1-3 無くしたのは鍵だけじゃなくて

 病院らしき建物を抜け出し、すぐにここが見慣れた杜人の街中だとわかった。

 さっきまでいたのは杜人市の中心近くにある杜人市立病院のはず。なら住宅街まではそこまで遠いわけじゃない。

 パジャマ姿で走る俺に周囲の視線が集まるが、気にしている余裕はないし、おもしろがってスマホのカメラを向ける奴らを止めることも今の俺にはしている暇はない。

 走る。

 ひたすらに走る。

 そして、見えた。そこには確かにあった。

 あって……くれた。

 皇の……俺が住み慣れた家がそこにあった。

 息を切らしながら、大量の汗を流しながら、はだしでかけてきた足は感覚があるのかないのか。

 思考がぼんやりとまとまらない。

 とにかく、見慣れた自宅に近づいていく。

 今、何時だろうか?

 まだ家には誰もいないような感じだ。

 家の鍵はないのでチャイムを押そうと指を伸ばす。知らず、指先が震えていた。

 

「何かご用ですか?」


 背後からかけられた声に身体が震えた。

 振り返る。聞き慣れた声、そして見慣れた姿がそこにいてくれた。

「……優、ねぇ」

 知らずつぶやいていた。まだ喉は本調子ではないが、自分のそのつぶやきはちゃんと俺の耳に届いていた。

 姉だ姉だと、たった三カ月の差をさも大層に語っていた小柄な姿。高二になってなお身長のまったくのびない自分を気にしてないと言いつつも毎日ぶらさがり健康法とかやっていたの知っている。

 見た目で判断されないように常に自分を鍛えつづけていたのを知っている。結局今までつきあわされた組み手で勝てたことはなかった。勉強だって敵わなかった。

 けど妬ましかったり、うとましかったりなんてしない。たまにウザい時はあるけれど、俺の自慢の姉ちゃんだ。

 安心からか、目の前がにじんだ。

 なんだよ、柄にもなく泣きそうになってるぞ俺。



「……失礼ですが、どこかで会ったことが?」



 安堵した俺に、優姉の言葉はまるで鋭い刃を突き立てられたようだった。

「なに、言ってるんだ?」

 身体中の血という血から熱を奪われたような。

「私の記憶違いなら申し訳ない。私はあなたと会った覚えがありません」

 全身から力が抜けそうだった。

 ぼろぼろと、俺の中でなにかが崩れていく。

「俺……だよ。わからないのか?」

 必死の問いかけも、優姉はただ困惑を見せるだけだ。

 なんだよ? 何言ってるんだよ?

「こんな……たちの悪い冗談いつから言うようになったんだよ? 昨日一緒にメシ食っただろ?」

「昨日は家族と食事をして、外には出ていません」

 そうじゃない! この家で一緒に食べただろ⁉︎

 思わず身体が前に出る。

「そこまで。そこで止まって」

 声だけで制止される。

 優姉? 警戒、している? 俺を?

 ぼろぼろとどんどん崩れて止まらない。

 わかる。ただ身体を半分後ろにずらしているだけ。

 それは構えだ。見慣れた優姉の武術の構えだ。

 今まで大事にしてきたものが崩れて、塵になっていく。

「俺だよ! なんでわからないんだ⁉︎ 昨日顔あわしてたばかりだろ‼︎」

 思わず叫んでしまう。

 我慢なんてできなかった。

「静かに。大声を出さないで。これ以上、騒ぐならこちらも容赦できなくなる」

 なんで、なんでそんな目で見るんだ?

 まるで俺を知らない他人みたいな目で見ないでくれ。

「勇悟だよ……忘れたのかよ」

 懇願だった。

 どうか俺の名前まで忘れたなんて言わないでくれ。

「……勇悟?」

 そして、俺の名前にはじめて今までと違う反応があった。

「そうだよ! 勇悟だ! 諏訪勇悟だ!」

 驚いたような表情を見せる優姉。さっきまでの張りつめていた警戒心が薄れたように思えた。

「やっと思い出したのかよ……なんだよ? ボケるには早すぎるし、冗談なら今のは本気で怒っていいやつだろ」

 優姉の反応につい気が緩んで、軽口が出る。

 近づこうとした。


 その時には視界が一転し、固い地面に組み伏せられていた。


「……目的はなんだ? 私か? 父さん達か?」

 その声には確かな感情があった。煮えたぎるようなこちらをけして許さないという怒り。

「金銭が目的ならこんなことはしないはずだ。意味がない。なら愉快犯か? 私の反応を見て楽しんでいたか?」

 静かに問いかける声は、冷静でいて、これ以上ないほどの怒気をはらんでいる。

 なにより俺を見る瞳が苛烈に燃えあがる怒りを現にしていた。

「答えろ」 

 優姉が組み伏せた俺の腕を締めあげる。痛みでうめき声がでてしまう。

「初めは病院から抜け出した錯乱患者かと思ったが――どこで知った?」

 怒りと聞いたことのない冷たさをはらんだ詰問の声が、俺の根っこの部分を削り取っていく。

 なんだよこれ? 俺……どうして心配してたはずの相手に本気で殺されかけてるんだ?

 答えを間違えば、こちらを殺しかねないほどに優姉の瞳は鋭かった。

「知ったも、なにも……俺は、勇悟だ!」

「! ――まだ言うか!」

 さらに締め付けを強くされる。――息がつまる。

「何度でも言うぞ……俺は、俺が諏訪勇悟だ」

「死んだ‼︎」


 は?


「諏訪勇悟は死んだ! 十年前に!」

「……なに言って――」

「勇悟はな、ゆうはな……」

 締めあげる力を緩めず、優姉が身体をふるわせているのがわかる。

 そうか、ゆう、て呼んではくれるんだな。

「事故だった。大型車両との接触事故だ。ひどい事故で何台も巻き込まれた。ゆうは、即死で……」

 しぼりだすような声だった。

「原形をとどめない程の状態だった」

 不思議と頭は冷めていた。

 理解のできない自分の状況と大事な家族に拒絶された事実。

 とどめはこれだ。

 もう考えることもできない。

 しかし、なにより――優姉が今、こんなにもつらそうにしていることが一番こたえた。

 すっと締めあげられていた身体が自由になる。

「すぐに消えてくれ。それで二度と現れるな。次、姿を見せたら……本当に容赦できない」

 こちらに抵抗の意思がないことを悟ったのか、俺から身を離し距離をとる優姉はそれだけを告げて沈黙した。

 俺は立ち上がり、黙ってその言葉に従った。

 けれど一言だけ。どうしても謝りたくて、振り返る。

「はやく行け!」

 懇願にも聞こえる怒声に俺はなにも言えず、その場から立ち去る。


 家の鍵をなくしただけかと思っていた。

 けれども違った。

 目がさめて、俺は帰る家も、自分すらもなくしてしまったらしかった。

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