re第2話

 我が家から若藤わかふじ紫香しいかの家までは、徒歩三分。

 親同士が仲が良く、俺も紫香が生まれる前から若藤家のことはよく知っていた。

 若藤家では、紫香の祖父が始めた洋食屋を経営している。

 ウチは父が夜の仕事、母が早くに亡くなったこともあり――

 徒歩三分の距離にある美味しい食べ物屋は、貴重な食事の場だった。

 紫香の祖父母や両親も、俺を可愛がってくれたものだ。


 勘定は父が月末にまとめて支払ってくれて、俺はいつも好きなものを食えた。

 店長でシェフの紫香の祖父――じいちゃんは、洋食だけでなく、メニューにない和食や中華まで食べさせてくれた。

 専門外の料理も美味かったし、あとで思えば栄養バランスも充分に考えられていた。


 そんな風にして半分は若藤家で育っていたが、その若藤家に本当に子供が生まれた。

 まだ小学生、十歳の俺の前に現れた小さな小さな赤ん坊。

 目がぱっちりしてて、よく笑う赤ん坊だった。

 まるで我が家のように若藤家に出入りしていた俺は、店で忙しい若藤家の人たちに代わって、赤ん坊――紫香の面倒を見ることも多かった。

 紫香が幼稚園に入った頃には、絵本を読んでやり、一緒にゲームを遊んで。

 風呂に入れて寝かしつけ、たまにそのまま泊まることもあった。

 遊びの合間に、幼い紫香にひらがなや足し算引き算まで教えたのは、今考えれば世話を焼きすぎたかもしれない。


 俺が高校生になってもまだ、紫香の世話は続いた。

 大学に入ってからは、――

 社会人になっても、未だに続いていると言ってもいいかもしれない。

 今朝のように、雨だというだけでわざわざ車で学校まで送ってるのだから。


「店長!」

「うおっ」

 ローカルファミレス『エンジェリア』一号店――その事務室兼控え室。

 俺は窓際の席につき、ノートPCでバイトのシフト表を調整しているところだった。

 シフト希望を元に、ほとんど機械的に作業しつつ。

 今朝の、紫香の――唐突な告白を思い出し、紫香とのこれまでの十六年間も思い出していた。

「な、なんだ、宇津木うつぎさんか」

「なんだじゃありません。店長、さっきから呼んでましたよ!」

「悪い。なんかあったか?」

「混んできたから、店長もフロア出てください。今日は――今日も人手が足りません」

「あ、ああ。了解、すぐに出るよ」

「お願いします」

 宇津木さんはそう言うと、きびきびした動作で控え室からフロアへと出て行った。

 ショートボブにした黒髪、小柄な身体。

 宇津木瀬名せなさんは、一号店のフロアリーダーだ。

 俺より一つ年下の二十五歳で、バイト歴も八年になる古参だ。

 ファミレスは店員の入れ替わりが激しく、定着してくれる人材は少ない。

 そんな中、宇津木さんのように長く働いてくれているベテランは貴重だ。

 しかも、宇津木さんは凛々しい顔の美人。

 黒ブラウスに黒のタイトなミニスカート、白いエプロンという制服もよく似合う。

 宇津木さん目当ての客が多いのも実はありがたい。

 彼女にそんな話をしたら「セクハラですか?」と怒られるだろうが。

 なにしろ、宇津木さんとは

 危険な軽口を叩くわけにはいかない。


 俺はフロアに出て、接客を開始する。

 宇津木さんと同じく、俺もかつては古参バイトだったので慣れたものだ。

 社長の方針で「接客はすべての業務に優先する」となっている。

 たとえ本社から緊急の連絡が来ていても、お客様を待たせてはならない。

 今は午後四時過ぎで、さほど混む時間帯ではないが、今日は忙しい。

 暇な時間帯でもなにかの弾みでお客様が増えることはあるので、油断は禁物だ。


「いらっしゃいませー!」

 バイトのウェイトレスが、出入り口そばで弾んだ声を上げた。

 まだ増えるのか、と思いつつもプロなので笑顔を浮かべてそちらを見ると――

「…………っ」

 思わず声を出しそうになった。

 入ってきたのは女子高生の三人組。

 その中央に――ひときわ目立つ長身の少女がいた。

 というか、紫香だった。

 あとの二人もなかなか可愛いのに、異様なほど目立っている――オーラが違う。

「…………」

 紫香もこちらに気づき、微笑して小さく手を振ってきた。

 それから、ひらひらと短いスカートを揺らして、店員に案内されて席に向かう。

「店長……? あのお客様は……?」

「いや、違う。近所の知り合いの子だよ」

 いつの間にか宇津木さんがそばに立っていて、小声でささやいてきた。

 なにか誤解されているらしいが、違う。

 いや、今朝あんなことがあったので全然違うとまでは言えないが。

「そうですか。知り合いなら、オーダーは店長が取ってあげたらどうですか?」

「……はい」

 なんだか宇津木さんは素っ気ない……というか、機嫌が悪そうだ。

 あまり気が進まないが、仕方ない。


「いらっしゃいませ」

「いらっしゃっちゃった」

「…………」

 ふざけた返事をする紫香。

 周りの女子も俺が何者かわかっているのか、くすくす笑ってる。

 俺は怯まずに笑顔でお冷やを並べていく。

「ヒカ兄、やっぱまずかった?」

「別にかまわないって言っただろ」

 俺は周りの席に聞こえないように、紫香にささやく。

「ご注文お決まりでしたら、ボタンでお呼びください」

「あ、もう決まってるよ。パンケーキとドリンクバーのセット三つで」

「かしこまりました。ドリンクバーはあちらにございます」

 ハンディで注文を打ち込み、ぺこりと頭を下げる。

「あ、店員さん」

「……はい?」

 立ち去ろうとして紫香に呼び止められ、やむなく振り返る。

「その制服、似合ってるね」

「……ありがとうございます」

 ちなみに、エンジェリアの男の制服は白シャツに黒ベスト、黒ズボンだ。


 俺はまた紫香たちの席へ近づいて。

「まさか、今朝言って今日来るとは思ってなかった」

「わたし、

「……そうか」

 俺は頷いて、今度こそ紫香たちの席から離れる。

 後ろから、はっきりと紫香の強い視線を感じてしまう。

 紫香のヤツ、早くも

 本当に、なぜこんな、“やるときはやる”“すぐにやる”性格になってしまったんだか。

 育てたヤツの顔が見たいよ。

 今朝の告白の件、どうやら逃げられそうにないな……。

 俺はフロアを出てキッチンに注文を伝え、そのまま控え室に戻って――


「はぁ、どっと疲れた……もう店仕舞いにしたい」

「馬鹿言わないでください、これからが稼ぎ時です」

 いつの間にか、宇津木さんも控え室にいて、俺を睨んでいた。

 なんか、宇津木さんって気づけば近くにいるんだよな。

「ずいぶん可愛い女子高生ですね。近所に住んでるだけですか? 店長がテレビのニュースになって一号店が潰れては困りますよ?」

「なにを想像してるんだ!?」

 俺が未成年との不健全な関係に及ぶとでも!?

「とにかく、そんなのじゃない。マジで親戚みたいなもんだ」

?」

「…………仕事に戻ってくれ。俺もすぐ戻る」

「権力の濫用ですね、店長」

 そう言いつつも、宇津木さんはフロアへと戻っていった。

 宇津木さんは店長の名参謀どころか、スタッフの一部は実質的な店長だと思っているまである。

 新米店長としては、彼女の意見は傾聴するべきなんだが――

 だけどこれは、プライベートな話だからな。

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