家から縁を切られるって、どんな……」
「それが、年齢らしくて……」
「お仕事熱心ですものねぇ……」
女性は噂話が好きだ。貴族も庶民も変わらない習性である。その内容が色恋沙汰であれば、大好物と言って良い。昨日の今日でずいぶん耳が早いものだと感心はするが、できれば聞こえない場所で話してほしい。
無心になるべく計算を続けるうち、数字に目が留まる。
「……武具と穀物が値上がりしている」
塔の国は山がちで国土が狭いため、輸入に頼る部分も多い。西方から入ってくる穀物と一緒に武具が値上がりしているのは、西方の他国で先日発生した戦が小競り合いで終わらなかったためだろうか。
「……ルケー……くん……」
だとすれば、西方からくる行商人が扱う品物はどうか。塔の国からの輸出は……。ええい、いちいち『三十』の数字に目を取られるな、私……!
「マルケータくん、聞いているかね?」
「……っ、はい」
数字の列から意識を引き上げる。
耳に届いたのは下層階の責任者、ズミノー伯爵の声だ。
「ふん、私の声が聞こえないほど何に熱中しているかと思えば……」
神経質そうな視線が、私の手元の書類を舐めるように見る。書類には『値上がり』『戦争?』の走り書き。嫌味を言うための話題を見つけたのが嬉しいらしく、嘲るように小さく笑った。
「君の仕事は計算することだろう? 余計なことを考える余裕があるとは、流石、
貴族の爵位も、塔での立場も、相手の方が上。粛々と頭を下げて見せる。
「……申し訳ありません」
「なに、君は頑張ってくれているからね。おっと、頑張らせすぎてしまったのが原因で、昨日は大変だったようじゃないか」
ズミノー伯爵も昨夜の顛末を既に知っているらしい。
昼過ぎにようやく塔に来るような優雅な生活をしている貴族は、流石に耳が早い。
「……塔を建てるのが貴族の務めですので」
これは塔の国における一般的な言い回しだ。花の国で言う〈
険峻な山々に囲まれたこの国は、塔を建てて目印とし、土地を見張り、人が集うことで発展してきた。故に塔は貴族の象徴であり、貴族は自らの知と力でもって国を守る。
(……はぁ)
ため息は内心で留めた。
この言葉を言い訳にして仕事にかまけ、人付き合いをおろそかにした結果が昨夜の婚約破棄なのだから、ズミノー伯爵の指摘もある意味では正しいのだ。
あまつさえその仕事も、余計なことをして嫌味を言われている。
(これでは、婚約破棄も仕方ない――)
「ふん。子爵の娘風情が、誰でもできる仕事で貴族を語るとは……」
ズミノー伯爵の言葉に、ぐっと喉が詰まるような感覚。反論の言葉ではなく会釈で切り抜けようとした時だった。
息苦しさを吹き飛ばすように、知らぬ声が降ってきた。
「それは彼女の仕事に失礼ではありませんか、ズミノー伯爵」
私とズミノー伯爵の間に割って入ったのは、人懐っこい笑みを浮かべた青年だった。少し癖のある金の髪、整った顔立ちには柔らかな表情。体躯は大きい。仕立ては良いが飾りは少ない、狩りに赴くような服がよく似合っていた。
その青年は、ズミノー伯爵が示した羊皮紙を取り上げて、視線を滑らせる。
「数字も綺麗だし、筆算の桁も整っている。これなら間違いにくいし、誤りを見つけやすい」
声は体躯から想像できるより少しだけ高く、若さを伺わせた。二十歳というところだろうか。
彼の青い瞳の視線が、羊皮紙から私へと移る。目が合ってしまい、微笑から目を逸らせない。
「何より……この報告は、見た人が数字の意味を理解しやすいように工夫されているのではありませんか?」
「は……、はい。そう……です」
誰にも指摘されたことがなかったことを問われて、思わず素直に頷く。
あらゆるものが数字で表されるからこそ、その数字が何を意味しているのかが分かりにくくなる瞬間がある。だから上層部へ上げる報告では、タイトルや単位、配置などで、数字が示すものを少しでも読み取りやすく記載していた。
青年は、ほらね、と言うようにいたずらっぽい笑みをズミノー伯爵へ向ける。伯爵は岩崩れを見たような表情を浮かべた後、咳ばらいをひとつ。
「あー……コンラート殿はマルケータくんが気に入ったようだね」
私ですら呆れるほど短絡的な解釈ののち、伯爵は爆弾を投げ込んできた。
「よろしい、マルケータくん。君にコンラート殿の教育係を命じる」
「……は?」
意味が分からずコンラートと呼ばれた青年を見上げると、彼は大きく頷いた。
何やら嬉しそうな笑顔だった。
「それはありがたい。コンラート・シャレクです。よろしくお願いしますね、先輩」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます