これからに続く-2 母さんの場合。

 母さんの場合、それは父さんの存在。 



「やっと……来れたな」

 墓石の前で合わせた手を離しながら、ぽつりとつぶやく母さん。その墓石には『諏訪家代々之墓』と刻まれていた。

 それは最後の対峙から二週間程後のこと。まだ街が元の姿を取り戻す前のことだ。

 その目は何を見ているのか、懐かしむようでもあり、哀しんでいるようでもあり、細めた瞳で墓石を見つめている。

「何時かは来なければと思っていたが、一人では無理だった。思えば……ここに来るのも怖かったのかもしれない」

 そこには一緒に供えられた花と一緒に一枚の写真が置かれている。

 映っているのは四人の家族。父親と母親と娘と息子。

「来るべきだとはわかっていても顔もわからない人間を悼むことはできなかった。それがまるで心まで奪われたようで、私は恐ろしかった」

 その言葉は語りかけるようで、しかしまるで独白のよう。

「だから……私は捨てたんだ。顔もわからない誰かと暮らし、結果産まれたのだろう子供達が何か恐ろしいものに思えて、私は遠ざけたんだ」

 立ち上がりながら独白は続く。その表情は静かだ。声にも感情は表れてはいない。

「住んでいたマンションはすぐに引き払って、すぐに別の場所へ移った。街の外へ出て、ここへ戻るつもりもなかったよ。幸い子供達の預け先はすぐに見つかったしな。頼れる親類はなかったが、昔からのよしみだった皇夫妻はすぐに了承してくれた。私達に何かあったのも感づいてはいたのだと思う。引き止めなかったのは言っても無駄だとその時の私を見て思ったんだろう」

 それ程に追いつめられていたんだろう。姉ちゃんが言っていた。何時からか母さんの話し方が今のものに変わったと。

「それで一人になったつもりが、志穂だけはどこから知ったのか私を追いかけてきてな。戻れと言っても聞かずに一緒にいてくれたよ。ろくに口もきこうとしない母親によくつきあってくれたものだ」

 きっと、姉は自分がいなければ母親は壊れてしまうと思ったのかもしれない。

「ちょくちょく皇の家には顔は出していたようだがな。弟を連れてこなかったのはできたばかりの友人と離せなかったからだったか。それに呆れるくらいの僻地にいたからな」

 そんなことを言いながら、母親は薄く笑う。そこには自嘲があった。その友人というのは、きっと今そばにいる双子達のこと。

「しばらくしてすることもないから調べ始めたんだ。自分の知的好奇心が恨めしいよ。少し落ち着いたら自分の身に起こったことがなんなのか気になって仕方なくなってな。だから調べた。昼夜も忘れて……思えば没頭することで忘れようともしていたんだな」

 それが何かとは聞くまでもない。

「そうして知った。杜人にある不条理の存在達のことを。そして、それを生み出した一族のことも」

 なら、初めから知っていたというわけか。

「あくまで推測に過ぎない。だが、その時の私にはそれで十分だった。かつての大和朝廷に外敵の烙印らくいんを押され、自ら作りあげた守り手を怪物に変えた人間達。ただの推測だとしても十分だった。ようやくはけ口を見つけることができたからな」

 話は続く。

 元いた街へと戻り、かつての教え子を通じて当時の巫であった隠塚ほずみに連絡を取ったこと。幸い、隠塚ほずみは、夫の別の妻の子供だから、という理由で隠塚修二を色眼鏡で見る人物ではなかった。それに二人は親しくもあり、取り次いでもらうことは難しいことではなかった。

 だが、隠塚ほずみに会うにあたっては隠塚修二の過去の恩師というだけでは理由としては十分じゃない。

 だから、一言つけ足した。


 娘を役目から解放する手段がある。


「疑ってはいたろうさ。だが、彼女は聞かざるをえなかった。娘達の未来を憂いていたあの子は無視できない。何せ誰も口にすることのなかった大元の原因を消し去る方法があると言われたんだ。無視できるはずがなかった」

 そうして隠塚ほずみとの会話を経て、確信を持った母親は告げた。


 楔と呼ばれる『こいけがし』という巨大な思念の中の一部。幾人もの巫がその心を犠牲とすることで植えつけた外には出てはならぬと留めるための意思であり、同時に巫とその子供をこの土地からけして離れさせないための無意識への鎖。

 それを留めるためでなく、消し去るために利用しろ。

 母親は隠塚ほずみにそうささやいた。


「成功しようが失敗しようがどちらでも良かった。私にとっては私の生をねじ曲げた全てが消えるか破滅するかすれば満足だった。そこに子供も大人も関係ない。関わった者全てにあがないを受けさせなければ我慢ならなかった」

 声を荒げたりはしていない。だが、その言葉の節々に隠すことのできない感情が見えた。

「憎くて憎くて仕方がなかった。私の一部を奪ったに等しい奴らが、何くわぬ顔で生きているのが許せなかった」

 その目は周囲を見ようとはしない。ただ目の前の墓石を向いたままだ。

「あの子は……娘のことを本当に嬉しそうに話してな」

 不意に、その顔が薄く笑った。なんの表情も見せなかったそこに浮かんだのは、思い出を懐かしむ優しいものだった。

「自分とその子供をも亡き者にしようとしている人間に……あの子はこともあろうに逃げろと言った。私にもこの街に住む子供がいると知って。事を起こせば少なからずこの土地は無事ではすまない。だから逃げろと。自分達の罪は自分達で贖うからと……二十歳を迎えたばかりの娘の言葉に、私は従った」

 かつての幼かった日、俺がおきにもう屋敷には遊びに来れないと告げたのは母が子供達を連れだそうとしたからだった。

「あの子が娘達のことを語る姿を見て、思い出してしまったんだ。自分にはまだ残っている家族がいると。見向きもしなかった子供達のことにその時になってようやく気づいた。ずっとそばに志穂がいたというのにな。そうして気づいた。私はこの子達すらも犠牲にしようとしていると」

 声に初めて感情が見えた。それは後悔なのだろうか。

「だが、今さら『隠塚』への復讐をやめるわけにもいかなかった。なによりあの子がやめるつもりはなかった。それが余計に恐ろしくなって……お前達を連れだしてこの街を離れようとしたんだ」

 だが、それはできなかった。

「連れ出すまでは良かったが、気づけばお前はいなくなっていた。気づいた志穂も探しに行ってしまった。行き先の見当はついていたさ。街に戻ったと、離れるのは嫌だと言って聞かなかった場所に戻ったとすぐにわかった」

 そうして十年前のあれは起きた。


「十年前から今日までの事は私が引き起こしたんだ」

 

 母親の——母さんのそらされていた瞳が、俺達を映していた。

「勇悟、志穂、お前達は何も悪くない。そら、おき、君達は何も悪くない——真に責められるべきは……私だ」

 その瞳はやはり静かで、やっぱり何を想っているのかはわからない。

「一つだけ……教えてください」

 口を開いたのはおきだった。

「十年……私のそばにいてくれたのは何故ですか?」

 その問いかけに母さんはすぐには答えなかった。

 普段のように煙草を取り出そうとすることもなく、おきの視線を正面から受けとめている。

 その顔が不意にそらされて、空を見上げた。

「そうだな……それは息子のことがあったから、そう答えてしまうこともできるんだがな。何故かな、私もうまく答えることができない」

 いつもは言葉に詰まることのない母さんが、あの祭壇での時のように何を口にして良いのかと迷っていた。

「ただ……君の母親への恩返しみたいなものかもしれない。忘れていた子供達をまた思いださせてくれたことへの。とっくに……取り返しのつかなくなった後だがね」

 答える母さんを見るおきが何を思っているのか。それまでの母さん同様、表情を見せない顔からはわからない。

 そして、おきの隣にいるそらもそれは同じだった。

 もう感覚をつなげるなんてことのできない俺には、その心を見るなんてことはできない。



「私は……あなたを許しません」



 告げられたのは断罪の言葉。



「だから……あなたにも贖ってもらいます。いつか、あなたの孫ですよ、お婆ちゃんって言いに行きます。それからお世話だってしてもらいます。これからの私達のことを相談させてもらいます。だから、それまで生きて、それからも生きて……私達の事を見守ってください」

 


 そして、これからも共にいてほしいという願い。



「悠子さん」

 その後に続いて口を開いたのは鏡映しの姉。

「悠子さんが……ほずみお母さんにしたことは、わたしも許せない。けど……それ以上に、今日までゆうやおき、わたし達を助けてくれてたこと知ってるから。助けようとしてくれてたこと知ってるから——だから、わたしもおきとおなじ。ちゃんとこれからもいっしょにいてくれなきゃ許さない」



 その言葉を聞いて、母さんがまた双子に視線を向ける。

 じっと無言で見つめた後、また空を見上げた。


 あの日もとても晴れていた。雲一つないきれいな青空。そして、俺達のいた山間の墓地からは、その下に広がる沖の向こうの同じ色の水面がよく見えた。


 母さんの手を姉ちゃんが握る。

 ずっとそばにいて俺達家族が壊れるのを防ごうとしてくれていた。小さな身体の中の想いはこれからもきっと変わらない。

 そして、その想いの向く先は共にいる双子達も含めて、これからもっと多くなるはずだ。


 花と一緒に墓に添えられた写真の中で幼い俺が笑っていた。それは姉ちゃんも、母さんも同じで——やっと姿を取り戻した父さんも同じで。

 次に来る時にはもっとたくさんの写真を添えに来よう。たくさんの母さんの笑った顔の映った写真を添えに。

 そんなことを考えていた。


「それは……大変だな。覚悟を決めて長生きするか」

 

 父さんがもう帰ってこないという事実は変えられない。結局、幼い頃の記憶が戻らなかった俺には父さんがどんな声でどんな人だったのかもわからない。

 ただ聞いた話から思い描くしかない。

 でも、一つわかるのは父さんは母さんを愛してくれていて、母さんも父さんを同じように想っていた。そして、そんな二人から生まれた俺と姉ちゃんはちゃんと想われていたということ。

 なら、俺の答えは前と変わらない。

 過去が気にならないわけじゃない。けれど、俺達が生きるのはこれからの明日だから。



 それは俺だけじゃなく、やって来た姿も同じはず。

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